short short
daitai 1500moji ika no yume okiba.
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(幼)新門紅丸
20221015(土)01:49▼過激派の紺炉さん
骨の柔らかなあえかなる腕が、す、と少女の前を遮って、その覚束無い足取りを制した。
「危ねェから下がってろ。」
声変わりの過渡期に在って掠れ気味の喉が厳命する。鬱陶しげに幾度か咳払いを繰り返しながら、紅丸の大きなまなこが光を映した。紅に紅が重なり、双眸が煌々と光り輝く。それに不満を露にしたのは其所から一歩も動かせて貰えぬ少女だ。
「私だって勉強をしに来ているのよ。紅ばかり紺炉さんの奇麗な炎を間近で拝めてずるいわ。」
「どんなに奇麗だろうと、こいつばかりはお前には危ねェって言ってんだ。」
「紅、お前が“紅月”の熱からそいつを守ってやれ。これも稽古の内だからな。気ィ抜くんじゃねェぞ。」
紺炉の一言によって背筋を正した紅丸が、大きな手の平に浮かべられた拳程の大きさの紅色の真円を改めて見据える。第二世代の能力を操って見事に炎熱を退ける紅丸は、無意識のうちにであろう。少女への庇護を確実なものとするべく、一歩、前に出た。
――成長したもんだ。紺炉はつい目頭を押さえに掛かろうとする手をぐっと握って堪えた。第三世代の発火能力を制御するすべを学びに訪れる少女に向けて、如何か後五年――紅丸を今は弟のように思っていてくれて構わないから後五年だけ待ってくれないものか、と願ってしまうのは親心故だ。花盛りの五年は女にとっての宝だと承知しているが決して損はさせない。紺炉の視線が紅丸と少女の間を往き来する。見稽古となるように小さく小さく生み出してやった掌中の“紅月”を、それこそ花火でも愛でるように目をきらきらとさせて一心に見詰める少年少女に幾久しいえにしを結ぶようにして。
新門紅丸
20221011(火)00:18▼おっきくてあったかくて、好き
(『新門紅丸さんで嫉妬シチュ』とリクエスト頂きました。有り難う御座います。)
老夫婦が営む老舗の玩具屋から、第七特殊消防詰所に身を寄せた子ども達の慰めになれば、と寄贈された大きな大きな熊の縫いぐるみ。その大きさはヒカゲちゃんとヒナタちゃんがお人形さんに見えてしまうくらいで、二人も縫いぐるみよりも昼寝どきの布団として重用していた――のだが。彼だか彼女だかが詰所に引っ越して来て早数週間、ヒカゲちゃんとヒナタちゃんの興味はすっかり離れてしまい、今は“焔ビト”の弔いで家の壊れた人びとの仮住まいとして充てられる大部屋のすみっこで隅に子どもの相手をして余生を過ごしている。
玩具屋の店主の手によって小忠実に手入れされていたとは言えども、店番を長年勤め上げたご年配だ。中の綿は萎れてくったりとしている。それが古馴染みの毛布のようで安心するのだけれど。頭の重さに負けて丸まる熊の縫いぐるみの背中は何所かさびしげで、襖に凭れ掛けさせてやる序でにぎゅうと抱き締めてやっている、と。
「俺はもうお払い箱ってか。」
何時の間にやら敷居の向こうに立っていた新門さんが、静かな足音を伴って私と熊の縫いぐるみの密会の現場に踏み込む。熊の縫いぐるみの隣にどっかりと胡座を組んだ新門さんは手を伸ばすと、く、と私の着物の袂を引いた。
浅草の町の長らしくどっしりと構えて見えるよう努めているのだろうが、そもそも感情を隠す事の出来ない素直な性質をお持ちの御仁だ。面白くない、と思えば顔にも声音にも如実にあらわれる。
「まさか、焼きもち、妬いているんですか。縫いぐるみを相手に。」
「……もちと言やァ、団子が食いてェんだった。」
「はぐらかした。」
「うるせェ。」
むすくれにむすくれた唸り声が、嗚呼、可笑しいったらない。抱き付いた熊の縫いぐるみに、ねえ、と同意を求めてみると、首肯するかのようにぬぼーっとした笑みがはっきりとして見えるではないか。
柔らかな頭部の丸みを一つ撫で、それから熊の縫いぐるみの腕の中から抜け出して、新門さんの傍らに移る。そうっと、その逞しい肩に寄り添う。自然ななりゆきで手が取られ、握られた。手の平から伝わる体温は熊の縫いぐるみには持ち得ない熱さで、心がとろりと溶けてゆく。
「お団子、食べに出ましょうか。」
「まだ良いだろ。八つ時には早ェ。」
だから今はこの儘、と。熊の縫いぐるみの目があるにも関わらずに、お臍の向きの直った新門さんの声はじんわりと甘い。
夏油傑
20221011(火)00:17▼火を消して
(『夏油傑「サァ? 私はバカだからわからないよ」』とリクエスト頂きました。有り難う御座います。)
引き戸が大きな悲鳴を上げずに済んだのは、偏に少女の理性のお陰であった。教室を出た足音があっと言う間に廊下の果てへと遠ざかる。
五条、と。家入が億劫そうに名を口にする素振りを感じ取って、五条が乱雑に白髪頭を掻く。手首が当たった為に鼻梁からややずれたサングラスを直しつつ窺うは、机を挟んで正面に座っている家入の呆れ顔ではなく、隣で外方を向く夏油の様子だ。
「……傑。」
「サァ? 私はバカだからわからないよ。」
吐き出したばかりの居心地の悪そうな声を喉奥に戻したがっているかのように、五条の唇が開き、閉じ、開いて、真一文字に結ばれる。その黙考が頑なに意地を固くしてゆくたちの悪いものでは無いとは、家入も夏油も察しが付いている。だからこそ、家入は椅子から立ち上がって窓際へと移動し、夏油は机に頬杖を突いて待った。五条と夏油、二人の口論を仲裁しようとして、五条からとばっちりを受けた少女の行方に思いをめぐらしながら。ややあって、ぎこちない咳払いが夏油を呼んだ。喧嘩はお手のものなのに仲直りは拙いとは。何事も卒なく熟す五条でも苦手とするものがある事に、夏油は見えないように小さく笑った。態とらしいくらいにゆっくりと振り向く夏油に幾らか緊張の瞬きを見せたのち、五条が確と引き結んでいた唇をほどく。
「傑。……悪かったって。」
「まったく、悪い事をした自覚があるならそうやって素直に謝れば良いんだ。彼女にもね。――ほら、早く行って来る。それとも、ジャイアント・スイングで送り届けてあげようか。」
「出たよ、プロレス馬鹿な発言。」
「懲りないな、悟。同じ事を繰り返す気か? そんな暇があるとは思えないが。」
