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記事一覧

  • 新門紅丸

    20231231(日)04:52
    ▼ご休憩


    「ああ、新門さん。こんにち――」は? 第七特殊消防詰所の上がり框につま先を掛けると同時、惣菜をくるんだ風呂敷包みを持って行かれた。それが隅に置かれた時には、私の両の足は板の間を踏み、そして浮いていた。新門さんの両腕に抱え上げられて浮いていた。「なに!?」この至近距離、素っ頓狂な悲鳴が聞こえていない筈もなかろうにずんずんと邁進なさる。その先は、言わず語らずして察せられる。新門さんの部屋の前。片腕で抱え直され、襖が開けられる。下桟の擦れる乾いた音に重なって、常の余裕の欠けた分、僅かに掠れた声がする。「――ヤクザ者が女を攫うとしたら、目的は一つだ。違うか。」それは、詰まり。そういうこと、を。屋根の瓦が燦々と陽光を照り返している時分に、そういうこと、を。したい、と。結び付けるなり、擦り半鐘にも似た速度で鼓動が大きく鳴る。敷きっ放しであった布団に優しく横たえさせられる。覆い被さる影から石鹸の匂いが滑り落ちて来て。このか細い呼吸毎その腕の中に仕舞い込むように、確りと抱き締められる。じいっと。じいっと。胸の早鐘が百撞かれる頃。安堵の吐息が耳朶をぬくめた。私は其所で、肩にうずめられた顔が安穏と弛んでいると見ずとも知った。伸びやかな深い呼吸が、規則正しく上下する背中が、安らぎを示しているからだ。――新門さんは、寝ていた。「話が違う……!」助平心から発せられた文句とも聞こえるが、全く話と違うのでは真っ当な抗議にほかならない。これが無頼漢のする事か!

     
  • アーサー・ボイル

    20230815(火)06:20
    ▼Aは理想を超えて


     その話題を出したのは、本当に、何となくであった。今日の天気の話では味気無いなあ、と思っただけなのだ。
    「アーサー、知っている? キスをする時の理想の身長差は十二センチなんだって。」
     私にとっては上は百八十六センチ、下は百六十二センチと言った所か。私は女性にしては身長に恵まれている。お陰で、横を向くだけで青く閃く宝石のような瞳が望める。間近くで絵本の中の王子様めいた端正な顔を拝める。見遣った先のアーサーはと言えば、ぽかんと、丸で王子様らしくも騎士王様らしくもない間の抜けた表情をしているが。如何にもぴんと来ていない様子であった。
     まったく、アーサーはお子様だなあ。
     そう揶揄しようと開いた唇、が。途端、動かなくなる。柔く制され、人肌の温度で御される。何時の間にか視界が金に、青に、染まっていた。
    「関係あるのか。このままでも出来るだろ。」
     まばたきの音が聞こえそうな所で、恋人にしか許されない距離で、アーサーが不可思議げに言う。
     細く削った金が植え付けられたかのように根本から毛先迄輝く睫毛の、その一本一本に見惚れた振りをして。私は茫然としていた。ねえ、私、これがファーストキスだったんだけれど。

     
  • 森羅日下部

    20230815(火)05:34
    ▼牛乳に相談だ!


     片想いしている女のひとと休憩時間に近くのコンビニに行き、買った弁当を二人で食堂で食べて、和やかに話しをする。そんな癒やしのひと時も残り十五分となった頃。読んでいた雑誌から顔を上げて、そのひとは言い出した。
    「シンラくんは身長は幾つありますか。」
    「百七十三ですけど……。」
    「ちょっと立って貰えますか。」
     向かい側で急に立ち上がったそのひとに倣って、俺も椅子から腰を浮かせる。何だろう。彼女がテーブルを回り込んでこっちに来るのを目で追いながら、後輩の立場上、気を付けの姿勢でじっと待っている、と。
    「ああ、成程。これくらいなんですね。」
     俺の直ぐそばに立ったそのひとが、自分の頭の天辺に手を置いて見上げて来る。小さい、可愛い、なんか良い匂いがする。あ、マズい。どきどきして口の端が上がって来ている。だらしない所をこのひとに見せたくなくて、必死に唇に力を入れて平静を装う。
    「何が「これくらい」なんですか。」
     唇を引き結んで話した所為で、尋ねた台詞の発音が滅茶苦茶だった。
     意識しっ放しの俺を気にする素振りなんて見せず、そのひとはコンビニで弁当と一緒に手にした雑誌を振り返る。それからピースサインを作って、にこにこした顔の横に持って行く。
    「この雑誌のコラムによると、カップルの理想の身長差は十五センチメートルだそうです。私の場合は、君プラスニセンチですね。」
    「ご協力ありがとうございます。」と丁寧にお礼が述べられた。さっと雑誌を回収して、コンビニ弁当の空き容器をついでに俺の分まで纏めて、歯磨きをしに行くと言って食堂を後にする、俺の好きなひと。一人、この場に残された俺はと言うと――牛乳を飲みに冷蔵庫に向かった。
     小走りする身体は、後二センチ、足りない!

     
  • 新門紅丸

    20230814(月)23:46
    ▼安暖手


     人気は疎か野良猫ッ気も無い路地に差し掛かった時、こつん。手の甲が触れ合ったものだから、おや、と思ったのだ。私がのこのこと隣を歩いていようとも、新門さんの手は何時も大事そうに袖の中に仕舞われている。だと言うのに、こんにちは日のもとにご健勝を顕示召されているではないか。珍しい事もあるものだ、と不思議がっている間にも、こつ、こつん。火消しらしく日に焼けた手が、節榑立った指が、私の手の甲にちょいとぶつかって来る。そばにいる事が許される関係なれども、並んで散歩するとなると差し障る距離であったろうか。一歩、横へとずれようとする。つ、と指先が攫われた。「へ、」なんて素っ頓狂な声を上げる私を気にもとめずに、新門さんは手を繋いでしまうと、何でも無いような顔をして半歩だけ先をゆく。分かたれる事のないようにと、その手には確りとした力が込められていた。私達が表で手と手とを重ね合わせるのは、これが初めて。つい、良いのだろうか、と彼の火消しの長としての体裁を気にしてしまう。けれども、歩く毎、嬉しさが追い抜かしてしまった。ぎうと手を握り返すと、新門さんの横顔に微笑の気配。もしかして先程の仕草は、慣れないながらに手を繋ごうとしてのもので――「――ふふ。」「……機嫌が良いな。何か良い事でもあったか。」「はい。飛びきりの良い事が、掌にあります。」

