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daitai 1500moji ika no yume okiba.

記事一覧

  • アーサー・ボイル

    20220427(水)05:45
    ▼リヒテンベルク図形


     そのひとの声はいかづちのようだった。
     父は燃えた。母は燃やされた。私も燃やされんとしていた。身体の焼ける痛苦に悶えて部屋じゅうを転げ回る父は、家族だけではなく家をも道連れにする心算らしい。母であった炭化した遺体の傍ら、彼方此方に火が点く。炎が盛り、煙が満ちる。いずこかから聞こえて来た祈りの言葉は、しかし、私の死に寄り添うものではなかったと知る。「ラートム。」直ぐ目の前に迫っていた“焔ビト”に突き立った、蒼い光。特殊消防隊の象徴たる発光体よりもまばゆく輝くそれは、静かに燃ゆる刃であり、父の墓標となった。鎮魂を担った年若い消防官は透かさず私を抱え上げて業火の中から落ち延びようとしたが、蹲って拒んだ。全てが灰に変じてゆく。全てが失われるならば、いっその事。火中にて心中を望む私を、無理矢理に肩に担ぎ上げられて尚下ろしてと喚いて殴って蹴ってとする重荷の私を、そのひとは落っことさずに地獄を突き進む。轟いた言葉が、火を伏せた。
     あれから数ヵ月が経った。火傷と共に負った喪失の傷は未だ生々しく、肉体よりも精神を苛んでやまない。けれども絶望の度、身体をいかづちが打つ。
     生きろ、と云う。

     
  • 新門紅丸+相模屋紺炉

    20220427(水)04:24
    ▼後ろの正面だあれ


    「怪我はしてねェな。」と。このあられもない光景を前にして発された第一声がそれであったものだから、私も、私を抱きとめてくれた紺炉さんも、意外や意外と形になろうとしていた弁解の言葉を失ってしまった。私室と言う閉ざされた空間で、日頃から好いていると――充たされずとも――言動で伝えている女が、背後から他所の男に抱き締められている、とあってはもう少し狼狽えても良さそうなものだが。
    「疚しい事があったのではないか、なんて思わないんですね。」
     真相をつまびらかにすると、紺炉さんの包帯を換え終わって立ち上がったところで足を縺れさせた私を紺炉さんが助けてくれたと、それだけなのだが。紅丸さんは私の片手を取って、己がもとに引き寄せながらに言う。
    「紺炉だからな。他人の女に手出しするなんて間男みてェな狡っ辛い真似、しねェよ。」
    「そうだな。他人の女だったらな。」
     ――ん? 疑問符が紅丸さんと私の頭に浮かぶ。紅丸さんを焚き付けているにしては迫真に過ぎる。私のもう片方の手を包んでみせた大きな手の、名残惜しそうに絡まる指先の所作の甘さたるや。紺炉さんの真意知りたさに首が振り向きたがる。そうせずとも、知れた。紅丸さんの眼窩に嵌まる真っ赤な鏡は真ん丸く見開かれて、初対面の人間を映しているようであったから。

     
  • 五条悟

    20220418(月)05:56
    ▼おそろい



    「下着が、上下不揃い、なので。」
    「そっか。じゃあ、どんなコーディネートして来たのかじっくり見せてよ。」
     如何な策も苦肉の策も最強を誇る男には通用しないのだ。悟さんの私室にでんと置かれたキングサイズベットの上は一国の領土かのように広々としているのに、逃げ場なんて何所にも無いと思わされる。ならば籠城の一手だ。アルマジロを参考に三角座りをして守備を固める。膝小僧の擦り傷と向き合う事になってしまった。これと同じような擦過傷は肘から腕にもある。打撲傷は背中と脇腹とにある。呪術師稼業の過酷さを考えると充分無事の範疇だ。硝子さんに治療を頼もうにも気が引ける程の極々軽い怪我だ。けれども、身体じゅう至る所に創られたそれ等に、この場にあっては肉よりも精神が大きく傷付くのだ。
     瑕疵一つ存在し得ない悟さんの肉体の美しさには、完璧の誉れが相応しい。其所に如何して襤褸を重ねられよう。
     身の程知らず、烏滸がましい。そんな悪罵の聞こえる泥濘に沈もうとする思考が、ピリリとしたささやかな痛みによって引き上げられる。赤黒い瘡蓋に覆われた膝頭が、短く切られた爪で飾られた指先に弄られている。骨張って固い人さし指を、それの持ち主のご尊顔をじろりと睨め付ける。ひん曲がりの視線の先で、悟さんは寛容であった。
    「本気で嫌がるなら無理強いはしないよ。」
    「嫌ではありません。恥ずかしいだけです。――身体、傷だらけだから。」
    「別に気にする事ないのに。」
     気にするでしょう、との反論正論はいとも容易く封じられてしまった。重なり合ったのに体温も移さぬ内に離れていった唇が、そうっと、掬い上げた私の爪先に口付けを施す。
    「今から君が、この手でお揃いにするんだからさ。」


