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daitai 1500moji ika no yume okiba.

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  • 相模屋紺炉

    20240617(月)06:50
    ▼ほとほとほとがら、がらがらと
    ⚠失恋夢⚠
     
     
     東屋でひと休みしていたら、カシャリ。いきなり頬を目掛けて飛んで来た撮影音に、非難の言葉なんて出て来よう筈もない。このひとの目を奪う程に美しく、或いは永久に残しておきたい平穏の象徴として映ったのならば、我が身の誉れだ。
    「紺炉さん。」と、慕わしさで弾む声の先で、そのひとは寫眞機を手に佇んでいた。
    「悪いな、声も掛けずに。」
    「いいえ。奇麗に撮ってくださいましたか。」
    「現像してみねェ事には何とも言えねェが、被写体が良いんだ。いつ、どこから撮ろうが文句のつけようもねェ出来になるさ。」
     長椅子に腰を下ろした紺炉さんは、膝の上に寫眞機を乗せて、道を走り抜ける子ども達を眺める。浅草唯一の学舎から我先にと脱して来た子ども達は、戯れ合い縺れ合い、浅草の至る所に電氣を点すように縦横無尽に明るいはしゃぎ声を上げている。私の人生とは無縁の賑やかさだ。気付いたのは、紺炉さんが隣に居るからだ。このひとの女性の好みを知った日から、私は――。
     不図、紺炉さんが笑う。秘密事をこっそり打ち明けるような悪戯っぽい笑みに、どきり、心臓が跳ねる。
    「聞いているか。この辺りのチビの初恋の相手は、皆、お前だって話だ。」
     初耳だ。けれども、団子状になった十歳程の男の子達が遠巻きに此方を見詰めて来る事や、十も半ばの男の子に火消しの男と学者の男と何方が好みかを尋ねられる事があった。その時は、火消しの男のひとが好き、と本心を告げたが、悪い事をしてしまったやも知れない。正しくは、私の好きな男のひとは火消し、なのだから。
     ちら、と。紺炉さんを見上げる。このひとの好きな女性像を思い返して、落ち着いて、大人びた言葉を選ぶ。何時だってそうして来たように。
    「立派なのは見てくれだけで、中身は至らない儘です。お恥ずかしい限りですけれど。」
    「大人なんて大体そんなもんだ。それに、お前はまだ子どもで通る年じゃねェか。――昔みたいに、とはいかねェだろうが、困り事があればいつでも頼ってくれ。」
     甘えてくれ、とは言わない。背伸びをして大人になろうとする子どもを尊重している事が伝わる、その慎重な言葉に、私は子どもで紺炉さんは大人なのだと突き付けられた。
     咄嗟に紺炉さんの手を取る。包帯の巻き付いた手は固く筋張って、指の先や節はやや乾いていた。年を重ねた人の手であった。
    「貴男から見たら、私は、今でも子どもっぽい?」
    「別嬪になったとは思うな。」
     そ、と。私の手に紺炉さんの手が重なる。体温の交わりは一瞬。丁重に、幾重にも心に掛けていた嘘の覆いをひと息で全て剥がすように、紺炉さんが優しく私の手を外そうとする。
    「――好きです。初恋から、ずっと。」
    「悪いな。お前の事は大事に思っている。だが、それは妹分としてだ。」
     そして、手は離された。
     ぬくもりが急速に失われてゆく。死人は熱いものと相場が決まっているが、焔に巻かれなければ冷たくなるらしい。もぬけの死骸は思う。恋を失った今、人を害するも、世界を滅ぼすも、平凡な正当防衛となるのではないだろうか。
     紺炉さんの膝の上の寫眞機が視界の端で、チカ、光る。例えば、手始めにこれを壊してしまえば少しは気が晴れるのか。そのような事はないだろう。紺炉さんを好きになった自分が、今や私の一部となった嘘だったものが、答える。
     紺炉さんの気を惹きたくて、所作を、言葉遣いを、他人への接し方を丁寧にした。紺炉さんの為の新しい私を好きになった私がいた、新しい私を好きになってくれる他人がいた。恋を失えど、己は見失えない。何よりも、其所の寫眞機には紺炉さんが好ましく感じた私が留められているのだから、女の見栄を張らねばなるまい。
     それでも泣き出しそうで、狭まりゆく喉から絞り出した無理矢理の「ありがとうございます、聞いてくださって。」は、紺炉さんの耳に届いたのか定かではない。ただ泣き出しても良かったのだろう。紺炉さんは外方を向くようにして、子ども達の足音遠い道の方へと目を遣ってくれていた。
     ぽつり、東屋の屋根の下、惚けた風な調子で紺炉さんが言う。
    「お前が生まれて来るのがもう十年早かったら、気持ちも違っていたんだが。惜しかったな。」
    「それは本当に、惜しい事ですね。来世、と言うものがあるならば、覚悟してください。」
    「女の情念は恐ろしいが、そいつも合わせて末恐ろしい事を言ってくれるじゃねェか。」
     寫眞機を撫でながら、ふ、と小さく笑う紺炉さんの横顔を見詰める。強くて、頭の良くて、格好良くて、頼もしくて、器用で、年上の、浅草が憧れる男の人。
     死して、私は明日から何に成ろうか。この人以上の男の人を捜すのは、きっと、無理難題だとしても。生きてゆかなければ恋した女が廃るのだ。
     