     
  • 相模屋紺炉

    20230814(月)20:22
    ▼滋温


     目が、目が、疲れた。向かい合った文机を厭うた身体が、ぱったり、勝手に畳に転がる。第七特殊消防詰所の一室、「筆忠実部屋」と揶揄されるこの部屋に出入りする者は、私ともう一人くらいのものだ。お陰様で男所帯でも人目を憚らずにだらしなく過ごせる、と言っては、くだんのもう一人に叱られてしまうか。
     大の字になって遠くの天井を仰ぎ、疲れ目を休ませる。――休ませようとしたものの、木目が蚯蚓ののたくったような文字に見えて来てしまって全く休まらなかった。大人しく目蓋を閉じる。今度はタイプライターの打ち出した整然とした文字がまなうらに散らばって、矢張り気が休まらない。
     第二世代能力者と言う身分のみで女だてらに第七特殊消防隊に混じっている私ではあるが、その実、男の世界とされる火事場に出られる筈もなく、任される仕事と言えば事務仕事が専らであった。詰まり、第七特殊消防隊は私を書類を相手に喧嘩して貰う為に起用したのだ。それに異を唱える程の力は無く。先ず以て荒事は苦手で。だから彼等を支える裏方仕事は性分に合っているにしても、蟻の如く細かな文字を日がな一日追っていては眼球の奥も鈍く痛む。それでも、これが私に与えられた仕事だ。全うしなければならない。
     ヨイコラ、目蓋を持ち上げる。持ち上げられない。ヨイコラ、身体を持ち上げる。持ち上げられない。起き上がりたくない気持ちが、藺草が背中に絡み付いているような錯覚を起こさせる。「ああ……新門大隊長の顛末書の添削があ……。」。呻き声を上げるも何も上向きにはならない。それどころか、目蓋になにかあたたかな重石が載せられて、やんわりと頭が畳に押し付けられるではないか。
     思わぬ出来事に目を剥いたが、目もとが覆われていては薄闇で視界が利かない。けれども、おそれる事は無かった。傍らに座した気配はこの荒くれの町でも一等大きく、一等力強く、ならば一等理知に富んでいるからだ。適材適所だ、と。書類仕事を共にしてくれるもう一人の御方の影であった。
    「あれだけあった山が更地になっているとは、今日も随分励んだな。疲れただろ。そのまま楽にしてろ。」
    「紺炉中隊長。」
     あたたかな重石の正体は包帯の巻かれた大きな手の平であった。目蓋をじんわりと包み込む紺炉中隊長の体温は余人よりも高い。丁度気持ちが良く感じる湯船の温度に通じて、五分もしない内に身体が弛緩してしまう。十分もすれば意識だってとろとろに蕩けて、勤労の意思も骨抜きにされる。これは、まずい。
    「ちゅうたいちょう、まって、これ、だめです……。」
    「熱かったか。」
    「いえ、きもちがよくて……ね、ねる……。」
    「寝ちまえ。三十後にはまた働いて貰うからな。」
     飴と鞭の使い方をようく心得ている台詞は、穏やかで優しい声で低く響く。眠っているところに毛布を掛けられた時のような擽ったい心地になって、すこん、と。私は容易く眠りの底に落ちてしまうのであった。

     
  • 五条悟

    20230814(月)04:44
    ▼コネクッテコネクト



    「呪言使いって訳でもないのに勿体振るなぁ。」
     黒糸で織られた幅狭の几帳の向こう、きっと、目は口程にものを言っている。舌が付いていたならば舌打ちの一つでもしていたであろう、痺れを切らしたように苛々としてぎらつく青眸を前にして、逃げ去りたくならない生命体などこの惑星には存在しやしない。御多分に洩れず、私も踵が浮いた。
     一歩、後退る。
     一歩、歩が進められる。
     一進、一退。
     繰り返すうち、悟さんの肉厚の身体に押し込められるようにして、私は部屋の隅に追い詰められていた。ぐいぐいと壁に背中を押し付けれども、其所に隠し扉なぞ在りはしない。只、僅かばかりでも構わないから距離を取りたかった。そもそも、部屋に二人切りとなった時から心臓は全力で跳ね続けているのだ。斯様な至近距離で斯様に圧力を感じさせられては、忽ちに限界を迎えて身も心も共倒れとなってしまう。のに。悟さんはと言えば、静かに、静かに私を見下ろして、逃がしてくれる気配が無い。
     不図、天井を衝かんばかりの巨躯の背が撓った。血液のすべてが心の臓に注がれている為に血の気の引いて蒼くなったあわれなこの顔を。じい、と。覗き込んで来る。矯めつ眇めつ、その度、蒼く赤く。頬に引いては寄せる血潮の動きを真剣に観察するさまは医師の如く、ならば、視診の次は触診となるのも然もありなん。
    「顔にはそりゃあもうしっかり書いてあるんだけど。」
     何を、とは問えなかった。伸びて来た骨太の人さし指の先が、むに、と頬に埋まって遊び始めた所為だ。
     迂闊に話せば頬の内側の肉を噛んでしまいかねない遠慮の無い力加減で、むに、むに、と。捏ね繰られて、捏ね繰られて、お前は餅だとか饂飩だとかなのだ、と自分の頬に言い聞かせる時間が幾らか過ぎた頃。飽きた様子で指先は大人しくなり、今度はすいすいと文字らしき線がえがかれる。
     頬に意識を集中させて読み解いた、それ、は。
    「でも、君の口から聞きたいんだよね。――好きなら好きって、はっきり言ってよ。」
     好きだと、読まれていたのか。過ぎたる気持ちを隠す事も秘す事も出来ず、己の感情を取り扱う呪術師として忸怩たる思いだ。――それは傲岸不遜と言うものか。御釈迦様の掌の上ならぬ御六眼様の視界の中なのだから、読まれていて当然なのだ。
     思考に没していると、人さし指の背で頬を撫でられた。甘やかに低い声音こそ自信に満ちあふれていっそこぼれている程の堂々たるものであったが、擽ってでも笑わせようとするかのようなその手指の仕草に見えるは、紛う方なき催促だった。揶揄されると覚悟していたのに。
    「悟さん。」
    「ん?」
    「言ったら、どうなりますか。」
    「どうしちゃおうか。」
    「言ったら、貴男はどうなりますか。」
    「もうどうにかなってるかもよ?」
     あっけらかんと笑って、悟さんは自分の片頬を指さした。
     私には魂を見透かす特別なまなこは填まっておらず、読心の心得もない。言葉にして言ってくれなければ思うことなどわからない筈なのに、私のこの頬に書いてある感情と同じものが其所には宿っているように見えていた。