夏油が時計に目を遣る。座学の授業の開始時刻迄はもう間も無くだ。いずことも知れぬ所でほとぼりを冷ましている少女を見付け出し、謝り、和解し、教室に連れ帰るのに如何程の時間が掛かるか――計算して答えを弾き出すと五条も即座に動かざるを得なかった。教室を横切り、戸を潜り抜け、廊下を駆ける。長い足とよく利く目のする事だ。少女は直ちに見付かるだろうと、夏油は徐に背凭れに身体を預けた。
「硝子。悟、きちんと謝れると思う?」
「さあ、どうだろうな。アイツ等の保護者じゃないから、そもそも心配する気にすらならん。」
「そこは友人としてさ。」
時計の針をじいっと見詰める夏油の横顔に、気苦労が多過ぎて何時か五条のように白髪になりやしないか、との考えを過らせた家入が手近な窓を開ける。ポケットから愛飲する煙草の箱とライターを取り出し、自動火災報知設備に感知されないように窓から身を乗り出して、授業前に一服の煙を味わう。風は喧騒を運んで来ず、五条と少女の二人は未だ出会していないとの便りを寄越した。
五条悟
20221011(火)00:16▼スター・フラッシュ・ライト
(『寒い日の五条悟さんのお話』とリクエスト頂きました。有り難う御座います。)
夜空を見上げて、羊羹の表面のよう、と言う表現が思い浮かぶのは、彼所で光る星の所為だ。先駆けた厳冬の居座る冴え冴えとした空に在り、矯めつ眇めつ目を凝らしてもシリウスと見分けが付かない、そのひと。星影にうつつを抜かしている間に身体じゅうを空風に鋭く切り付けられてしまっても、それでも私は、身震いが出たくらいの事では彼から視線を逸らせないのであった。
不図、悟さんが身を翻した。まるで透明なエレベーターに乗っているかのように、すうっと天上から地上目掛けて降りて来る。月明かり星明かりのみが頼りの中で、目が合った、と認められる距離。其所で止まるなり、悟さんはマウンテンパーカーのポケットを探っているようであった。何かを取り出そうとしている。携帯端末だ、と私が感付いたと同時に、チカリ。地にあっては星よりも眩いLEDの白光が頭上で爆ぜた。反射的に目を瞑る。カシャリ。
「うーん、栗の茶巾絞りが食べたくなる顔。」
シャッター音の余韻も失せて暗闇の静謐が取り戻された世界を、ポインテッド・トウの靴底が地を踏み締める音と、鼻唄にそっくりなご陽気な声が早速蹂躙する。
「最悪です。消してください。」
「何で怒ってんの。可愛く撮れたのに。折角だから待ち受けにしよっかな~。」
「今は、ロック画面、て言うんですよ。」
「……マジで?」
如何やらカルチャーショックを受けたらしい。頻りに繰り返される瞬きによって眼帯が細かく動いている。隙有り、だ! そう威勢良く手を伸ばしてはみたものの、矢張りと言うべきか、携帯端末はひょいと手の届かない天高くに持ち上げられてしまった。肌理の整った唇をにんまりと弧にしているが、悟さん本人はどう言った感情でいるのだろう。私には、意地の悪い小学生男子のご満悦の様相にしか見えないのだが。
うちから光っているように仄々と白い、頬の皮膚の下を見通そうとしている、と。隙有り、と素早く近付いて来た大きな手に軽く鼻を摘ままれた。
「動きも鈍いし、身体、かなり冷えてるんじゃない? 結構待たせた?」
長い指に灯るあたたかな体温が鼻を擽る。悟さんは私の身体の心配をしてくれているようでいながら、徐に人の鼻をふにふにと摘まんで手遊びをするそのさまから、私にデートの待ち合わせに遅れて来た彼氏への戯れ合いを望んでいるようにも思えた。
格好良かったです、などと、褒めてあげた方が良いのだろうか。この状態ではどれ程耳触りの良い言葉を発しようとも間抜けになりはしないか。めぐらしている間にも悟さんの指先は離れてゆき――今度は力強く肩を抱かれた。
「それじゃあ、帰ろっか。」
咄嗟に高いところにある不思議の詰まった頭を見遣る。直ぐに横合いから凩が吹き荒び、逆立つ白髪の先を乱して、私の身体に触れる事無く過ぎ去った。
伏黒甚爾
20221011(火)00:15▼死肉の血
(『伏黒甚爾が結構良く思っていた女に男ができて縁を切られる話』とリクエスト頂きました。有り難う御座います。)
皿に盛り付けられた丸々としたハンバーグを半分に割り開くと、透明な肉汁が溢れ出る。色こそ異なれど、刃で肉を裂くと体液を垂れ流す、そのような光景を男は幾らも見て来た。食卓を挟んで向かい合わせに座っている――今晩もにこりともせずに手製の晩餐を振る舞う、この女の部屋に転がり込んでからも。しかし、返り血の乾いたのが服に付着していようとも警察に通報する事はしないばかりか、一度たりとも男の仕事について言及せず、「汚れた服を着ていたら折角の男前が台無しよ。」と女は気前良く代わりの衣服を寄越すだけであった。恐怖から口を閉ざすのではなく、蒙昧から口を開けないのではない。十全な胆力と知性を持ち合わせていて尚、頑なに不干渉を保つのは、女が無神経に愛せる存在を求めていたからにほかならない。愛を囁いても撥ね除けない。恋しさに触れても逃げ出さない。庇護の下、生きる為の糧にしてくれる。次の寄生先を探して居酒屋で引っ掛けた時に、女が所望した事だ。男にとっては向けられる愛玩は都合が良いものだった。腹で縮こまっている呪霊同様に躾けてやれば概ね従順に動いてくれる都合が良い感情だと、これ迄に女の部屋を転々とする中で学習していた。事実、女の言葉と手指のする事を受け入れるだけで不足の無い生活は送れていたのだが。愛している、と笑まれて朝を迎えて。好き、と微笑い掛けられて夜を終える。ままごととしか思えぬ日々は、繰り返してゆく内に軈て男の身体の奥の冷え冷えとした場所に染み込もうとしていた――魂にまじないがかけられるかのように。
「甚爾、」
愛の言葉に吹き込むには強張っている息吹が、食卓に落ちる。
不得意のギャンブルで儲けた金の使い途を考えるようになった。次の大口の仕事で得た金で食事にでも連れ出そうと考えるようになった。一つ前の部屋を去る切っ掛けとなった刃傷沙汰の面倒は二度と御免だから、と。だからこそ、だからこそ、だと、今夜迄目を瞑っていた。
「――話があるの。」
「飯、冷めるだろ。食おうぜ。」
とうじ。今一度、女が名前を呼ぶ。喉の引き絞られた、血の滲むような掠れ声で。
男は皿に視線を遣る事で黙殺し、二等分したハンバーグに又ナイフを当てる。躾けられていたのは何方だと、肉が刃に泣いた。
新門紅丸
20220913(火)05:55▼森羅日下部の受難
いや怖ェよ!!