     
  • 相模屋紺炉

    20220418(月)03:43
    ▼まあきんぐ


     ――嗚呼、でも、如何しよう。肉厚の胸板に手を添えたところで気が付いて、身体は二進も三進も動かなくなってしまった。この儘知らん顔で抱き付いてしまえ。いやいやそのような厚かましい顔は出来ぬ。欲と理性との肉体の主導権をめぐる熾烈な鬩ぎ合いは、するり、硬直した腰に回された腕によって仲裁された。
    「焦らすのがうまいな、お前は。」
     くつくつと、相模屋さんは愉快気に喉で笑ってみせて、私の腰に纒わる手に力を込めた。ぐいと呆気無く引き寄せられる身体、を、無理矢理に捩る。彼の胸もとに、藍色の火消し装束に額が鼻先が頬が一つも当たらぬように一所懸命に顔を背ける。
    「なんだ。もう気が変わっちまったか。」
    「そうではなくて、」
     逃げる素振りを見せようともびくともせずに、腰から尾骨の辺りを手の平全部で撫でて来る。逃がす気が、ない。私だって逃げたくないのだけれども。
    「法被を汚してしまいます、から。白粉、付いてしまいますよ。」
    「それで躊躇ってたのか。白粉くらいだったら叩けば落ちるだろうが――」
     ふむ、と考える間は一拍だけ。相模屋さんは颯と肌脱ぎとなるなり、改めてこの腰と、背中とを確と捕まえた。これならば気兼ねもないだろうと、ぎゅうと力強く抱き締められる。法被に腹掛けが隠れるにしても、藍よりも黒の方が目立つだろうに。

     
  • 新門紅丸

    20220417(日)04:30
    ▼だいじだいじに


     人さし指の先にくるりと巻かれた絆創膏の、指の腹にあてられた綿紗に血は薄らとも滲んでいない。詰まりはそれくらいの切り傷だ。だと言うのに、紅丸さんは私の腕を掴んでは、急ぎ救急箱の在るところに連れて行って手当てを施してくれたのだった。指に絆創膏を巻き付ける手付きと言ったら、破壊王の豪胆さは浅草を出てしまったのか、と此方が心配になる程のまめまめしさであった。薄皮一枚をも大切にされるとなると、何よりも居心地の悪さが先立つらしい。これならば、唾でも付けて置けば治る、と突き放してくれた方が調子も狂わずに済んだろう。
    「紅丸さんも過保護ですよねえ。」
     私を傷ものにした書類の一枚を、紺炉さんに手渡す。お使いを頼んだ通りに第七特殊消防隊大隊長の署名が刻まれている事を颯と確かめると、彼は書類仕事で疲労の溜まった目頭を揉み解した。
    「過保護、か。俺にはどうにもそうは見えねェな。」
     深々と吐き出された長息は、文机の上に築かれた白紙の山の頂きの遠さに嫌気が差してのものに違いない。けれども、視線が絆創膏にとまると端々に彩りを散らすように抑揚がついて、それは込み上げる笑いを何とか堪えている風にも聞こえた。
    「あれは、愛妻家、って言うんだ。若はお前がよっぽど可愛くてならねェんだろうよ。ったく、熱くて参るな。」


     
  • アーサー・ボイル

    20220408(金)05:40
    ▼キャンディ・レイ

     カリム中隊長から仰せつかったお使いを済ませるべく、早速第8特殊消防教会の門戸を叩いた、その時だった。
    「レアキャラがいる。」
     ドアハンドルを掴もうとする手を止めて、声のした方向を振り向く。正面玄関口より横手。マッチボックスが格納されている方からひょっこりと覗いたその顔は、台詞と声音にも表れている通りにちょっぴり嬉しげであった。太陽神様の加護を一身に受けている、と言われても納得してしまえる程にまばゆく輝く金の髪と美貌を持つ男の子が、威風堂々たる歩みで以て此方に近付いて来る。アーサーくん。挨拶に代わって彼を呼ぶと、フッ、と己が名を誇るように笑った。掃き掃除の最中だったのだろうか。竹箒を手にしてはいるが、枯れ葉の一枚も巻き込んでいないそれを肩に担いでいる姿は、先迄チャンバラごっこに興じていたやんちゃな童子にも見える。元気で結構な事だ。
     世話焼きのお友達であるシンラくんの気苦労を他所に気楽に笑っている、と。アーサーくんの空いている方の手が持ち上げられた。ドアハンドルの前で宙ぶらりんとなっていた私の手が、握られる。握られ、小さく上下に振られる。
    「アイテムは落とさないのか。」
     あいてむ。RPGゲームに出て来るモンスターのように、と言う事か。そうなのだとしたらこの謎めいた動作は攻撃の心算なのだろうが、まるで痛みがない。
     いとけない手繋ぎとしか思えぬような事を平然と為す彼に渡すには、これは丁度良い代物やも知れない。ポケットを探って、後輩や出会った子どもに渡す為に持ち歩いている甘い甘い飴玉を一つ差し出す。
    「手持ちはこれくらいしかないけれども、良ければどうぞ。」
    「何でも良い。姫君から貰えるのならば、何であっても騎士には誉れだからな。」
    「レアリティが崩壊しているなあ。」
     と言うよりも、姫を倒してアイテムを掻っ払おうとしていたのか、この騎士王様は。苦笑いが漏れ出る私の顔をまじまじと見詰めると、アーサーくんは直ぐに「王。騎士王。」と訂正した。気にするところは其所なのか。苦味を可笑しさが淘汰するも、矜持を持って生きる彼がまぶしかった。
    「では、此度の戦果としてこちらをお納めくださいな。騎士王様。」
     私の手を握り締めていた手が、離れ、受け皿を作る。そうっと載せた飴玉は、騎士王様のたなごころで宝石のように振る舞っていた。
     ぎゅう、と。誰にも渡すまいと懸命に守護するように、アーサーくんは飴玉を握り込む。そんなにしたら溶けちゃうよ。上気している顔を見るにつけて、尚更、心配が募る。