     
  • 新門紅丸

    20230812(土)23:15
    ▼ごちそうすまいる



    「――す、」
    「酢?」
     老舗大衆中華料理店は来々軒。その年季の入りようは幾層も重なる油汚れで表され、臙脂色の四角い卓子や丸い椅子はぺたぺた。手を伸ばした先に備え付けられている卓上瓶の表面も勿論の事、ぺたぺたであった。一つ取ったやや粘着性のある小瓶の中身は、ご所望の通りに酢。それを相席している新門さんに渡そうとするも、はたと、何所に置くべきか迷ってしまった。だって、新門さんは頼んだ中華蕎麦をあっと言う間に平らげてしまって、今さら酢を使う余地なんて無いのだ。何故そこで、酢。ひと心地が付いて手を束ねている新門さんに首を傾げながら、もごもごと口いっぱいに頬張った餃子を飲み込む。それを皮切りにして、新門さんは何の気無く言った。
    「好きだ。」
    「……何で、中華屋で、餃子を食べている時に、言うんですか。」
    「布団の中だけじゃァ下心があるみたいだろ。」
    「だとしても、こんな、大口を開けてものを食べているみっともない姿を見てだなんて。」
     酢差しを戻しては、緋の眸に映った食いしん坊の食いしん坊たる所以である腕白な大口を覆い隠す。箸の先で小皿に張った酢醤油の水面を掻き掻き、俄かに沸き起こった羞恥をも撹拌している、と。ふ、と。新門さんは和やかに微笑った。
    「そう言うところが良いって言ってんだ。」
     お腹がいっぱいになると心にゆとりが持てるにしても、だ。そのおかんばせは、病める時も健やかなる時も、お腹が減っている時もお腹がいっぱいの時も慈しんでくれると思えてしまうに足るものであった。

     
  • 新門紅丸

    20230411(火)04:03
    ▼ぺいん・ぺいん・ぴゅーん!


     呼吸は浅く、早く、このひとらしくなく乱れていた。
    「――まさか、走って行って、走って来たんですか。」
    「呑気に歩いていられねェからな。」
     我が家から一番近くの薬舗迄、距離は然程ありはしないが、それでも人目のある通りをゆかねばならない。市井の人は誰も彼もが耳を欹てて擦半鐘の音を捉えようとしただろう。最強の消防官が、火消しの棟梁が、浅草の町の長が一目散に走っているのだから。徒事ではないと、表は今、ざわめき立っているやも知れない。お使い一つで町を揺るがしたくはなかったのだが――。
     新門さんが、布団のかたわらに膝を突く。客人が来訪したにも関わらず丸まった格好の儘動けずにいる私、の、目の前に、まるで健康を祈念したお守りかのように確と握った小箱を差し出す。お使いをお願いした鎮痛剤に間違いなかった。正に、取るものも取り敢えず、駆け付けてくれたと見える。この分では、「釣りは要らねェ!」と丼勘定で薬舗を飛び出していそうだ。
     ――ありがとうございます、と。苦笑と共に浮かんで来た感謝の言葉は、しかし、寄せては引いてを繰り返し、いま押し寄せた痛みによって呑まれる。息を詰める。身体が強張る。そうっと、あたたかな手に肩をさすられた。
    「待ってろ。水、持って来る。」
     死の際に在る人間に求められたかのような逼迫した声と、素振りだ。踵を返して廊下に出た新門さんの動きはきびきびとしている。だのに、その足運びたるや何所となく不慣れに感ぜられるのであった。恐いもの知らずで、人の上に立つ者として堂々とした振る舞いを心掛けている。常にゆとりを持って生きているあの新門さんが、慌てている。ともすると足を縺れさせて転んでしまうのでは、と思わせる程に慌てているのだ。
     この身は大切にされているのだと心地が好くなるよりも、過ぎた心配をされて居心地の悪くなるよりも、滅多な事に可笑しくなってしまう。可笑しさは痛みと競って、競って、僅かに勝った。新門さんは水を汲むなり大急ぎで戻って来てくれたと言うのに、私は痛がりながらも笑いがとまらぬありさまとなっていた。

     
  • 新門紅丸

    20221231(土)00:24
    ▼蜜も過ぎれば毒となる



    「新門さん、格好良い。」
    「もういい。」
    「降参が早くはありませんか!?」
     部屋に連れられた時にこのひとが目覚めさせた燭火は、私達が情事に耽り、身体を清めて睦言を交わすこの時迄確りとおきていた。私の苦笑に大きく揺らめく橙炎のさまは、閨を片隅で見守っていたものとして首肯するかのよう。
     昼日中の唇を抓ってやりたくなるような捻くれた口振りは、こう言う寝床では眠りに就いてしまうらしい。代わって起き出すのは彼の素直で直接的な面で、兎も角、素肌を甘やかしながら言われるのだ。きれいだとか、かわいいだとか。今夜も事の最中に数え切れぬ程の言葉の愛撫を受けて、受けて、もう黙ってはいられなかった。「言われっ放しでは女が廃るので、眠るまで意趣返しをします。」と挑戦して、「面白れェ。やってみな。」と受けられた矢先。これだ。
     布団の上に胡座を組んだ新門さんは、照れ隠しの心算か外方を向いてしまうと、片手を挙げて制止を掛けて来る。未だ一言目だと言うのに何とも呆気無いったらないが――
    「いつも町の人に褒められていますよね。男前、とか、抱いて、とか。」
    「あれは花火に向かって玉屋だ鍵屋だと囃し立てているようなモンだろ。」
    「では、私の台詞もそうやって涼やかに受け流してしまってはいかがですか。」
    「出来るか。惚れた女におだてられて、浮かれちまわねェ男なんていねェんだ。これ以上はみっともねェ面ァ見せちまうから、もうやめろ。」
     新門さんが、己が男のさがの儘ならなさに辟易するみたいに項垂れる。その拍子に柔らかな黒髪がさらさらと流れて。覗いた耳は、真っ赤に染まっていた。灯火の橙を撥ね退ける程の血の色に、私の血潮も熱を孕む。
     このひとの気を惹きたくて、触れれば焼けてしまうような耳の先にそうっと唇を寄せる。
    「好き。」
    「――」
    「ね、新門さん、好きです。いつも格好良い貴男が、好き。だいすき。」
    「……降参、降参だ。」
    「ここは閨です。聞けないならば、塞いでください。」
     息を呑み、顎を引いた新門さんが、上目勝ちに私を見遣る。底に口惜しさが燻っている、緋の瞳。その真ん中に向けて唇を指し示す。
     こんなにも格好良いひとの格好付けようとしている姿は、可愛くて、可愛くて、いとおしい。だから、この夜に言葉はもう要らない。
     噛み付くような口付けに従い、ふた度、ふたり、布団に傾れ込む。