背後に居る新門大隊長がどんな顔をしているのかは見えないけど、背骨が軋むくらいの圧を放って来るんだからべらぼうに機嫌が悪いに決まってる。でも、今この場で馬鹿みたいな量の冷や汗をかいているのは俺だけだ。だったらこれは機嫌を損ねて八つ当たりされている訳じゃなくて、もっと別の、威嚇とか恫喝とかそう言った物騒な類いのものなんだろう。俺、玄関で死ぬのかな。ぼんやりと仮設秘密基地の天井を眺めた。生存本能が咄嗟に働いてくれたお陰かも知れない。
「――その、お邪魔しています。」
秘密基地の奥から姿を現した女の人――彼女は浅草の町の人で、俺やアーサーにとって世話を焼いてくれる姉のような人で、新門大隊長の恋人だ。そしてその人はいつもの露出度ゼロの着物ではなく、火華大隊長が着ているような派手なドレスを着ていた、ように見えた。おずおずと俺達の前に歩いて来る時に、長い丈に深く入ったスリットからちらちら覗いた太股の真っ白さに脳を焼かれたせいでよく覚えてない。
視界の端で頭がぎこちなく傾いて行く。絞り出された声は、俺の心臓の奏でるロックンロール並みに速いビートの前では消え入りそうなくらいに小さい。
「どう、ですか。火華さんに貸して頂いた着物なんですが。似合っているでしょうか。」
恥ずかしそうに徐々に萎んで行く声が、恥ずかしそうに露わな胸の辺りを隠そうとしたり恥ずかしそうに裾を握り締めたりする衣擦れの音に掻き消される。やめて欲しい。女性に耐性が無い純情な男心が擽られるから――なんて、よこしまな考えも一瞬で吹っ飛ぶような殺気が飛んで来る。後ろから、ビシバシと。え。俺、いきなり燃やされたりしない? 有り得ないとは言い切れない剣幕に、緊張に強張った笑いが浮かぶ。
天井の染みから目が離せない俺の分も、じいっ、と。新門大隊長は恋人の目新しい格好を見詰めている。熱心に見詰めている。俺が唯一見る事を許された彼女の額が、焦げ付きそうに真っ赤に染まった頃。
「悪くねェな。」
と、新門大隊長が簡潔に呟いた。然り気無く答えたように見せているが、俺にはわかる。同じ男だからこそよくわかってしまう。気になる子の前では格好付けたいですよね。浮かれ気味にどことなくそわそわしている新門大隊長の雰囲気を背中で感じ取って、内心で共感すると肩の力が抜けた。息を吐き出すと気が抜けた。玄関から一段上がった所で新門大隊長と同じくそわそわしているその人の、細い肩の形を初めて見――
「見んな。」
腹の底が冷えるような低い声に身体が固まる。凄まれると同時に、新門大隊長から思いっきり踵を蹴られた。完全にパワハラだ。最強ハラスメントだ。怖いし、痛い。涙まで出て来た。悲鳴も出せずに踵を押さえて蹲る俺を他所に、新門大隊長は「いつまでも薄着じゃァ身体が冷える。もう気は済んだろ。着替えて来な。家まで送ってやる。」と甲斐甲斐しく恋人を奥の部屋へと向かわせていた。その人は俺を心配して動きを止めていたらしいが、足音が次第に遠ざかって行く。後ろ髪を引かれるようにゆっくりとしたそれを聞きながら、俺は思った。
新門大隊長、恋人の事を本当に大事に思っているんですね――なんて、微笑ましくいられるか。踵、これ、夜には絶対に腫れてるぞ。大人気ねェな、この人!