     
  • 新門紅丸

    20220313(日)04:32
    ▼ご近所の最強のお兄さん


     第七特殊消防詰所の前で、腰に手を当てて仁王立ち。その男の人は右に行こうか左に行こうかと一寸だけ考えているらしく、私からすれば無防備な姿ったらなかった。その腕と脇腹が形作る三角形の空間が失われない内に、狙いを定めて頭を突っ込む。すっぽり。
    「大将! やってる?」
    「うちは蕎麦屋じゃねェって何度言やァわかンだ。」
     頭の斜め上から降って来る紅ちゃんの台詞と言ったら、耳に胼胝ならぬ口に胼胝と言う風情すら感じられる。幾ら呆れた声を出されたとて、楽しいのだからやめられない。目一杯の笑顔に気持ちを託して紅ちゃんを仰ぐ、と。暖簾に見立てた藍色の袂がするりと持ち上がって、かと思えば目の前に被さって来るではないか。捲り上げる間も無く、こつり。頭の天辺に肘を突かれて小休憩の場とされた。
    「紅ちゃん、重いー!」
     きゃらきゃらと笑ってばかりで文句が文句と成っていないのはご愛嬌。重い、とは戯れに言ってみただけで、体重なんて碌すっぽ掛けられていないのだから。紅ちゃんも戯れているだけなのだ。浅草の皆んなが束になっても敵わない凄い強い人なのに、子どもの私ともこうして同じ目線で遊んでくれる。紅ちゃんが大好きだ。頭の天辺に掛かる少しの重たさににこにことしてしまう。紅ちゃんは腕の置く位置で私の身長でも測っているかのようにじいっと動きを止めて――それは、かのように、ではなかったらしい。
    「お前、背丈変わらねェな。ちゃんと飯食ってんのか?」
    「紅ちゃんがそうやって押さえるからですう。」
    「自分から首突っ込んで来て言うじゃねェか。」
     ぐいぐいと旋毛が押さえ付けられた。それが存外と愉しそうな様子であったから、「わあ! 重い、重い!」だなんて、まるで胸の内側の一等弱いところを直に擽られたかのように大きな笑い声を上げる。それも長くは続かないのだけれど。中腰で騒ぎ立てるなんて、直ぐに疲れてしまう。撓う背中と腰に痺れにも似た辛い感覚が広がり始める頃、す、と。紅ちゃんは載せていた腕を退けてくれる。そうして、この真紅の瞳には皮膚の下どころか心の中だって丸見えなんじゃあないのか、などと馬鹿気た事を思ってしまう私の頭をくしゃくしゃと撫で回すのであった。何時もの、るうちんわあく、と言うやつだ。ひと頻り撫でてくれた手を袖の中に仕舞ってしまうと、紅ちゃんは顎を小さくしゃくった。
    「俺ァ行くからな。お前ェも手習いがあンだろ。早く行きな。」
    「はあい。」
     良いお返事をして、手習いのお教室の在る方向につま先を向ける。一歩、踏み出す前に。
    「紅ちゃあん! またね!」
    「わかった、わかった。遅れるとまた叱られるぞ。」
     そうだった。この間、少しだけ、の心算で紅ちゃんの後に付いて行ったら案の定少しでは利かずに、それはもう大層な遅刻をして大きな大きな雷が落とされたのだった。紅ちゃんはその時も、手習いは良いのか、と気に掛けてくれたのに。次に同じ真似をしたら、紅ちゃんと遊ぶ事だって禁止されるやも知れない。ぶるり、身震いも治まらぬ内に駆け出す。角を曲がる一瞬にちらりと振り返ると、紅ちゃんは私の影が見えなくなる迄見送ってくれていた。転ぶなよ、と。笑っているような唇に、嗚呼、大好きだなあ。

     
  • 相模屋紺炉

    20220301(火)04:33
    ▼邪魔立てご無用


     橋袂にぼうっと佇む年老いた柳の木の枝が、ひゅうどろどろと吹いた夜風魔風に揺れる。手提灯のみを頼りとする明かりの乏しい夜道にざわめく葉擦れ、それは無念のうちに死した女の鬼哭啾々たる啜り泣きにも聞こえるが。
    「紺炉さんは怖くないんですか。」
    「なんだ、怖いのか。丁度良く片手が空いているが、入り用か?」
     提灯を提げていない方の手が、ほれ、と差し出された。血の気が引いても、震えてもいない。怖がっていない。折角のご厚意に甘えながら確認すると、先頃から胸に抱いていた疑問は俄に大きく膨れ上がった。
    「御存知でない筈はないでしょう。この時間のこの辺りには幽霊が出る、て噂。」
     ぴくり。骨太の指の僅かに跳ねるのを繋いだ手が感じ取ったが、振り仰いだ横顔は毅然と前を向いた儘だ。
    「――怖くないんですか。」
    「だとしても、お前にみっともねェ格好は見せられねェよ。」
     私の手を引いて、紺炉さんは矢面に立つようにして一歩先をゆく。出ると噂の柳の植わっている所に近付く毎に、汗ばむ大きな手の平、力の籠る指先。怖いのに怖いものから守ろうとしてくれる、このひとにはまったく恐れ入るばかりだ。くすくすとした笑い声を何とか喉に秘めつつ、柳の木のそばを通り過ぎ去る、その時にひと睨み。邪魔立てご無用だと、口の形で告げると風は止んだ。