     
  • 新門紅丸

    20221229(木)05:04
    ▼つま先で語る


     と、と。
     防火靴に包まれた紅丸のつま先が二度三度と地を穿つ。
     裏庭での実戦稽古の最中、小休憩として設けられた時間での事だ。プラズマを納めた聖剣の柄で、と、と、同じようなリズムで己の肩を叩いてみたアーサーであったが、如何様な意図かは汲み取れなかった。唯一、彼の足もとを横切ろうとしている一匹の蚯蚓を見付けられはしたものの、紅丸は弱いものを虐げる悪趣味を持つ男ではない。徒におびやかしている訳ではないだろう。
     のそのそと伸び縮みして防火靴から距離を取ろうとする蚯蚓から、紅丸へと視線を移す。付き合いの浅い人間には不機嫌そうにしか映らぬ紅丸の表情だが、アーサーの慧眼は正しく感情を見透かすのであった。
    「彼氏面、ってやつか。」
    「あ?」
    「暇だから蚯蚓をいじめているんじゃないだろ。それ、何の儀式だ。」
    「そんな大層なモンでもねェが、あいつが笑っていられるように、ってところだな。」
     紅丸が第七特殊消防詰所の路面した方向を顎で示す。麗らかな昼下がりに相応しい呑気な足取りで裏庭を覗く者がいた。「新門さん! アーサーくん!」と、晴れがましい笑顔を咲かせている一人の女。その手に提げられた唐草模様の風呂敷包みには火消しの人数以上の大量の大福が詰め込まれている気配があり、彼女は馴染みの老婆からの差し入れを預かって来たのであろうとは、俄に顰められた紅丸の顔から容易に窺える事だった。
     紅丸から、女へ。女から、蚯蚓へ。蚯蚓から、紅丸へ。関係性を順繰りに目で追ってゆき、アーサーは首を傾げた。
    「つまり、何だ? 紅丸が蚯蚓を倒すとあいつに経験値が入るのか。」
    「あー……あいつは虫が大の苦手でな。視界に入るだけでも浅草中に響く大騒ぎで、聞いちゃいられねェ。うるせェ事になる前に追い払ってやってんのよ。」
     と、と。
     防火靴のつま先が、再度、蚯蚓の脇の地面を叩いて、騒々しくなるより早くに向こうへ行ってしまえと急き立てる。最強の男に追儺されては這う這うの体で逃げ出さざるを得まい。必死に蠕動する蚯蚓の姿は無力そのものであり、中華半島で巨大にして獰猛な蚯蚓状の生物と会敵しているアーサーにとっては脅威と呼ぶには物足りない。それは勿論、紅丸とて同じ事であろうが――この男は、高が蚯蚓だろうと言い切って超克を強いず、か弱い女の恐怖心に寄り添っているのだ。
     紅丸が身体の向きを変える。何も知らずに歩み寄って来る女の目に触れさせぬよう、裏庭の端に身を寄せる途中の蚯蚓との間で壁となる。
     ――成程、これがそうなのか。傍らで一心に女を望む紅丸を見遣って、アーサーが訳知り顔で首肯する。それは騎士の活躍する物語でも崇高なものとして扱われる、人生の一大テーマだ。
    「フッ。愛、だな。」
    「お前……真顔で小っ恥ずかしい事を言うんじゃねェよ……。」


     
  • アーサー・ボイル

    20221221(水)05:28
    ▼第三の選択肢、私



    「お前。」――と。真っ直ぐに見詰めて来るまなこは、嘘を知らない。

     その死相はきっかり事務仕事の時間に浮かぶのだから三日で見慣れた。然りとて、美形の不景気な顔と言うものは、今日は厄日となるのではないか、と心に不安の種が植わる程の縁起の悪さを感じさせる。見過ごし難くなると、私はつい、アーサーくんの気晴らしになりそうな話題を振っていた。お昼ご飯は何を食べるの、とか、円卓の騎士について教えて、とか。本日は瀕死のようであったから、彼の一等お気に入りのゲームについてだ。「アーサーくんは、ビアンカとフローラ、どっちが好みなの。」。手もとの書類を一枚、片付け終えてから尋ねてみると、直ぐさまに明るいお返事があった。無邪気さが照らすそれは、MPが……かしこさが……と何かこちゃこちゃとした事を朗々と語り出し、萎び切っていた美貌と金のちょんまげにも次第に生気が取り戻されてゆく。元気になって良かった、良かった。相槌為い為い、首肯為い為い、新たな書類に向き合う、と。未処理の書類の山脈を越え、机と机の隔たりを越え、ファイルの垣根を越えて、青い矢が飛んで来る。じいっと、アーサーくんの瞳が私を射抜く。狙い澄まされた心臓が止まってしまったから、音も聞こえなくなっていた。

    「おい。自分から訊いておいて無視かよ。」
    「――ええ、ああ、ごめん。もう一回、言って貰えるかな。」
    「ビアンカかフローラかで言ったら、お前だ。」
    「そっか。ビアンカかフローラかで言ったら私か。」
     そっかあ。
     くだんのゲームでは、ビアンカとフローラ、何方かの女性キャラクターと結婚出来るシステムだそうだ。その二人を差し置いて、私、アーサーくんに選ばれたのか。それは、詰まり――いや――そもそも私は騎士王様の望むようなお姫様ではないし――でも――。
     混乱の渦に揉まれに揉まれ、身体の末端に迄力を込めていられない。握っていたボールペンが滑り落ち、芯の先がカツンと机を打ってはインクの染みを作る。ごめん、シンラくん。今日は非番であるこの席の常連の少年に心の中で謝りつつ、慌てて指先でインクを擦る。かまけている姿勢を見せたら逃してくれるのではないか。真剣な声音を一つ突き付けられて、希望的観測は打ち砕かれる。
    「姫と嫁、一文字違うだけだからな。そんなに違わない。」
    「その一文字で大きく違うでしょう。」
    「騎士王の嫁は姫だろう。」
    「王の嫁は王妃よ。」
    「じゃあ王妃で。お前、今日から王妃な。」
    「アーサーくんに結婚は百年早い。」
    「百年待つだけで良いのか。簡単なクエストだな。」
     ふふん、と自信たっぷりに言ってのけられる。何事にも規格外の少年だ。百年、本当に待たれてしまいそうであった。
     ボールペンのインクを伸ばし伸ばしとして白さを取り戻した机上から、そろり、向かいの騎士王様のご尊顔を拝そうと顔を上げようとして――
    「――君達。うちは職場恋愛禁止じゃあないが、職務中は控えるように。」
     横合いから、態とらしい咳払い、が。
     実は事の成り行きを見守ってくれていた桜備大隊長の厳めしく言う事に、「は、はい!」と我ながら落ち着きのない大きな返事をし、早速記入しかけの書類に齧り付く。向かいの机からも渋々々々ながらも書類と対峙する気配を感じた。アーサーくんが又もげっそりとしようとも、今度はもう、顔は上げてあげられなかった。衝立代わりとしたファイルの内側で、火照り出す頬を押さえる。