恋川春菊
20220716(土)03:50▼誰そ彼の、
ピュウ、とか弱い風鳴り。長屋の戸の開けられる音は聞こえなかったから、不可思議な隙間風の出所を探ろうと身を起こす。と。小さな小さな舌打ちが斜陽に橙に染められた障子紙を突き破って来た。
影からして筋骨逞しいそのひとは、細く開けた戸の向こうから私の起き上がったのを見て取って尚、そろりそろりと障子戸を引いてゆく。身柄が通れるだけの隙間を開けるなり部屋に滑り込んで、戸は直ぐに閉ざされた。病に臥せる人間の身体を冷やさぬように、との心得があった。「――恋川さん。」。三和土から上がって布団の傍らにどっかりと胡座を組んだひとの名前を呼ぶ。視線を引き寄せてから、自分の寝乱れた胸もとに気付いてそそくさと寝巻きを直した。
「恥ずかしい姿をお見せしてしまって、すみません。」
「良いから寝てろ。薬は?」
「先程、月島さんが届けてくださいましたよ。皆さんの補佐をするのが私のお役目ですのに、ご迷惑をお掛けしてしまって腑甲斐無い事です。」
「気にすんなって。どいつもこいつも、好きで嬢ちゃんの見舞いや看病しに来てんだろうよ。」
「でも、」
「兄ちゃんも、姉ちゃんも、坊ちゃんも、小鳥ちゃんも、そりゃあ心配してたぜ。悪いと思ってんなら早く治しな。」
「――無涯さんは扨措き、恋川さんは心配してくださらないのです?」
「してなかったら、今頃は飲み屋の暖簾を潜ってんじゃねぇの。」
恋川さんは飄々と笑ってみせると、さあさあ風邪っ引きは寝た寝た、と軽く肩を押して来た。言われる通りに布団に横になる。透かさず顎迄夜着を引き上げてくれた手が、ぽん、と腹の辺りを一つ叩く。それを合図にして出てゆくかと思いきや、彼は手の平を其所に置いた儘じいっとしていた。腹の膨らんだり萎んだりするのを感じて、私が正しく呼吸している事を確かめているのだと勘付くのに然して時間は掛からなかった。風邪は万病のもととは言うが、直ぐに容体が悪くなる筈はない。けれども、恋川さんは真剣であった。縋るもののない物憂げな表情で、自身の手の甲を、私を――否、私に重ねた病床の誰彼を見詰めている。
なにか大切なものを覗いてしまった気がして、白昼夢に囚われているかのような眼差しから目を逸らす。態とらしいくらいのゆっくりとしたさまで、うとうとしている風を装って目蓋を下ろした。薄闇の中、腹の上に在った熱い体温が静かに退いてゆく。
「――」
もしかすると、誰彼、を呼んだのかも知れない。隙間風にも吹き散らされそうなか細い吐息には、酒でも無ければ忘れ得ぬ、そのような深いかなしみが秘されていた。
恋川さんの触れられぬ傷から更なる血が流れる訳が私のこのありさまであるならば、一刻も早く元気を取り戻さなければ。そうは思うが、身体を休めるよりも、今は少しでも心に寄り添っていたかった。
不自然さの無いように、ことん、夜着から片方の手を出す。生きていると知れる、確かな体温を感じれば安堵してくれるのではないか、との考えから差し出したものだ。逡巡と思しき間こそ置かれたが、恋川さんはこわごわ手を取ってくれた。普段の荒っぽい挙措からは程遠い、腫れ物に触れるような遠慮勝ちで、何所か幼い子どものような仕草で。
そうして、夜の訪れる迄、傷だらけの武骨な手指は其所に居てくれた。私の生命を惜しむように。
犬塚ガク
20220715(金)18:30▼いとしきみへこの一撃を捧ぐ
ダイヤモンドだって、玻璃だって、真珠だって、こんなに美しくはなれないだろう。
とっぷりと溺れた瞳から、一つ、二つ。次から次へとコンクリートの地を目掛けて転がってゆく涙の玉。それは万人が分泌するものだと言うのに、水と少量の蛋白質等で構成されているとは到底思えなかった。遠くのビルの窓明かりを受けて雫の一滴一滴が煌めき、顎先から伝って足もとを濡らす。勿体無く思っての事ではない。見惚れていた己を恥じて、初めて出会った頃よりも痩けた頬に手を伸ばす。死人のように冷えてしまっているであろう頬に指先が届き、しかし触れる事は能わずに、皮膚に沈んで筋肉に沈んで、音も無く通り抜ける。濡れそぼつ君の瞳に、オレは映っていない。怪我を負った小動物よりもか弱げに震える、君のその小さな身体を抱き締められる距離に居る事にも気付かれない。
ひどくかなしくなった。心が張り裂けそうだ。君にみえない事が。君に触れられない事が。君の美しさを知るオレを、君が知らない事が。君がオレをみえない事が、かなしくてならなかった。だが、そんな慟哭すらも放り出せるくらいに君は美しい。知っているかい。知らなかったと言うなら教えに行くよ。君が生きているだけで、世界は少しだけよいものだと信じられる男がいる事を、今夜にでも枕もとに立って。その為にも今日はゆっくり眠ると良い。
そこに光が在るのだと盲信している足取りは、宛ら誘蛾灯に誘われる羽虫の如きものだった。意思の摩耗した覚束無い足取りがオレの胸を擦り抜けて、屋上に打ち据えられた手摺りへと向かう。ハンカチの代わりにおもちゃのハンマーを携えて、オレは、こちらに来ようとする弱りきった背中を追った。
君をいじめる奴等は明日にはいなくなっている。だから、美しきひとよ、魂の美しき君よ。――まだ、ここに来てはいけないよ。
新門紅丸
20220714(木)04:16▼あなたじゃだめなの
喉を塞ぐ空気の塊は余程の熱を持っているのか、ひりひりと焼いて掠れさせた。痛い。詰めた息を吐き出せば胸に溜まった感情が噴き出てしまう。然りとて呼吸なんて何時迄も堪えられるものではない。痛い。宛ら私の身体はいっこの腫れ物となっていて、恋仲の男に頬を張られた時に肌は破けていたのであろう。痛い。眦から、ぼろぼろと、熱い膿がこぼれてゆく。
――嗚呼、痛い。
人前で臆面も無く泣き出すだなんて、ベーゴマ遊びに興じていた幼い頃の自分に取って変わられたようだ。在りし日には夕暮れ迄一緒になって町を駆け回っていた男の子は、紅は、この浅草の町の頭は、静かにしずかに頷く。転んで擦り剥き、血の滲んだ手が握られる。着の身着の儘飛び出して砂埃で汚れた着物の膝や、私の帰りを待つ恋人の顔や、その酒に溺れて振り翳された拳の形を、眼裏を見詰めていた意識があたたかさに気付けられる。顔を持ち上げられるだけの活力を宿した身体が次に為した事は、呼吸、だ。