     
  • 伏黒甚爾

    20220228(月)05:11
    ▼雪花ふるふる


     雪の降るさまを、しんしんと降る、なんておとなしそうに言うが、斑雪が傘にぶつかる音と言ったら如何だ。まるで砂利をまぶされているようで、雨粒の方が余程風情を理解していると言えよう。糅てて加えて、歩く毎にビニール傘は白くなりゆき、視界は悪くなるわ傘は重くなるわ手は悴むわ。けれども、今日の雪空のもとに在っては、私はその最悪の全てとは無縁でいられた。
    「手、霜焼けになっていない?」
    「部屋に帰ったら温めてくれるんだろ。」
    「それも悪くはないけれども、直ぐにお風呂を沸かしましょう。そっちの方が余程温まるわよ。」
    「オマエは?」
     冷えていないか、と尋ね掛けられているのであろう。傘を大きく此方に傾けて、私が少しも雪を被る事がないようにして尚、気遣ってくれるとは。雪模様の為に早々に退社した私を駅迄迎えに来てくれた、それだけでも充分な程なのに何ともサービスが良い。宿主、やっているものだ。
    「可愛い可愛い甚爾くんのお陰で冷え知らずよ。」
    「冷え知らず、な。風邪でも引いてるからか?」
    「お生憎と平熱よ。色男に、可愛い、は不服だったかしら。」
     でも、だって、可愛いげがあるのだから仕方が無い。傘の庇から出た甚爾の、薄らと白くなっている肩を覗き込む。何時ぞやに買い与えた厚手のコートを羽織っていようとも、見るだに寒々しい。献身と映るそれも処世術の一つなのだと心得てはいても、一歩、傍に寄る。傘の傾きは僅かに水平を取り戻して彼の肩を少しばかり覆ったが、これ以上近付いてはお互いに歩き難かろう。
     ハア、と。甚爾の目の前に吐息の綿雲がぷかりと浮かんだ。降るは、呆れだ。
    「ヒモ相手に殊勝な気遣いするじゃねぇか。」
    「可愛いから、つい、ね。」
    「可愛いと得だな。」
     ビョウ! 突如として傘の中に吹き込んだ一陣の向かい風が、二人の身体に雪礫をぶつけて去ってゆく。寒い。素直にそう身震いと共に呟いたならば、きっとこの世渡り上手――女渡り上手か――の男は、着替えと一緒に冷え切った手で私を抱え上げては浴室に籠るのだろう。空も凍てつく日だ、それも良いか。
     吹雪に乱された黒髪の下の、端正な顔立ちを振り仰ぐ。その睫毛に飾られた雪の一粒の美しさたるや。誘い文句も忘れてしまった。まばたきによって薄氷の飾りを振り落として、甚爾の黒瞳が私のうつけ顔を射抜く。
    「何だよ。」
    「ううん。清少納言の気持ちがわかりそうだなあ、て。」
     誰だそれ、と怪訝そうな顔付きをして、甚爾は頭を振るってコートをはたいて、序でに私の前髪にしがみ付いていたらしい雪の欠片をそうっと撫でて落とした。

     
  • 学生夏油傑

    20220225(金)13:30
    ▼山中通りのクレープ屋さん


     学生服の上に着込んだ厚手のコートの前を開けて、両の前身頃を広げる。丹頂鶴の威嚇にも似たポーズだ。
    「さ。ずずい、と中に。」
     丹頂鶴の生息する北海道の地はこれよりも寒かろうが、都会生まれ都会育ちの人間には夜の山の寒さでさえ堪えるのだ。共に任務を命じられた夏油くんが頻りにまばたきを繰り返しているが、その訝りようは、開かれた唇から浮かんだ白い呼気にも滲んでいる。彼の目の高さを浮遊する薄霧、それが得心がいったと言うようなしみじみとした呟きによって深くなった。
    「私はそれほど寒くないよ。だから前を閉めないと、君の身体が冷えるだろう。」
    「私が、既に底冷えがしているんです。呪霊が出て来るまで懐炉になってください。」
    「ここに来る前に、背中にカイロを貼っていたように見えたんだが。」
    「前面の防備が手薄で参っているんですよねえ。」
    「手を繋ぐのでは駄目?」
    「そのように問答をしている間にも身体が冷えてゆくのですけれど。」
     カム。ヒア。ぱたぱたと身頃をはためかせる。動かす毎に風が巻き起こり、足もとからスカートの中に氷の塊を差し込まれるかのようで、寒い寒い。暗闇に巻かれていてもはっきりと見える程に躊躇っている夏油くんに、これは我慢比べになるかと思われたが、「お邪魔します。」と。覚悟していたよりもずっと早くに身を寄せて来てくれた。言っても聞かない私の身体を気遣っての事なのだろう、なんて、考える迄もない。夏油くんの大きな身体に抱きつく。其所で、私は誤算に気が付いた。コートでくるんであたためてあげたかったのに、体格が違い過ぎて上手に巻き込めない事に。
    「何だか、具が盛り盛りのクレープみたいな事になっていますね。」
    「自分でやっておいてそんなに笑う?」
    「夏油くんのクレープかあ。小豆、いや、チョコレート? 生クリームは増し増しでしょうねえ。」
    「随分と甘いイメージを持たれているんだね、私は。」
    「だって、夏油くんは甘いじゃあないですか。私には、特に。」
     背中に回った腕によって、よくおわかりで、と言わんばかりに身体を抱き寄せられる。厚ぼったい学生服の隔たりだって少しの時間で越えて来る、夏油くんのあたたかな体温が胸にじわりと染む。私もお返しがしたくてぎゅうぎゅうと抱き締めると、「苦しいよ。」、夏油くんは中身をシラップ漬けにされたかのような声で甘く甘く笑った。