     
  • 伏黒甚爾

    20221217(土)05:55
    ▼シグナル・レッド・ガーデン


     男性美の極致に至るこの男だからこそ、口もとに付いた瑕疵は瑕疵とは言えない。いっそ男らしさを際立たせる装飾のような傷痕が、小さく引き攣って、短な言葉を生む。
    「やる。」
     次いで、徐に、けれども勿体振らないと言うサプライズの演出に適した調子で腕が持ち上がった。目の高さに差し出されたそれに、視界が真っ赤に染め上げられる。濃い、古びた血のように濃い赤色を基調として作られた小さなブーケ。中心で咲く薔薇の花弁の形をじっくりと観察していると、鼻先で花ばなの香が戯れ始める。
    「花なんざ腐る程貰って来たかと思ったんだがな。見惚れるくらい気に入ったか。」
    「ええ。色男と花束、普遍的な胸の高鳴る取り合わせだわ。突然のプレゼントとなれば尚更どきどきする。」
    「それだけ喜んで貰えるとはな。買って来た甲斐があるじゃねぇか。」
     いけしゃあしゃあと。私の胸もとに押し付けては押し付けがましく、これを早く受け取れ、と催促して来る。花よりも刃物が似合う男だ。赤にまみれた手もとを眺めていると殊更にそう感ぜられた。赤は、止まれ。警告色の発するシグナルに従い、手は伸べず、じいっと私を見下ろしてばかりの甚爾を仰ぐ。
    「いきなり、何の真似?」
    「家主のご機嫌取りもヒモの仕事だろ。」
    「別に損ねていないけれども、これから損ねる予定が――ああ、いえ、いい、わかった。」
     彼に融資して、彼が投資して、金は天下を回り回る。めぐりめぐって私のもとに帰って来た試しはない。今日は競馬か競艇かパチンコか、スウェットに取り付いた煙草の臭いが薄い事から馬か艇だろうか。私の年収と貯蓄を試算し直す。二人揃って食うに困る日の訪れは相当遠いと判じられたにしても、こうも金を使い込まれて賭けの負けが込まれると、近く財布の紐をきつく調節しなければなるまい。
     脱力した肩の先、無気力にぶら下がっているだけの手首が掴まれた。洒落っ気もなく、半ば無理矢理にブーケを握らされる。
    「へぇ。似合うな、やっぱ。」
    「……初めて言われたけれども、花が?」
    「花も。」
     私の手の中に荷物を移し終えた甚爾は、身軽そうにすたすたと部屋を闊歩し、お気に入りの居場所であるカウチソファに身を横たえた。その儘長い脚を組み、目蓋を閉ざして、夕食の用意が整う時迄ひと眠りと洒落込む心算らしい。気儘な事だ。彼の自由な振る舞いが、彼が自由に振る舞えている事が、彼の居心地の良い場所で在れている事が。私には余程嬉しかった。
     ソファのそばに立ちがてら、ブーケを構成する花ばなを確かめる。幾ら人間の機微に敏い男とは言えども、薔薇や蒲公英と言ったポピュラーな花以外の名を知っているかは怪しいものであった。
    「この花、まさか、甚爾が選んだの?」
    「花屋に任せた。」
    「血の色がお似合いになる恐ろしいご主人様に渡すものだから適当に見繕ってくれ、とでも言って?」
    「半分当たりだな。赤が似合う強気な美人にやろうと思っている、後は「適当に見繕ってくれ。」。いらねぇなら捨てろ。」
     斯くして、平らかな声音が述べる。世辞や揶揄の起伏は僅かも無かった。
     ――要らないならば捨ててしまえと何て事無く言ってしまえる、このブーケにきっと真心は無い。そして、花は枯れたら後腐れ無く捨てられる。まるで、私だった。
    「いるわよ。誰が捨てるものですか。」
     畢竟、甚爾にとっての私とは、情を掛けるに値しないゆきずりの女だ。室温が一度、ソファの位置が一ミリ違っていたから、と言う理由だけで出て行けてしまえるくらいの居場所だ。
     甚爾にとっての私とはその程度の存在でも。
     私にとっての甚爾とはその程度の存在ではない。
     抱えていたブーケを逆しまに下ろす。未だ瑞々しい花を携えて、紐でも無いかとソファ近くに備え付けてある抽斗を探る。この男にとっては枯れた花もドライフラワーも然したる違いはないだろうから、枯れてなお残るものがあるだなんて誤算となるだろう。
    「甚爾。次に負けたらシリカゲルを買って来て頂戴。」
    「次があったらな。」
    「あるでしょう。それじゃあ明日、約束よ。」
     不貞寝か、それ切り言葉は途切れて、男の呼吸は静かなしずかな寝息に変わる。果たしてほんとうに甚爾は其所に居てくれているのかと、影のようにソファに蟠る黒衣を振り返っても堪らず危ぶむくらいの静寂。その中心に置かれて、無かった事になどしてやるものか、と怒りにも酷似した感情が燃え立つ。
     ブーケをいま干からびさせる事も容易い、貴男への情と熱。

     
  • (幼)新門紅丸

    20221015(土)01:49
    ▼過激派の紺炉さん


     骨の柔らかなあえかなる腕が、す、と少女の前を遮って、その覚束無い足取りを制した。
    「危ねェから下がってろ。」
     声変わりの過渡期に在って掠れ気味の喉が厳命する。鬱陶しげに幾度か咳払いを繰り返しながら、紅丸の大きなまなこが光を映した。紅に紅が重なり、双眸が煌々と光り輝く。それに不満を露にしたのは其所から一歩も動かせて貰えぬ少女だ。
    「私だって勉強をしに来ているのよ。紅ばかり紺炉さんの奇麗な炎を間近で拝めてずるいわ。」
    「どんなに奇麗だろうと、こいつばかりはお前には危ねェって言ってんだ。」
    「紅、お前が“紅月”の熱からそいつを守ってやれ。これも稽古の内だからな。気ィ抜くんじゃねェぞ。」
     紺炉の一言によって背筋を正した紅丸が、大きな手の平に浮かべられた拳程の大きさの紅色の真円を改めて見据える。第二世代の能力を操って見事に炎熱を退ける紅丸は、無意識のうちにであろう。少女への庇護を確実なものとするべく、一歩、前に出た。
     ――成長したもんだ。紺炉はつい目頭を押さえに掛かろうとする手をぐっと握って堪えた。第三世代の発火能力を制御するすべを学びに訪れる少女に向けて、如何か後五年――紅丸を今は弟のように思っていてくれて構わないから後五年だけ待ってくれないものか、と願ってしまうのは親心故だ。花盛りの五年は女にとっての宝だと承知しているが決して損はさせない。紺炉の視線が紅丸と少女の間を往き来する。見稽古となるように小さく小さく生み出してやった掌中の“紅月”を、それこそ花火でも愛でるように目をきらきらとさせて一心に見詰める少年少女に幾久しいえにしを結ぶようにして。

     
  • 新門紅丸

    20221011(火)00:18
    ▼おっきくてあったかくて、好き
    (『新門紅丸さんで嫉妬シチュ』とリクエスト頂きました。有り難う御座います。)