     
  • 新門紅丸

    20240530(木)02:45
    ▼新芽、光る



    「隙あり!」
    「甘ェ。」
     べにきの背中の真ん中を打つ筈だった俺の拳は、身代わりになった空気を殴った。ヒョイッと躱しちまったべにき、その手が目の前に迫っていて、思わずギュウッと目を瞑る。バチンッ!とド派手な音を立ててでこぴんが炸裂した。
    「痛ェ!」
    「これくらいで音を上げているようじゃァ甘っちょれェな。出直しな。」
    「火消しの入隊審査、ですか。厳しいですねえ。」
     べにきと恋仲――ってやつの姉ちゃんが、背を丸めて俺の額を覗き込む。「わあ、真っ赤。」と丸で自分のでこに食らったみたいに顔を顰めて、「痛いの、痛いの、皇国の悪い人のところに飛んで行け。」と産毛の先を撫でるくらいの触り方で何度かさすってくれた。
    「子ども扱いしないでくれ。俺はいつか、べにきみたいなすげェ火消しになるんだ。そして女の子に超モテたい。」
    「そう言う動機は隠せよ……。俺から一本取るにしても、お前は素直過ぎんだよ。それと、身体に余計な力が入って固くなっている。拳に速さが乗ってねェ。あんまり力むな。」
     姉ちゃんに代わって、俺の腕を取るべにき。肩から手首を触って、爪や手の平を見て、医者のジイさんみたいな目付きで何かを確かめているようだった。紺さんに教わった、べにきが俺くらいの年の頃にやっていたって話の素振りで出来たマメ。俺も何となく見詰めてみる。頑張っても、俺、火消しにはなれないのかなあ。悔しくなって、喉がキュウッと苦しくなる。
    「姉ちゃんといる時なら、一本、取れると思ったのに。」
    「尚更だ。守ってやりてェ女のそばで鈍るへまはしねェ。」
    「だってさ、だってさ、べにき、姉ちゃんといるとデレデレしてるからさあ。」
     べにきは途端にだんまりになった。呼吸を整える代わりみたいに袖の中で腕を組んで、いつも通り、って顔で姉ちゃんを振り返る。
    「……してるか。」
    「ええと、まあ、はい、そう――」
    「隙あり!」
     隙、無かった。べにきに言われた通りに力を抜いて、もう一度、拳をぶつける。袖から抜かれた片手で簡単に受け止められた。やっぱり駄目なのか。攻撃の為に出来るだけ身体を脱力させたつもりだったけれども、落ち込むともっと力が抜けて行く。余分があったんだ。
     次こそは、ってまだ思っても良いのかな。べにきを見上げる。ちょっと笑っていた。
    「素直な分、人の話をよく聞く姿勢は褒めてやる。だが、会話に割って入るのは礼儀がなっちゃいねェ。次からはサシで来な。一本取られるまで相手してやらァ。」
     拳が離され、クシャクシャと頭が掻き回される。何秒もなかった出来事だけれども、それがなんだかとっても嬉しくって誇らしかった。
     それじゃあ、とべにきと姉ちゃんが並んで歩き出す。その背中に、また明日、の約束をする。
    「次こそは! べにきから一本取るから! 覚悟しておいてね!」
    「お前、声がデケェんだよ……。次も不意討ちするつもりなら声を出さずに来い。」
     べにきもそこそこ大きな声で応えてくれて、その隣で姉ちゃんは可笑しそうに笑っていて、今日も平和な浅草を明日も守りたいと俺は思ったんだ。

     
  • 五条悟

    20240521(火)23:17
    ▼天に唾吐く
    (『夢主の台詞「大嫌いです。そういうところが。」』でリクエストを頂きました。有り難う御座います。)