     
  • 新門紅丸

    20220208(火)03:19
    ▼ヌーカレから決めていました


    「紺炉には随分と気ィ許してんだな。」
     平坦と言うべきか、平淡と言うべきか。不機嫌ではなさそうだが今一感情の読み難い声に振り返ると、其所には声音と同じ表情でいる、新門大隊長の姿が在った。じい、と。熾火の色をした瞳に見詰められると、火を忌避する獣のように自然と足が後ろへと下がる。
    「その、相模屋中隊長は、親戚のお兄さんのようで、親しみ易くて――」
    「俺は破壊神様だからおっかねェかい?」
     鼻で笑い飛ばしたのは、私の怖じ気ではなく、大それた渾名の方なのだろう。だとしても、片方だけ吊り上げられた唇の皮肉気な形にも腰が引けてしまうのだ。
    「……そんなに恐がらなくても取って食いやしねェよ。第8とは盃を交わした仲だ、悪いようにはしねェ。」
    「いえ、あの、違うんです。」
    「違う?」
     何がだ、と新門大隊長は袖の中に手を仕舞って腕を組み、小首を傾げて私の正答を待っている。些細な仕草の一つにも、心を象った心臓が大きく揺さぶられる。遂に私は手で顔を覆ってしまった。指と指の隙間から溢れてゆくは、いっぱいいっぱいで絶え絶えとなった吐息だ。
    「新門大隊長、かっこうよすぎて、ちかよるのがおそれおおいんです……。」
     手の平で顔に熾った熱を受け止めている、と。ト。足音がする。気分を害して踵を返した、遠退いてゆく足取りが立てるものではない。間近にお出でなさった新門大隊長が、小さく笑う。
    「お前ェが近寄って来ねェから、こっちから来たが。さァて、鬼ごっこと洒落込んでみるか?」
     かんべんしてください、推しの意地悪はご褒美なんです。

     
  • 相模屋紺炉

    20220207(月)17:53
    ▼お変わりあそばして


    「酒は足りているか?」紺炉さん! 俺達がやりますから座っていてくだせェ!「若い奴等こそ座ってな。食うモン、ヒカヒナに掠め取られちまうぞ。」あいつら、韋駄天みてェに素速いからなァ! 食いっぱぐれて夜中にベソかくぞォ、若いの!「そう言うこった。こっちは気にせずにやってな。」いえ、いえ、俺は紺炉さんに憧れて火消しになったんだ。あんたがあくせく働いて回っている横で、デカい顔で飯が食える筈がねェ。酒だけでも運ばせてくだせェ!「お前ェも律儀だな。まあ、人手は多いに越した事はねェから助かるが。それじゃあ、また足りなくなった頃に頼むとするか。」はい! 喜んで! 紺さん、こっち座んなよ、働き回ってるのは確かなんだから、少し休憩して行ったらどうだい。「うちの嫁さんの方が余っ程働いてくれてんだ。旦那がぐうたらしてたら、それこそ愛想尽かされちまうだろ。」夫婦揃って働き者だなァ、ここン家は!「――ああ。若いの。手伝ってくれるんだろ。行くぞ。」はい! ……あれ、紺炉さん、身長、縮みました?「馬鹿言え、お前がデカくなったんだよ。」紺さんは何年も昔っから、タッパ、変わらねェよなァ。「そう言や体重も変わってねェな。」飯の食い過ぎはしねェし、紅さんみてェに大酒飲みでもねェもんな、それだけ節制出来てりゃァ腹出る心配はねェな!「これまでだって特別気を付けている訳でもなかったんだが……それでも、若い嫁さん迎えたからには見栄張っててェもんだな。」ハハッ! 然しもの紺さんも、惚気だけは節制出来ねェってか!

     
  • 新門紅丸

    20220203(木)05:06
    ▼当たるも八卦、当てるも八卦


     金魚屋のおじさんが新しく始めた商売は、金魚占いなるものであった。金魚を掬った時のポイの破れ方で運勢を占うんだそうな。これが中々に好評で、今日も今日とて、未来を示す金魚様が泳ぐ水槽の前には悩める女の子が集っている。
    「占いに凝るな、女子供は。」
    「新門さんは嗜まれませんか。」
    「そもそも俺ァ信心がねェからな。ああ、験担ぎくらいはするか。」
    「もしかして、この間、カツ丼を食べていたのは博打を打つ前だったからですか。む、」
     無益な、と続けてしまわぬように口を噤む。くだんの日を反芻して噛み締めているらしき苦あい顰めっ面を見る迄もなく、結果はわかり切っている。このひとの比類なき強さは賭け事相手にはまるで形無しなのだ。カツ丼の一杯では覆りようもない程に。この際、占いにでも頼ってみたら良ろしいのに。それは無粋か、と思い至ったところで、女の子のキャアと言う黄色い声が場を沸かせた。何かとても喜ばしい兆しが現れたのだろう。女の子は勇気付けられ、おじさんも懐がほくほく。良いご商売だ。
    「熱心に見ているが、占い、お前ェもやってみてェのか。」
    「私は事足りています。テレビで観た今朝の占いで一位だったので。」
    「そいつはめでてェな。で、何だって?」
    「恋愛運が特に良好で、好きなひととお昼ご飯をご一緒出来るかも、だそうです。」
     へェ、と打たれた相槌は、そんな事で喜んでくれるのか、と言っているようで。そうだ。このひとは、願いを叶える側に立つひとなのだ。一度、天を仰いで太陽の位置を確かめた赤い瞳が、行く道を映す。馴染みの定食屋に続く道だ。
    「腹、減ったな。飯でも食いに行くか。」
    「はい。喜んで。」