     老夫婦が営む老舗の玩具屋から、第七特殊消防詰所に身を寄せた子ども達の慰めになれば、と寄贈された大きな大きな熊の縫いぐるみ。その大きさはヒカゲちゃんとヒナタちゃんがお人形さんに見えてしまうくらいで、二人も縫いぐるみよりも昼寝どきの布団として重用していた――のだが。彼だか彼女だかが詰所に引っ越して来て早数週間、ヒカゲちゃんとヒナタちゃんの興味はすっかり離れてしまい、今は“焔ビト”の弔いで家の壊れた人びとの仮住まいとして充てられる大部屋のすみっこで隅に子どもの相手をして余生を過ごしている。
     玩具屋の店主の手によって小忠実に手入れされていたとは言えども、店番を長年勤め上げたご年配だ。中の綿は萎れてくったりとしている。それが古馴染みの毛布のようで安心するのだけれど。頭の重さに負けて丸まる熊の縫いぐるみの背中は何所かさびしげで、襖に凭れ掛けさせてやる序でにぎゅうと抱き締めてやっている、と。
    「俺はもうお払い箱ってか。」
     何時の間にやら敷居の向こうに立っていた新門さんが、静かな足音を伴って私と熊の縫いぐるみの密会の現場に踏み込む。熊の縫いぐるみの隣にどっかりと胡座を組んだ新門さんは手を伸ばすと、く、と私の着物の袂を引いた。
     浅草の町の長らしくどっしりと構えて見えるよう努めているのだろうが、そもそも感情を隠す事の出来ない素直な性質をお持ちの御仁だ。面白くない、と思えば顔にも声音にも如実にあらわれる。
    「まさか、焼きもち、妬いているんですか。縫いぐるみを相手に。」
    「……もちと言やァ、団子が食いてェんだった。」
    「はぐらかした。」
    「うるせェ。」
     むすくれにむすくれた唸り声が、嗚呼、可笑しいったらない。抱き付いた熊の縫いぐるみに、ねえ、と同意を求めてみると、首肯するかのようにぬぼーっとした笑みがはっきりとして見えるではないか。
     柔らかな頭部の丸みを一つ撫で、それから熊の縫いぐるみの腕の中から抜け出して、新門さんの傍らに移る。そうっと、その逞しい肩に寄り添う。自然ななりゆきで手が取られ、握られた。手の平から伝わる体温は熊の縫いぐるみには持ち得ない熱さで、心がとろりと溶けてゆく。
    「お団子、食べに出ましょうか。」
    「まだ良いだろ。八つ時には早ェ。」
     だから今はこの儘、と。熊の縫いぐるみの目があるにも関わらずに、お臍の向きの直った新門さんの声はじんわりと甘い。

     
  • 夏油傑

    20221011(火)00:17
    ▼火を消して
    (『夏油傑「サァ? 私はバカだからわからないよ」』とリクエスト頂きました。有り難う御座います。)


     引き戸が大きな悲鳴を上げずに済んだのは、偏に少女の理性のお陰であった。教室を出た足音があっと言う間に廊下の果てへと遠ざかる。
     五条、と。家入が億劫そうに名を口にする素振りを感じ取って、五条が乱雑に白髪頭を掻く。手首が当たった為に鼻梁からややずれたサングラスを直しつつ窺うは、机を挟んで正面に座っている家入の呆れ顔ではなく、隣で外方を向く夏油の様子だ。
    「……傑。」
    「サァ? 私はバカだからわからないよ。」
     吐き出したばかりの居心地の悪そうな声を喉奥に戻したがっているかのように、五条の唇が開き、閉じ、開いて、真一文字に結ばれる。その黙考が頑なに意地を固くしてゆくたちの悪いものでは無いとは、家入も夏油も察しが付いている。だからこそ、家入は椅子から立ち上がって窓際へと移動し、夏油は机に頬杖を突いて待った。五条と夏油、二人の口論を仲裁しようとして、五条からとばっちりを受けた少女の行方に思いをめぐらしながら。ややあって、ぎこちない咳払いが夏油を呼んだ。喧嘩はお手のものなのに仲直りは拙いとは。何事も卒なく熟す五条でも苦手とするものがある事に、夏油は見えないように小さく笑った。態とらしいくらいにゆっくりと振り向く夏油に幾らか緊張の瞬きを見せたのち、五条が確と引き結んでいた唇をほどく。
    「傑。……悪かったって。」
    「まったく、悪い事をした自覚があるならそうやって素直に謝れば良いんだ。彼女にもね。――ほら、早く行って来る。それとも、ジャイアント・スイングで送り届けてあげようか。」
    「出たよ、プロレス馬鹿な発言。」
    「懲りないな、悟。同じ事を繰り返す気か? そんな暇があるとは思えないが。」
     夏油が時計に目を遣る。座学の授業の開始時刻迄はもう間も無くだ。いずことも知れぬ所でほとぼりを冷ましている少女を見付け出し、謝り、和解し、教室に連れ帰るのに如何程の時間が掛かるか――計算して答えを弾き出すと五条も即座に動かざるを得なかった。教室を横切り、戸を潜り抜け、廊下を駆ける。長い足とよく利く目のする事だ。少女は直ちに見付かるだろうと、夏油は徐に背凭れに身体を預けた。
    「硝子。悟、きちんと謝れると思う?」
    「さあ、どうだろうな。アイツ等の保護者じゃないから、そもそも心配する気にすらならん。」
    「そこは友人としてさ。」
     時計の針をじいっと見詰める夏油の横顔に、気苦労が多過ぎて何時か五条のように白髪になりやしないか、との考えを過らせた家入が手近な窓を開ける。ポケットから愛飲する煙草の箱とライターを取り出し、自動火災報知設備に感知されないように窓から身を乗り出して、授業前に一服の煙を味わう。風は喧騒を運んで来ず、五条と少女の二人は未だ出会していないとの便りを寄越した。

     
  • 五条悟

    20221011(火)00:16
    ▼スター・フラッシュ・ライト
    (『寒い日の五条悟さんのお話』とリクエスト頂きました。有り難う御座います。)