「――べに、たすけて。」
「ああ。」
応じるなり、力強く手が引かれる。頽れていた身体はいとも容易く立て直されて、よろけたところでふた度地面に倒れ込む事はない。紅の手がそうさせやしない。火消し装束の袖で、まるで綿紗でも当てるようにこわごわと涙が拭われる。腫れた頬に触れる時には殊更な事であった。
何だか、溶けようとする飴細工の形をとどめるべく必死な子どもみたい。ふ、と。思わず吐息すると不思議と笑えた。
「笑い事じゃねェぞ。」
「だって、紅がいるんだもの。気も抜けるわよ。」
肩を竦めてみせると、目の前の眉根には更に険が刻まれた。お前が笑おうが笑い事で済ませる気は更々無い、と怒ってくれていた。それも長らくは語られない。紅は私の頬に目を遣ると颯と身を翻してしまった。夜闇の覆う小路を、手を繋がれてゆく。つま先が第七特殊消防詰所に向かっている事にはっきりと安堵する。私を安全な場所で保護してから、きっと、酒に狂ったあの人に話を付けに行ってくれる心算なのだろう。
「ごめん。」
「お前ェが謝る筋がどこにある。」
「ありがとう。」
「――俺だったらお前に手を上げる事ァしねェ。」
「知っている。紅は強いもの。」
「馬鹿言え。何もわかってねェ、お前は昔っからな。」
私の知っている感情の中では、苛立ち、が最も当て嵌まる焦燥の声音。振りほどかれるかと思った手は、けれども一層強く握られて金輪際離されやしないのではないかと思う程だ。
頬の火照りは夜気に冷やされる事なく、じくじくと疼きを増す。紅、と呼び掛けた。何だ、と問うそれは言わんとする事を心得ているのだろう。
「あの人の事、酷く殴ってやらないでね。弱い人なのよ。」
応えは無かった。知らぬ存ぜぬと無言で夜を突き進む紅の背中は、何故だか子どもの時と然して変わらずに見えた。
伏黒恵
20220705(火)02:13▼ひと夏の過ち
「染めちゃった。暑かったから。」
殊更に明るい調子の少女は、彩度も高い。数時間前に見掛けた時には炎天の熱を蓄えていた黒髪は今や見る影もない。首を傾げた少女のその肩口にひと房こぼれた髪は、毛の先の先迄奇麗な金に染まっていた。
遠目では見知らぬ呪術師かと思った。近付いて来るに連れて見知ったシルエットだと思った。目の前に立たれた今、伏黒は、少女の思い切りの良さに驚いて声が出ずにいた。
「矢っ張り、似合わないかな。」
身体は固まり目を見張って口をぽかんと開けと、唖然としている伏黒の鼻先で、華奢な指先に摘ままれたこんじきの毛先が戯れるように揺らされる。夏の日射しを反射して強く気を引くが、それよりも力無げに笑う頬にこそ心が掴まれた。
「いや――」と。まばたきを一つして、伏黒は鮮やかとなった視界に少女を映す。眼下に御座すこうべは円く、きらきらと輝いて目を灼く。真っ直ぐには見詰めていられない程であった。けれども逸らせる筈も無い。
「なんか、オマエっぽいな。ここから見るとお日様みたいだ。」
「なあに、それ。深遠な感想だなあ。」
摘まんでいた髪を払い、少女が笑う。困ったように眉は八の字に、しかしこそばゆそうな笑い声は、頭上から燦々と光の矢を射掛けて来る太陽をも返り討ちにするまばゆさであった。伏黒が、釣られ、笑う。
新門紅丸
20220702(土)05:12▼引力へ
何時しか、足取りは鼓動と同じ速度となっていた。明かりと共に人けの絶えた夜道に、軽やかに、軽やかな、靴底が地を打つ音が響く。浅草を仕切る男としてどっしり構えていなければならないと言うのに、二十二の年若い男は言う事を聞きやしない。ガキみてェにはしゃいでやがる、と。浮かれた足音に自嘲した。鼻先には、今し方、大人しく家へと送り届けた女の纏う香が未だぬくもっている。呼吸する毎、心の臓は跳ねて跳ねて苦しくなる一方であった。矢継ぎ早に謳う胸の甘さを知らず、持て余す。
紅丸は路傍に突っ立つ纏を引っ掴んだ。馬簾に火を点ける。衝動に突き動かされるが儘に空を駆ける。頬を張る風の冷たさが、火照った身体には心地好かった。忽ちに雲に届き、雲を突き抜け、月の程近くに至って星ぼしに紛れる。狂おしい程の情熱を燃料にすれば宇宙にだってその果てにだって飛んでゆけそうであったが、また明日、と交わした約束が紅丸を惑星に閉じ込めた。女が別れ際に見せた名残惜しそうなひっそりとした笑み、それはまなうらに焼き付いて、まばたきの都度に明日が恋しくなる。胸に詰まったものを、女への思いの丈のすべてを口にすれば、快哉を叫ぶ事と同じになるであろう。天空には月と星しかおらず、愛しい町は遥か遠くで眠りに就いている。ならば良いかと、紅丸は一つだけこぼした。
「ああ、クソッ、好きだ……。」
優一郎黒野
20220627(月)19:15▼煤対鉄
在籍している経理部のみならず灰島重工全体で「鉄の女」と呼ばれている。
それ程の鉄面皮であり、鋼鉄の意思を秘めた辣腕家。
大黒部長と犬猿の仲。
社員食堂を利用する為に列を成した優一郎黒野が、自身の背に不思議とぴたりと付いた女について知り得ている事と言えば、社内でも有名な三つの事柄しかなかった。
興味を惹く事の無い強者、関心を払う気の無い猛者。部署も異なれば関係は極々希薄な儘、定年退職をするその時迄会話をする機会はない、と。そう考える事すらも無かった程に関わりは無かったのに、これは如何言った訳か。
「黒野さんは、日替わり定食のAとB、どちらがお好みかしら。」
薬膳粥が中心となった日替わり定食Aと、カツ丼が中心となった日替わり定食B。極端な二例のサンプルを行き来していた硬質の視線が、黒野に定まる。
「自分が好きな方を選べば良いだろう。」
「貴男の好みを知っておきたいの。」
「何故。」
「私、強い男のひとが好きなの。黒野さんのような。」
「俺は弱者が好きだ。壊滅的に好みが合わないな。」
「弱ければよろしいのね。それでは、日替わり定食Aを。顎の力を弱めましょう。」
「……お引き取り願おうか。」
この灰島重工で変わった人間を多く見て来たが、女は頗る付きであるらしかった。セクシャルハラスメントだと訴え難いぎりぎりの距離を攻めて近付いて来る、果敢なる女。振り返る事なく、黒野は列を詰めた。
相模屋紺炉
20220627(月)17:46▼照レフォン