     
  • (新門紅丸)+相模屋紺炉

    20220203(木)03:18
    ▼お呼びでないの


     あー、ね。ハイハイ、それで、右に行って?あれ?左?もっかい!もっかい言ってくれたら覚えるから!ね!馬ッ鹿、お前、お姉さん困ってんだろ。いやぁ~、ゴメンね~。俺ら頭悪くてさぁ。で、あのさ、悪いんだけど一緒に来てくんね?俺ら浅草初めてだから道とか全ッ然わかんなくて!ネッ!お願い!
     ナンパかよ! 態とらしく頭を下げて両手を合わせる男も、その隣で此方の様子を具に窺っている初めに声を掛けて来た男も、目的は端から女漁りであったらしい。下卑たにたにたとした笑みが目に頬に唇にへばり付いている。人がこれだけ懇切丁寧に道案内をしていると言うのに巫山戯けた話である。
     此所、浅草の地が誰によって治められているのか。知らないのか、将又、知っていて舐め腐って掛かっているのか。何にせよ、このような場面が我等が破壊王様に見付かっては事だ。命知らずの観光客達には命ではなく金を落として貰わなければならないのだから、穏便にお引き取り願わなければなるまい。しかし、町に滞在している間に常習的にナンパを企てられるのも困りものなので、後の事は誰彼男の人に――灸を据える為にも出来れば強面の火消しの人に――任せようと算段して、道の先を指さす。
    「私ではご案内は難しいようです。そこの道を真っ直ぐにゆくと詰所が在りますので、」
     言葉が乱暴に打ち切られる。隙だらけの手首が掴まれた。強引に引っ張られる。体勢を崩して踏鞴を踏む。後ろから肩を押されて、男二人掛かりで連行される。振り払いたいが、獲物に噛み付いた手は力強くて、何の心得もない女では抵抗が叶わない。お姉さんが一緒に来てくれたら良いだけじゃん。そーそー、一緒にイこうよ。そうげらげらと嗤う声、が、立ち所に萎んでゆく。道に藍色の厚い壁が立ちはだかっていた。
    「テメェら、命が惜しかったら今すぐにそのひとから薄汚ェ手ェ離して貰おうか。」
     紺炉さん、と。唱えた名前は、厄除けの真言かのよう。私の身体を捕らえていた不埒な男達の魔手が大慌てで去り、靴底が地面を躙る音が逃げ腰を表している。地獄の底から響いて来たかと思うような凄味を利かせた怒り声が、それ以上何かを吼え立てる事はなかった。ぎろり、と鋭い青瞳がひと睨み。沈黙で以て恫喝する。この町の誰もが、かの破壊王ですら例外でなく縮み上がるのだから、異邦人がこの人の憤怒相を前にして何が出来よう。それでは、さようなら、観光客。区境へと踵を返して一目散に退散する二つの影のお見送りをする。
    「ありがとうございます。紺炉さん。」
    「団子屋のバァさんが慌てて呼びに来た時は何事かと思ったが――ふてェ奴もいるもんだ。姐さんに手ェ出そうなんてな。」
    「ねえ、紺炉さん。それ、本当に嫌なんですけれど。」
    「晴れて若と夫婦めおとになったんだ。そう呼ぶのが筋ってモンだろ。姐さん。」
    「絶対に面白がっていますよね。」
    「悪くねェ響きだと思うが。」
     宙へと視線を逃がした紺炉さんの表情は、不貞の輩を追い払った厳めしさから打って変わって、その瞳が映す青空を写し取ったような晴れ晴れとしたものだ。祝言で終始泣いていただけあって、私達が夫婦となった事が相当に嬉しいのであろう。気持ちは汲めども、姐さん、と彼から呼ばれるのはむず痒くて堪らないったらない。

     
  • 五条悟

    20220129(土)04:35
    ▼なんでもないよのおまじない(おまけ付き)