     夜空を見上げて、羊羹の表面のよう、と言う表現が思い浮かぶのは、彼所で光る星の所為だ。先駆けた厳冬の居座る冴え冴えとした空に在り、矯めつ眇めつ目を凝らしてもシリウスと見分けが付かない、そのひと。星影にうつつを抜かしている間に身体じゅうを空風に鋭く切り付けられてしまっても、それでも私は、身震いが出たくらいの事では彼から視線を逸らせないのであった。
     不図、悟さんが身を翻した。まるで透明なエレベーターに乗っているかのように、すうっと天上から地上目掛けて降りて来る。月明かり星明かりのみが頼りの中で、目が合った、と認められる距離。其所で止まるなり、悟さんはマウンテンパーカーのポケットを探っているようであった。何かを取り出そうとしている。携帯端末だ、と私が感付いたと同時に、チカリ。地にあっては星よりも眩いLEDの白光が頭上で爆ぜた。反射的に目を瞑る。カシャリ。
    「うーん、栗の茶巾絞りが食べたくなる顔。」
     シャッター音の余韻も失せて暗闇の静謐が取り戻された世界を、ポインテッド・トウの靴底が地を踏み締める音と、鼻唄にそっくりなご陽気な声が早速蹂躙する。
    「最悪です。消してください。」
    「何で怒ってんの。可愛く撮れたのに。折角だから待ち受けにしよっかな~。」
    「今は、ロック画面、て言うんですよ。」
    「……マジで?」
     如何やらカルチャーショックを受けたらしい。頻りに繰り返される瞬きによって眼帯が細かく動いている。隙有り、だ! そう威勢良く手を伸ばしてはみたものの、矢張りと言うべきか、携帯端末はひょいと手の届かない天高くに持ち上げられてしまった。肌理の整った唇をにんまりと弧にしているが、悟さん本人はどう言った感情でいるのだろう。私には、意地の悪い小学生男子のご満悦の様相にしか見えないのだが。
     うちから光っているように仄々と白い、頬の皮膚の下を見通そうとしている、と。隙有り、と素早く近付いて来た大きな手に軽く鼻を摘ままれた。
    「動きも鈍いし、身体、かなり冷えてるんじゃない? 結構待たせた?」
     長い指に灯るあたたかな体温が鼻を擽る。悟さんは私の身体の心配をしてくれているようでいながら、徐に人の鼻をふにふにと摘まんで手遊びをするそのさまから、私にデートの待ち合わせに遅れて来た彼氏への戯れ合いを望んでいるようにも思えた。
     格好良かったです、などと、褒めてあげた方が良いのだろうか。この状態ではどれ程耳触りの良い言葉を発しようとも間抜けになりはしないか。めぐらしている間にも悟さんの指先は離れてゆき――今度は力強く肩を抱かれた。
    「それじゃあ、帰ろっか。」
     咄嗟に高いところにある不思議の詰まった頭を見遣る。直ぐに横合いから凩が吹き荒び、逆立つ白髪の先を乱して、私の身体に触れる事無く過ぎ去った。

     
  • 伏黒甚爾

    20221011(火)00:15
    ▼死肉の血
    (『伏黒甚爾が結構良く思っていた女に男ができて縁を切られる話』とリクエスト頂きました。有り難う御座います。)


     皿に盛り付けられた丸々としたハンバーグを半分に割り開くと、透明な肉汁が溢れ出る。色こそ異なれど、刃で肉を裂くと体液を垂れ流す、そのような光景を男は幾らも見て来た。食卓を挟んで向かい合わせに座っている――今晩もにこりともせずに手製の晩餐を振る舞う、この女の部屋に転がり込んでからも。しかし、返り血の乾いたのが服に付着していようとも警察に通報する事はしないばかりか、一度たりとも男の仕事について言及せず、「汚れた服を着ていたら折角の男前が台無しよ。」と女は気前良く代わりの衣服を寄越すだけであった。恐怖から口を閉ざすのではなく、蒙昧から口を開けないのではない。十全な胆力と知性を持ち合わせていて尚、頑なに不干渉を保つのは、女が無神経に愛せる存在を求めていたからにほかならない。愛を囁いても撥ね除けない。恋しさに触れても逃げ出さない。庇護の下、生きる為の糧にしてくれる。次の寄生先を探して居酒屋で引っ掛けた時に、女が所望した事だ。男にとっては向けられる愛玩は都合が良いものだった。腹で縮こまっている呪霊同様に躾けてやれば概ね従順に動いてくれる都合が良い感情だと、これ迄に女の部屋を転々とする中で学習していた。事実、女の言葉と手指のする事を受け入れるだけで不足の無い生活は送れていたのだが。愛している、と笑まれて朝を迎えて。好き、と微笑い掛けられて夜を終える。ままごととしか思えぬ日々は、繰り返してゆく内に軈て男の身体の奥の冷え冷えとした場所に染み込もうとしていた――魂にまじないがかけられるかのように。
    「甚爾、」
     愛の言葉に吹き込むには強張っている息吹が、食卓に落ちる。
     不得意のギャンブルで儲けた金の使い途を考えるようになった。次の大口の仕事で得た金で食事にでも連れ出そうと考えるようになった。一つ前の部屋を去る切っ掛けとなった刃傷沙汰の面倒は二度と御免だから、と。だからこそ、だからこそ、だと、今夜迄目を瞑っていた。
    「――話があるの。」
    「飯、冷めるだろ。食おうぜ。」
     とうじ。今一度、女が名前を呼ぶ。喉の引き絞られた、血の滲むような掠れ声で。
     男は皿に視線を遣る事で黙殺し、二等分したハンバーグに又ナイフを当てる。躾けられていたのは何方だと、肉が刃に泣いた。

     
  • 新門紅丸

    20220913(火)05:55
    ▼森羅日下部の受難


     いや怖ェよ!!
     背後に居る新門大隊長がどんな顔をしているのかは見えないけど、背骨が軋むくらいの圧を放って来るんだからべらぼうに機嫌が悪いに決まってる。でも、今この場で馬鹿みたいな量の冷や汗をかいているのは俺だけだ。だったらこれは機嫌を損ねて八つ当たりされている訳じゃなくて、もっと別の、威嚇とか恫喝とかそう言った物騒な類いのものなんだろう。俺、玄関で死ぬのかな。ぼんやりと仮設秘密基地の天井を眺めた。生存本能が咄嗟に働いてくれたお陰かも知れない。
    「――その、お邪魔しています。」
     秘密基地の奥から姿を現した女の人――彼女は浅草の町の人で、俺やアーサーにとって世話を焼いてくれる姉のような人で、新門大隊長の恋人だ。そしてその人はいつもの露出度ゼロの着物ではなく、火華大隊長が着ているような派手なドレスを着ていた、ように見えた。おずおずと俺達の前に歩いて来る時に、長い丈に深く入ったスリットからちらちら覗いた太股の真っ白さに脳を焼かれたせいでよく覚えてない。
     視界の端で頭がぎこちなく傾いて行く。絞り出された声は、俺の心臓の奏でるロックンロール並みに速いビートの前では消え入りそうなくらいに小さい。
    「どう、ですか。火華さんに貸して頂いた着物なんですが。似合っているでしょうか。」
     恥ずかしそうに徐々に萎んで行く声が、恥ずかしそうに露わな胸の辺りを隠そうとしたり恥ずかしそうに裾を握り締めたりする衣擦れの音に掻き消される。やめて欲しい。女性に耐性が無い純情な男心が擽られるから――なんて、よこしまな考えも一瞬で吹っ飛ぶような殺気が飛んで来る。後ろから、ビシバシと。え。俺、いきなり燃やされたりしない? 有り得ないとは言い切れない剣幕に、緊張に強張った笑いが浮かぶ。
     天井の染みから目が離せない俺の分も、じいっ、と。新門大隊長は恋人の目新しい格好を見詰めている。熱心に見詰めている。俺が唯一見る事を許された彼女の額が、焦げ付きそうに真っ赤に染まった頃。
    「悪くねェな。」
     と、新門大隊長が簡潔に呟いた。然り気無く答えたように見せているが、俺にはわかる。同じ男だからこそよくわかってしまう。気になる子の前では格好付けたいですよね。浮かれ気味にどことなくそわそわしている新門大隊長の雰囲気を背中で感じ取って、内心で共感すると肩の力が抜けた。息を吐き出すと気が抜けた。玄関から一段上がった所で新門大隊長と同じくそわそわしているその人の、細い肩の形を初めて見――
    「見んな。」
     腹の底が冷えるような低い声に身体が固まる。凄まれると同時に、新門大隊長から思いっきり踵を蹴られた。完全にパワハラだ。最強ハラスメントだ。怖いし、痛い。涙まで出て来た。悲鳴も出せずに踵を押さえて蹲る俺を他所に、新門大隊長は「いつまでも薄着じゃァ身体が冷える。もう気は済んだろ。着替えて来な。家まで送ってやる。」と甲斐甲斐しく恋人を奥の部屋へと向かわせていた。その人は俺を心配して動きを止めていたらしいが、足音が次第に遠ざかって行く。後ろ髪を引かれるようにゆっくりとしたそれを聞きながら、俺は思った。
     新門大隊長、恋人の事を本当に大事に思っているんですね――なんて、微笑ましくいられるか。踵、これ、夜には絶対に腫れてるぞ。大人気ねェな、この人!