ジリリン、ジリリン。電話機のベルの音を縫い縫い、勝手元から飛んできたる「おうい、こっちは手が離せねェんだ! 誰か出てくンなァ!」との料理番を務める火消しの声。丁度、電話機の近くを通り掛かっただけの私が取って良いものなのだろうか。辺りを見回せども、騒ぎに駆け付けてくれるような人影は見えない。
差し入れにと持参したみたらし団子の包みを抱え直して、こほん。咳払いを一つして喉の調子を調える。
ジリリン、ジリリン。受話器を取ると電話機は泣き止んだ。
「お待たせいたしました。こちらは浅草、第七特殊消防詰所でございます。ご用件を承ります。」
努めてはきはきと応対してみせたものの、一秒が経ち、二秒が経ち、三秒が経っても無言。声が届かなかったのだろうか。「恐れ入ります。」と仕切り直すべく口を「お」の形にした時に、受話器の向こうから漸く応えがあった。
「――俺だ。紺炉だ。」
何所か呆気に取られているかのような心此所に在らずの声音が、機械を通して伝わって来る。
「掛け間違いでもしたかと思ったぜ。そんな風に上品に電話に出る奴ァ、うちにはいねェからな。」
「どなたも手が空いていらっしゃらなかったようなので、思わず出てしまいました。偶々、差し入れをしにお邪魔していたものですから。相模屋さんは、もしかしてお出掛けされているのですか。」
「第8にな。用は済んだからこれから帰る、って連絡を入れる為に電話を借りたんだが……第8の奴らに酷ェ面を晒しちまったもんだ。まさか、お前が出るとはな。度肝が抜かれた。」
「ふふ。一本、取ってしまいましたか。皆さんには直ぐにお帰りになると申し伝えておきますね。」
「頼む。ああ、いや、直ぐとはいかねェな。土産を買って帰らねェとヒカゲとヒナタが臍を曲げちまう。第8の嬢ちゃん達が気に入っている、ちょこれーとの店があるんだと。お前もそこの菓子で良いか?」
「いいえ、そのお気持ちだけで充分です――」
「――なんて、ツレねェこと言ってくれるなよ。美味いモン食わしてやりてェんだよ、お前には。理由はここでは聞いてくれるんじゃねェぞ。」
聞くなと言っておいて、わかるだろと笑うのだから、このひとは。好きだとか愛しているだとかの秘密の符牒を送って寄越して来る、受話器を当てている耳がじわりと熱を孕む。「もう。」と。堪らずこぼれた吐息は、鼓膜から胸のうちがわから擽られて震えていた。
相模屋さんの手にしているものは、第8特殊消防隊よりお借りしているお電話だ。何時迄も私的に用いていては業務にも差し障るであろう。それは相模屋さんも心得ているようであった。
「晩飯には帰る。」
「はい。お帰り、お待ちしておりますね。」
「おう。それじゃあな。――夫婦のやり取りだな、こいつは。悪くねェ。」
置かれようとする受話器はこそばゆそうな独白をも確りと拾い上げて確りと届けてくれた。相模屋さんの、知ってか知らずか心底からいとおしげに笑う喉の音が、受話器を離せども耳もとから離れない。抱えた風呂敷包みの中のみたらし団子が悪くなっていやしないか、心配を覚える程に身体が熱くなっていた。
新門紅丸
20220625(土)04:41▼高天にあなた
地を滑る歪な鳥影が止まり木に選んだのは、私の影であった。
「よう。」
頭上から降って来た呼び掛けに応じるよりも早くに、するり、声の主は目の前にあらわれた。正確には、目の前にあらわれたのは声の主の防火靴だ。天を振り仰げば、其所には火の点いた纏に立ってふよふよと宙に浮きながら、静かに私を見下ろす新門さんがいる。
「シンラの奴、見なかったか。炎の制御が利かずにすっ飛んで行っちまった。」
「こちらではそれらしい人影は見ていませんけれど。」
「そうか。もしかすると浅草の外に出たか……相当なスピードだったからな。」
如何したものかと顰められた眉は、生来の垂れ勝ちな形も相俟って何ともお困りの様子に見えた。手で庇を作って無辺の青空を眺めては、稽古を付けてやっている少年を探し出そうとしている。
本当に面倒見が良いひとだ。子ども達が、べにき、べにき、と慕う訳である。子どものみではない。浅草の町の誰もが新門さんを慕い、愛している。それだけの強さが宿っていて、それだけの慈愛を持ってくれている。二十二と年若い青年にしては立派なこのひとは、こうして仰ぎ見ると浅草の町を照らす太陽そのものだった。
「新門さんは、高い所がお似合いになりますね。」
「馬鹿と煙は何とやら、ってか。」
そうではないのだけれど。訂正も野暮ったく感ぜられて相槌として曖昧に笑ってみせた。それから、私もお弟子さんの影や形を見付け出そうと試みる。軈て、「――いた。」。呟いた新門さんの見詰める方角に目を遣ると、瞬く間に点から人影へと輪郭を変える飛行人体が。森羅くんに相違無かった。発火限界を迎えかねない程の凄まじい速度を出して、余程焦っていると窺える。
「さて、扱き直すとするか。世話になったな。」
「森羅くんの事、余りいじめないであげてくださいね。」
「あれは可愛がりってんだ。」
目の高さに在った防火靴が頭の上に。ゆるやかに離れ、私に火の粉の掛からぬ高所に届くと一気に空に向かって飛んでゆく新門さん。その影が小さくなろうとも見失う事は出来なかった。燃ゆる馬簾が後光のよう。神様、今日も絶好調だ。
新門紅丸
20220624(金)22:22▼江戸っ子は宵越しの銭は持たぬそうで
夜と朝のあわいに、燧袋の中のなけなしの銭が落っこちた。
最後の最後の本当の最後、一発逆転を懸けた大勝負にあっても勘を外した紅丸は、空となった燧袋を懐に仕舞い込んで賭場を出た。「紅も懲りねェなァ。」「紺さんに叱られる前に早く帰んな。」「あの娘さんの方がおっかねェやなァ、紅ちゃん。」「あの娘って、ああ、あの――」夜も明ける頃とあって気怠げであった空気が、他人の色恋一つで俄に活気付く。博徒達に聞こえるように大きな舌打ち一つ。鳴らしたのみで振り返る事はせずに、紅丸の足は真っ直ぐに第七特殊消防詰所へと向かっていた。閑散としている仲見世通りを抜け商店街を抜けた時には、背中を焼く朝から逃がれようとしているかのように、その歩調は早く、早く。――新門紅丸は最強の消防官である。なれども、博打は滅法弱かった。詰所の玄関に掛けられた暖簾の脇に、一対の影。それは浅草寺の山門は宝蔵門、其所で睨みを利かす仁王像の阿形像と吽形像の如く。