     五条悟大明神権現超先生! 私めにご利益をください!
     二級術師となって初めての単独任務だ。可視光を放ちそうな程の非常な武者震いをしていたし、全ての臓器は口から出そうであったし、緊張で気が如何にかなってしまいそうだった。
     見送りに来てくれた最強の術師様々こと五条悟大先生が、バッ!、と勢い良く長い腕を広げる。
    「おいでラスカル!」
     あらいぐまではない! けれども飛び込む! 溺れる者は藁をも掴むのだから、齎されたものが最強の男であるならば縋り付くのは道理だろう。
     ぶるぶると震えがやまない背中を撫で摩られる。頭を撫で梳かれる。「おー、よしよし。」と態とらしい憐れみの声を上げて、動物園のふれあいコーナーにいる小動物を揉みくちゃにするように撫でられる。
    「今から死にそうな顔をしなくても、君ならやれるさ。何せ、この僕のお墨付きがあるんだから。」
     だーいじょうぶ、と。底抜けにお気楽な声を聞いていたら、本当に、あらゆるものごとが恐るるに足りないものに思えて来たのだから不可思議だ。
     どれだけ丹念に緊張をほぐされたのか、摩擦熱であたたまって来た身体を動かす。五条先生の腕の中から巣立つ。何時迄も補助監督の方を待たせてもいられない。気張ってきっとした顔付きを作ると、五条先生は、言祝ぐような晴れ晴れとした笑みを見せた。
    「良い顔だ。それじゃあ、これはおまけ。頑張っておいで。」
     つ、と。一度、自らの唇に押し当てると、その人さし指と中指を私の額へと遣った。投げキッス、みたいなもの、なのだろうか。若しくは何等かのまじないか、望んだ通りの功徳か。何にせよ、五条先生は変わらずににこにことしている。彼にとっては何でもない事のようだった。
     額の中心に触れた二指のぬくもりが其所にとどまっている内に背を向ける。
    「いってきます!」
    「はい、いってらっしゃい。」
     覚悟を決めて送迎車に乗り込むと、硝子窓の向こうで五条先生がひらひらと手を振っている。応じるべく手を挙げて、私はすっかり震えが治まっている事に気が付いた。

     
  • 学生五条悟

    20220129(土)02:47
    ▼安心してください


     先日の任務以降、この身に刻まれた術式で出来る事が増えた。マスコットのお化けのようにぷかりぷかりと宙に浮き、五条くんの頭のまわりを漂う。かの六眼に九死に一生と共に得た成果を見せ付けていると、ふた回りもした頃になって顎が小さくしゃくられた。
    「もうちょい上。」
    「期待したところで穿いていないので見えませんよ。」
    「マジ?」
     大きな身体が素早くその場にしゃがみ込む。白髪に飾られたかんばせは嬉々としていて、女子生徒のスカート捲りに全精力を注ぐ、悪戯盛りの小憎たらしい小学生男子の面影があった。折角の美貌が号泣している。
    「お手本のような非モテ仕草ですね。」
    「本当だったら上着貸してやるつもりだったんだっつーの。紳士的に。」
    「そこは確かめずに差し出すのが一番スマートなのでは――」
     嗚呼、時間切れか。がくんと高度が落ち、身体が地面に転がる――それよりも早くに、す、と両の手が差し出された。立ち上がった五条くんの手だ。有り難く支えにすると、落下しつつあった身柄は無事に地面に根を下ろせた。頭の上で、にんまりと笑われる。
    「で、スマートさが何だって?」
    「そう言うのがモテないんですよ。」


     
  • ジョーカー

    20220119(水)06:33
    ▼共食い


     隣に在った黒影を、今は見上げている。押し退けようにも手の自由が利かない。ソファに組み敷かれたのだ。黒白に映える唯一の色彩である紫の色を覗く。僅かに、僅かに揺れた。それは動作に掛かった「僅か」であり、時間に掛かった「僅か」である。私がまばたきを一つした隙に衝動は見事に飼い慣らしたらしい。すいと顔が寄せられる。
    「男は狼でも女が羊とは限りませんよね。」
     は、と。疑問符を吐き出した唇は無防備で、格好の餌だった。首を伸ばして、がぶり。接吻代わりに下唇に熱烈に噛み付いてやる。
    「ッ……肉食系っつーか、そのまま肉食じゃねェか。」
     思わぬ私の行動にすっかり面食らった様子で、彼は痛々しげに顔を背けた。煙草臭い舌で出血を確かめて、一言。
    「いや、悪食か。」
    「おや。力が弛みましたね。狼さんは、羊の皮を被ったバケモノと食い合う覚悟はおありでない?」
    「上等だ。共食いといこうか。」
     手首を押さえ付ける手に、力が込め直される。ひと息に重ねられた唇で為す接吻は獣らしく、食らい合うように、貪欲に。

     
  • 新門紅丸

    20220119(水)04:59
    ▼(ごろごろぐるぐる)


    「於菟屋ンところの猫、見つかったんだってな。」
    「隅田川の川縁で寝ていましたよ。それはもう気持ちが良さそうに。」
     私の腕の中でニャゴニャゴと鼻唄交じりに軟らかく伸びたり縮んだりしているこのふかふかの毛玉こそは、朝も早くから店を飛び出して浅草探検にご精を出された自由なる三毛猫様である。
    「ババァがさんざ探し回ってたってェのに、気儘なもんだ。なァ。」
     柔らかな生きものを強張らせない柔らかな声音で語り掛けながら、猫の額を人さし指でちょいちょいと掻いてやる新門さん。そして、うっとりと目を瞑って喉を鳴らしている猫。麗らかな昼下がりに望む光景としては百点満点花丸付きとも言える和やかさで――「――良いですねえ。」。ご満悦にふくふくとしている三毛猫に注がれていた真紅の視線が、ついと上がる。
    「珍しい事もあるもんだ。お前から甘えられるなんざいつぶりだ? 明日は雨か、槍でも降るか。」
     勘違いをされたのだとは直ぐに気が付いた事だ。けれども。猫の頭から離れた手の甲に、優しく笑う声に、さらりと前髪を撫でられると何も言えなくなってしまった。私が猫であったならば、今、絶対に、喉が鳴っていた。