     
  • 恋川春菊

    20220716(土)03:50
    ▼誰そ彼の、


     ピュウ、とか弱い風鳴り。長屋の戸の開けられる音は聞こえなかったから、不可思議な隙間風の出所を探ろうと身を起こす。と。小さな小さな舌打ちが斜陽に橙に染められた障子紙を突き破って来た。
     影からして筋骨逞しいそのひとは、細く開けた戸の向こうから私の起き上がったのを見て取って尚、そろりそろりと障子戸を引いてゆく。身柄が通れるだけの隙間を開けるなり部屋に滑り込んで、戸は直ぐに閉ざされた。病に臥せる人間の身体を冷やさぬように、との心得があった。「――恋川さん。」。三和土から上がって布団の傍らにどっかりと胡座を組んだひとの名前を呼ぶ。視線を引き寄せてから、自分の寝乱れた胸もとに気付いてそそくさと寝巻きを直した。
    「恥ずかしい姿をお見せしてしまって、すみません。」
    「良いから寝てろ。薬は?」
    「先程、月島さんが届けてくださいましたよ。皆さんの補佐をするのが私のお役目ですのに、ご迷惑をお掛けしてしまって腑甲斐無い事です。」
    「気にすんなって。どいつもこいつも、好きで嬢ちゃんの見舞いや看病しに来てんだろうよ。」
    「でも、」
    「兄ちゃんも、姉ちゃんも、坊ちゃんも、小鳥ちゃんも、そりゃあ心配してたぜ。悪いと思ってんなら早く治しな。」
    「――無涯さんは扨措き、恋川さんは心配してくださらないのです?」
    「してなかったら、今頃は飲み屋の暖簾を潜ってんじゃねぇの。」
     恋川さんは飄々と笑ってみせると、さあさあ風邪っ引きは寝た寝た、と軽く肩を押して来た。言われる通りに布団に横になる。透かさず顎迄夜着を引き上げてくれた手が、ぽん、と腹の辺りを一つ叩く。それを合図にして出てゆくかと思いきや、彼は手の平を其所に置いた儘じいっとしていた。腹の膨らんだり萎んだりするのを感じて、私が正しく呼吸している事を確かめているのだと勘付くのに然して時間は掛からなかった。風邪は万病のもととは言うが、直ぐに容体が悪くなる筈はない。けれども、恋川さんは真剣であった。縋るもののない物憂げな表情で、自身の手の甲を、私を――否、私に重ねた病床の誰彼を見詰めている。
     なにか大切なものを覗いてしまった気がして、白昼夢に囚われているかのような眼差しから目を逸らす。態とらしいくらいのゆっくりとしたさまで、うとうとしている風を装って目蓋を下ろした。薄闇の中、腹の上に在った熱い体温が静かに退いてゆく。
    「――」
     もしかすると、誰彼、を呼んだのかも知れない。隙間風にも吹き散らされそうなか細い吐息には、酒でも無ければ忘れ得ぬ、そのような深いかなしみが秘されていた。
     恋川さんの触れられぬ傷から更なる血が流れる訳が私のこのありさまであるならば、一刻も早く元気を取り戻さなければ。そうは思うが、身体を休めるよりも、今は少しでも心に寄り添っていたかった。
     不自然さの無いように、ことん、夜着から片方の手を出す。生きていると知れる、確かな体温を感じれば安堵してくれるのではないか、との考えから差し出したものだ。逡巡と思しき間こそ置かれたが、恋川さんはこわごわ手を取ってくれた。普段の荒っぽい挙措からは程遠い、腫れ物に触れるような遠慮勝ちで、何所か幼い子どものような仕草で。
     そうして、夜の訪れる迄、傷だらけの武骨な手指は其所に居てくれた。私の生命を惜しむように。

     
  • 犬塚ガク

    20220715(金)18:30
    ▼いとしきみへこの一撃を捧ぐ


     ダイヤモンドだって、玻璃だって、真珠だって、こんなに美しくはなれないだろう。
     とっぷりと溺れた瞳から、一つ、二つ。次から次へとコンクリートの地を目掛けて転がってゆく涙の玉。それは万人が分泌するものだと言うのに、水と少量の蛋白質等で構成されているとは到底思えなかった。遠くのビルの窓明かりを受けて雫の一滴一滴が煌めき、顎先から伝って足もとを濡らす。勿体無く思っての事ではない。見惚れていた己を恥じて、初めて出会った頃よりも痩けた頬に手を伸ばす。死人のように冷えてしまっているであろう頬に指先が届き、しかし触れる事は能わずに、皮膚に沈んで筋肉に沈んで、音も無く通り抜ける。濡れそぼつ君の瞳に、オレは映っていない。怪我を負った小動物よりもか弱げに震える、君のその小さな身体を抱き締められる距離に居る事にも気付かれない。
     ひどくかなしくなった。心が張り裂けそうだ。君にみえない事が。君に触れられない事が。君の美しさを知るオレを、君が知らない事が。君がオレをみえない事が、かなしくてならなかった。だが、そんな慟哭すらも放り出せるくらいに君は美しい。知っているかい。知らなかったと言うなら教えに行くよ。君が生きているだけで、世界は少しだけよいものだと信じられる男がいる事を、今夜にでも枕もとに立って。その為にも今日はゆっくり眠ると良い。
     そこに光が在るのだと盲信している足取りは、宛ら誘蛾灯に誘われる羽虫の如きものだった。意思の摩耗した覚束無い足取りがオレの胸を擦り抜けて、屋上に打ち据えられた手摺りへと向かう。ハンカチの代わりにおもちゃのハンマーを携えて、オレは、こちらに来ようとする弱りきった背中を追った。
     君をいじめる奴等は明日にはいなくなっている。だから、美しきひとよ、魂の美しき君よ。――まだ、ここに来てはいけないよ。