「お早いお帰りですね、新門さん。」
「随分と羽振りが良いじゃねェか。紅丸よォ。」
足音を聞き付けた影が、最強の消防官をたじろがせる雌雄が、ほとほと呆れたと揃って溜息を吐いた。今は未だ宵と言い張れる時分なのだから二人共布団の中にいる。賭けはしたが、矢張り、勝てやしない。ばつが悪くて堪らず、紅丸は黒髪の頭をがしがしと掻いた。
相模屋紺炉
20220624(金)06:59▼親しき仲にも
所帯染みたと言えば熟年の夫婦のようだけれども、この御座形な態度が長続きの秘訣となり得る筈はない。
「ああ。可愛い、可愛い。お前さんによく似合ってるな。」
新調した簪の飾りどころか下ろし立ての着物の色を確かめたかもわからない。相模屋さんはちらと視線を投げ掛けただけで、私の脇を通り抜け、嗚呼忙しい忙しいとせわしなく廊下の先へゆこうとしている。時が悪かったか、改めて出直すか。考える迄もない事だ。かちんとぶつかって来た台詞が神経にさわったのだから。
「新門さんの方が余程、女心を揺さぶってくれましたよ。私も照れずにはいられませんでした。」
嘘ではない。三丁目のおしゃまな女の子の身形を、新門さんが褒めてやっているのを見た。然りとて、これしきの売り言葉を買ってくれるようなおやすいひとではない。そう理解、した気になっていただけだった。
角を曲がり切れずに相模屋さんの足が止まる。新門さんが間男のように私を口説くとは思っていやしないだろう。私がおいそれと新門さんに靡くとも思っていない。それでも、振り向かずにはいられなかったらしい。颯と踵を返して、直ぐ目の前に立たれた。青瞳に頭の天辺からつま先迄を丹念に見詰められる。真剣の視線が、私のまなこの真ん真ん中に狙いを澄ます。と。――紺炉中隊長! 角の向こうから年若い火消しの呼ばう声が聞こえて来た。何を言おうとしていたものか知れぬ、開かれた口が閉ざされる。仕切り直して厳めしく「ここだ。」と応えた相模屋さんは、本当に忙しいひとだ。今更になって己の稚気を恥じるばかりの私の頭に、そうっと、固く大きな手の平が載せられる。
「この通りだ。悪いが今は時間が取れねェ。艶姿は後でゆっくりと拝ませて貰おうか。」
髪型が崩れてしまわない程度にやわらかにひと撫でふた撫ですると、相模屋さんは身を翻して声のする方へと歩み去って行った。
――そして、仰有る通りの後程に、私は癇癪なぞを起こして彼を挑発した事を反省するのであった。花に喩え、観音様に喩え、甘く優しく。やまぬ言葉攻めならぬ褒め言葉攻めにさいなまれ、震えながらに得心がいく。この飴と鞭の使い方こそが長続きの秘訣たり得るのだろうと。
新門紅丸
20220623(木)05:16▼ひねもすひとりじめ
「ここは新門さんだけの場所なんです。ごめんね。」と、アーサーくんの可愛いおねだりを断った時のこのひとと言ったら――
「――随分と安心しきった顔をしてくれますよね。」
「これだけ寝心地がいい枕に頭を預けながら気を張れって方が、土台無理な話だろ。」
「昼間のようにまた不意打ちを食らうのでは。」
「屁でもねェな。」
「貴男はそうかも知れませんけれど。」
「もう夜も更けた。今更、野暮な事する奴ァいねェよ。」
新門さんの言葉が、第七特殊消防詰所をすっぽりと覆うしじまに溶ける。誰も彼もが寝息を立てて口に戸を立てている夜半。「紅丸ばかりずるいぞ。」と幼気に尖った彼の唇も、すやすやと穏やかにしているのだろう。
何時もの通りに少し早くに詰所の暖簾を潜った森羅くんとアーサーくんに気付かずに、縁側で長閑やかに新門さんに膝を貸していた昼日中。気恥ずかしさから慌てふためく事も出来なかった。私達を見たアーサーくんが、次は俺の番だ、とばかりに詰め寄って来たからである。まるで実の姉かのように慕ってくれる年下の可愛らしい男の子の言う事だ。何くれとなく聞いてやりたかったが、此所ばかりは譲ってあげられなかった。渋々渋々と言った様子で引き下がってくれたアーサーくんと、がちがちに表情を強張らせて事の成り行きを見守っていた森羅くん。それから二人は、膝枕から身を起こした新門さんに稽古を付けて貰って、今は客間で床に就いている筈だ。
つ、と。肉付きの薄い頬の輪郭をなぞる。新門さんの目蓋が擽ったさに震え、僅かに持ち上げられる。そしてゆっくりと下ろされた。自分だけの場所だと、この膝にすっかり頭を預けている。身も心もゆだねてくれている。
月明かりをふたり占めにした縁側に、私の笑う声は大きく響いてしまっていやしないだろうか。
「ねえ、新門さん。髪、撫でても良いですか。」
「お前の膝の上なんだ。好きにしな。」
好きにしろと言いながら、明け渡す心算なんて一つだって無いくせに。
あの時に彼等に向けて、駄目だ、退いてやらない、と目で強く訴えていたの、知っているんですからね。
新門紅丸
20220616(木)04:56▼王様より百カラット
「子どもから駄菓子を巻き上げるだなんて。」
「あいつらが突っ込んで来たんだよ。」
如何にもうんざりだと言う声を漏らして口をへの字にひん曲げてはいるが、説得力は無い。ビッグカツの端を銜える新門さんは、懐からこぼれ落ちそうなふ菓子を仕舞い仕舞い、景品を総取りした為に膨れた腹回りを撫でた。がさがさと随分と景気の良い音がする。
「賭けベーゴマとは、一体、誰に似たんですかねえ。」
昔から大人達の目を盗んで密かに行われていた子ども達の賭け事。それは新門さんに憧れを抱く少年達の間で今、最も過熱された遊びとなっていた。態とらしい溜息を吐いてはみせたが、何も新門さんのご趣味であらせられる何時も裏目に出る一か八かの大勝負を真似て、と言う訳ではない。彼は幼い時分からベーゴマも滅法強かったのだ。其所から、ベーゴマの強い男はべにきみたいに強くなる、とのジンクスが広まったらしい。微笑ましい話ではないか。二十二歳の大の男が、子どもに混じってベーゴマに興じて、全勝して駄菓子を掻っ払う、のは苦笑いするしかない話だが。
「紺炉には言ってくれるなよ。雷一つじゃ済まねェ。」