     
  • 相模屋紺炉

    20220115(土)04:57
    ▼神前にて


     二度、空気が震える。柏手が打たれた後のしんと静まり返った世界の中で、それすらも奉納すべき一つかのように、相模屋さんの佇まいは美しかった。
     神棚に深く一礼して今朝のお参りを終えると、床に置いておいた下げた神饌を手にしようとして、其所で私の存在に気が付いたらしい。厳かであった気配が、ふ、と和らぐのを感じ取って、胸の奥が甘くあまく締め付けられる。
    「毎朝の日課でな。素気無くして悪かった。」
    「気に――」なさらないでください。そう続けられる筈であった言葉はからからに嗄れていて、末迄はとても声にならなかった。昨晩の睦み合いであれだけあられもない媚態を演じたのだから当然の報いではある。羞恥が喉に詰まっているが為に俄に押し黙った私を見下ろして、相模屋さんは苦く、けれども少しだって悪びれずに笑った。
    「無理させたな。」
     首を横に振る。
    「あれだけやって未だ満足出来ねェとは恐れ入る。流石、若ェな。」
     呆れと揶揄とを半々に織り交ぜた声音が、頭から被さって来た。
    「相模屋さんだって随分とお若いではありませんか。」
     咳払いを繰り返して漸く羞恥を追い出せた喉が、甘やかに声を奪った張本人に向けて、か細い一矢を放つ。その時に唇は尖ったものだが、彼に親指の腹でひと撫でされただけで簡単に均されてしまったのだから、我ながら御し易い女であると残念に思う。
    「若い嫁さん貰うんだ。それなりにな。」
     世間話でもしているかのように何でもない口振りで、言う。相模屋さんの挙措は常と至って変わらず、堂々とした大きな歩みで私の横を抜けて、古くなった神饌を片付けにゆく。青のまなこには嘘も偽りも冗談も翳ってはいなかった。私をひたと見据える眼差しは、朝も、夜も、何時だって力強い。
     清めの朝日に射たれて尚、昨夜の反芻がよりやまない。この世で私だけがよこしまな気がしてならなかった。

     
  • 相模屋紺炉

    20220105(水)23:41
    ▼うねる


     新作のどら焼きを求める行列は遅々として進まなかった。
    「随分かかるな。」
    「相模屋さん、お時間の方はよろしいんですか。」
    「ああ。いつもの寄合だ、多少遅れたって構わねェよ。それよりか、手土産の一つも持って行かねェ方がどやされちまう。そっちは?」
    「私はお散歩の途中に、自分のおやつを買おうと立ち寄っただけですからね。火急の用事もありませんよ。とは言えども、この儘進まないのでは八つ時も過ぎてしまいますねえ。」
     女が憂い勝ちに視線を向けた、目当ての甘味屋。その入口は未だ遠く、然りとて諦めるには余りに惜しい距離に在った。紺炉も倣って店を見遣る。じりりと地を踏む音が先頭から順々と、行列に波のように広がってゆく。期待のさざなみは二人のもとにも遣っては来たが、実際に詰められたのは半歩だけであった。
    「暫く動かねェな、これは。」
    「退屈はいたしませんけれどね。相模屋さんとお話が出来るので、とても楽しい時間を過ごさせて頂いていますよ。」
    「相変わらず口がうまいな。おだてても何も出ねェぞ。」
    「ふふ、残念。これではどら焼きの一つも買って頂けそうにありませんね。」
     首を傾けて確りと目を合わせて、紺炉に愛想の良い微笑みを見せていた女が、不図、こうべを横へと倒した。紺炉の頭一つ分と少し下の辺りから発される女の声は、今や、彼の聴力を試すかのように声量が絞られている。
    「素朴な疑問なんですけれども、それだけ身長が大きくて、背の低い子の声は聞こえるものなのですか。ヒカゲちゃんやヒナタちゃんの声だとか。」
    「あいつらは無闇矢鱈と声がデケェからな……元気が良いと言やァ聞こえは良いがな。身長差はあっても、逆に聞こえ過ぎるくらいだ。」
    「では、私の声は?」
    「よく通って聞きやすい、良い声だが――それでなくとも聞き逃す事はしやしねェよ。惚れた女の声はな。」
    「相模屋さん、相変わらずお口がお上手ですねえ。おだてても何も出ませんよ。」
     可笑しげにころころと笑う女が、紺炉を直向きに仰いでいた顔を前へと向ける。足音が再び伝わって来る気配を感じ取ったのであろう。紺炉も前方に意識を遣ろうとして、叶わなかった。髪から覗く、女の耳の先の赤さが目を惹いて離してくれやしない。――可愛げしかねェな。口の端がむずむずとだらしがなく弛みそうになっているのを、紺炉は手で覆って隠すしかなかった。半歩、又、列が進んだ。
    「――。」。思わしそうにはたと顔を俯けて、女がぽそぽそりと何某かを呟いている。それに紺炉は気が付いてはいたが、寝ている赤子の障りにもならぬような潜め声が地面に向けられていては、流石に聞き取れない。
    「悪い。もう一度、言ってくれ。」
     紺炉が腰を屈めて、顔を寄せて耳をそばだてる。女はパッと面を上げたかと思うと、口もとに手を添えて、紺炉にそうっと耳打ちした。
    「好きです。」
     甘く甘い吐息を吹き込んで直ぐさまに身を引いた女は、したりとにっこり顔。
     愛していると言ってやろうにも、手を伸ばして抱き竦めてやろうにも、此所は衆人環視の行列の真ん真ん中。衝動が破りかけた情欲の戸を、自制心で糊する。紺炉が、深く、深く息を吐き出す。
    「この後、用が無いってンなら好都合だ。冗談にはしてやらねェからな。」
     行列が、今、大きく畝る。