ビッグカツをしがみながら、新門さんが懐に手を突っ込んではがさごそと何やら漁る。酢だこさん太郎が顔を出し、ミルクせんべいが飛び出し、モロッコヨーグルトが転び出て。漸く取り出した駄菓子の包装が開けられる。
「こいつでお前も共犯だな。」
す、と私の左手を取るなり、新門さんは薬指に輪を通した。大きな飴の宝石の飾られた指輪が、左の薬指でキラキラリ、甘い色で光り耀く。
「――意味、わかってやっていますか。」
「さてな。折角だ。このままもうひと勝負行って来るとするか。」
「それこそ雷一つでは済まなくなりますよ。」
「一つ二つ落ちたら三つも四つも変わりゃァしねェよ。」
この流れをものにしようと賭場に向かう背中を、広場に突っ立って見送る。心なしか足早に去るように見えたのは、この指に確りと嵌められた幼気な婚約指輪の所為か。子どもみたいに照れる、かわいいひとめ。
新門紅丸
20220502(月)14:05▼たねたいたりた
「こいつはまた、でけェ狸が入り込んだな。」ぎし、ぎいし、と板張りの鳴る音が、声の主の体格の良さを物語っていた。「縁側、雑巾掛けしてェんですが。いつまで下手な芝居打つ気で?」水を張ったバケツを下ろす動作には遠慮と言ったものが無く、疾っとと起きた起きた、と急き立てていた。又も床から軋みが上がる。次いで、ざぶざぶと水音。バケツの傍らに膝を突いて、水に浸した雑巾を絞っているのだ。縁側にて頑なに規則正しくしている呼吸音の一つは、古布に取り付いていた最後の一滴によって遂に穿たれた。気不味さが重石となって開き難いらしい目蓋が、そろそろと持ち上げられる。視界を焼く真白い日の光にきつく眉根を寄せたが、二度三度とまばたきを繰り返して、赤い瞳を昼下がりの明るい世界に順応させている。崩した膝の上ですっかり力を抜いていた艶めく黒い頭が、ゆっくりと擡げられた。「女の膝ってのは極上の枕だ。いつまでも寝ていたい気持ちはわかるが、ここだと風が障る。もう部屋まで運んでやれ。」応、と。首肯すると、切り揃えられた黒髪の毛先がさらりと揺れる。ふうわり。聞き慣れた石鹸の香りが、寝息を装う合間に感じられた。
――新門さんと同様、私も狸寝入りをしていただなんて言い出し難い。寝ている赤子だって起きてしまわないような静かな静かなさまで抱き上げられて、静かに静かに連れてゆかれるは新門さんの部屋だ。布団でも敷かれて寝かされては、貴男の寝顔を楽しみにずうっと起きていました、なんていよいよ言い出せなくなる。けれども、私の知らないところにあるこの優しさが心地よくて。もう少しだけ、と目を瞑る。
「足、痺れさせちまったか。」
「――、」
「ずっと起きてただろ。」
「え、」
「まァ、足が痺れたにしては幸せそうな、随分といい面で笑ってたが――そいつについ見惚れてな。寝るのも忘れちまった。」
「え、」
何時から、ではなく、はじめから、だったとは。狸がお好きだと狸の真似事も、狸の真似事を見抜くのもお上手なのか。苦笑で綻ぶ声音で語られたそれに思わずぱちりと目を見開いても、新門さんは私を下ろす素振りがない。
「夕飯まで寝直すか。」
生欠伸をしながら、新門さんは住み処の寝床へと帰る。お気に召したらしい枕を抱えて。
新門紅丸
20220429(金)08:06▼地獄に仏、娑婆に彼女
第七特殊消防詰所前を何時ものように掃き清めていた紺炉の片眉が上がる。人の顔を見るなり人の顔を見られなくなるとは、一体全体如何言う了見だろうか。態々問いたださずとも一目でわかるのだが。
暖簾を潜って表に出て来た瞬間に、やっちまった、と大きく濃く書き出された紅丸の顔には見覚えがある。見覚えしかない。目も合わさずにそそくさと行ってしまおうとする、隠し事を抱えて少し丸まった背中を睨み据える。
「若、どちらに?」
「ば――……ババァに風呂敷返して来る。」
「大福はまだ残ってますぜ。八つ時に出した俺が言うんだ、間違いねェ。」
「……夕飯には戻る。」
「すってんてんでか?」
「今日は勝てる気がするんだよ。」
矢張り、博打か。不貞腐れてへの字にひん曲がった唇が見え透くような声音に、紺炉の口もとも厳めしくならざるを得なかった。
今日は、今日こそは、と期待を込めても負けが込んでゆく一方で、紅丸が賭け事に勝って帰って来た試しなぞ然程多いものではない。数日前にも、皇国から支給されたばかりの給与の大半を賭場に落っことして来た。お前ももう二十二なんだから金の使い方を少しは考えろ、と兄貴分として説教をしたと言うのに、如何やら甲斐無く右から左へと抜け出て行ってしまったらしい。幼い紅丸にしたように聞き分けのないその耳を引っ張って足を止めてやろうにも、大隊長と中隊長と言う序列が明確に決まった手前、手を出す事は憚られる。
「――ったく。」と、辟易の溜息を見送りの言葉に代えようと決めた矢先。紅丸の動きがぴたりと止まった。直ぐ近くに、何時の間にか小柄な影が差していた。
「こんにちは。お二人共、お元気で何よりです。」
娘が一人、愛想良く微笑んでいた。紺炉にとっては顔馴染みの娘であり、紅丸にとっては懸想している女だ。両の手に提げている風呂敷包みを見るに、詰所に惣菜の差し入れに来たのであろう。
紺炉が詰所の壁に竹箒を立て掛ける。女には重たかろう荷物を持ってやろうとして手を空けたのだが――その必要はなかった。
「悪いな。いつも助かる。」
「こちらこそ。皆さんにはいつも助けて頂いていますので、このくらいさせてください。」
娘の姿を見付けると、紅丸は颯とそばに寄って、はち切れそうに膨らむ風呂敷包みへと手を伸ばした。受け取って、詰所の勝手元に運んでしまうなり紺炉に預けるなりしなければ賭場にも出向けないであろうに、何時迄も身体の正面を娘に向けて背を見せる素振りがない。
完全に逆上せている。これだけ熱を上げていれば、当初の目的は蒸発している事だろう。紺炉はそう当たりを付けて、片付けるべく竹箒を手にし直した。
「新門さんは、これからお出掛けですか。」
「いや……。上がってくか?」
「お邪魔でなければ、喜んで。」
知らず、最強の男から敗北を一つ取り上げた娘が、言葉の通りに喜ばしそうに笑う。まばゆい光に触れたように目を細めて紅丸も笑った。穏やかさが二人を包み込み、紺炉をも取り込む。よくやってくれた娘に飛びきりの茶を淹れてやろうと、紺炉はひと足先に詰所に戻るのであった。