    「ミヤマサマ」と、山間に在る集落の者が呼ぶそれは、土地神にもなれない呪霊であった。年に一度が月に一度に、月に一度が半月に一度に。一人が二人に、二人が三人に。助長した呪霊に集落の男を捧げ、食わせ、食わせ尽くして、そして、ソトから男を攫って来る美人局が始まった。
     その狂った営みを感知した“窓”から補助監督に連絡が行き、一級相当と目された呪霊の祓除には、準一級の私が志願した。取り分け、今は初夏。人手不足の呪術界の繁忙期であるからには、手の空いた者から現場に出向かなければならない。何時だって為すべき事を為すだけだ。
     成せない事の方が殆どであっても。
    「お疲れ。よく頑張ったね。」
    「――随分と高い所からものを言いますけれども、仕様の無い事なんでしょうか。何とかと煙は高い所がお好きなようですし。」
     天高く坐します男は、然りとて馬鹿にも煙にも見えず、神様にしか見えない。
     何故、此所に居るのだ。嗚呼、漸く手どころか身体が空いたのか。だから、補助監督が連絡を付けてくれたのか。もう少し、もう少し、早くに来てくれたならば――。
     黒布に秘されたご自慢の珠の目玉は、私のうちがわに込み上げる絶望を見透かし、わかったような声で、わかったような事を言う。だから。
    「大嫌いです。そういうところが。」
     地面に吐き捨てた言葉を拾おうとして、ではないだろうが、五条悟は蜘蛛の糸を辿るようにするんともすとんとも昊天から降りて来て、地に踵を着ける。それでも、人間よりも神様とやらに近しい。朽ちた社を中心として、集落にとどまっていた女達の生命が海を作った。血の海だ。私の過失だ。血腥さの立ち込める此所に在ってはこの男は一層の事、地獄に仏、と言うやつだった。
     赤黒く染まった世界を一度、見回した切りで。五条悟は、私を見詰めた。唇の形からしか表情の情報は得られず、そのパーツも私の吐露を待つかのように受容的に柔く結ばれていた。浄玻璃鏡の前に引っ立てられた罪人になった気分だ。
    「……その特別なまなこに、私はどう映っておいでですか。脆弱で、矮小で、役立たずで、万年風前の灯の生命でしょうか。」
     ならば、今、吹き消して欲しかった。人を助けたかった。人を助けられなかった。だから、それはお前には成せない夢想なのだと諦めて欲しかった。呪術界の最強のまなこで見切られ、呪霊に食い破られた人びとの腸で縊られるならば、呪術師としての生命を絶てると思った。
     けれども、五条悟は私から片時も目を逸らさない。身体の正面を真っ直ぐに此方に向け、真剣な顔付きでいる。その様子からは、私を諦める、と言う答えは微塵も窺えなかった。
    「モノを見ているのは目じゃなくて、ココ。」
     とん、とん、と。自分のこめかみを人さし指で小さく叩いている。
    「人間の五感による知覚は八十パーセント以上を視覚に頼っていても、情報を処理して、情報を補完して、実際に像を映しているのは脳だ。目だけ良くてもな~んにもわからないってコト。」
    「この惨状もわからない、と?」
    「まさか。見慣れているだけだよ。でも、僕は君の事を知ってもいる。術師として責任感が強くて、無茶振りも聞いちゃういい子ちゃんで、いつも自分に出来る全てを惜しまない人間だ。これが精一杯だっただろうし、実際、よくやったよ。この呪霊が山を降りていたら、このくらいの被害じゃ済まなかった。」
    「降りていないだけじゃあないですか。」
     誰を責めもしない声音だから、代わりに下唇を噛み締めて自罰する。私ではなくこの人が此所にいてくれたならば、と。如何しようもない願いを懸けた自分への無力感が、憧憬が、羨望が、どくどくと疼いて身体の端々に広がってゆく。五条悟は、それすらも知りたがっているように私の唇に滲む血の色を眺めている。
    「現場に完璧主義を持ち込めるのは天才の僕くらいだよ。ここで一人、生き残った。それが君の成果だ。何にも代えがたい、ね。」
     それは、赦し、かも知れない。赦し、と名付けられた、呪い、かも知れない。呪ってでも此所にいて欲しいと願われているのかも知れない。
     “帳”の上がった空を仰ぐ。目の前の神様みたいな男と同じ色彩で塗られていて、「最悪の気分です。」、自然と口からこぼれた。呪術師を辞めても、空を見上げればこの男を思い出すのだろうから。
     気が抜けた。膝の力が抜けた。地面に頽れる寸前に、腕が掴まれた。ぐ、と力を込めて身体を引き上げられた。ひょい、と抱き上げられた。戸惑いの声も上げられない自分に、呪霊との戦いで満身創痍であった事を思い出す。目立たないよう、私の血が真っ黒のマウンテンパーカーに染みてゆく。五条悟の唇は、神だか仏だかみたいに静謐な弧をえがいていた。
    「最悪だって通過点に過ぎないよ。地獄に果てがあるんだったら、今度、一緒に行ってみよっか。」
     こうして、助けられなかった私だけが助けられる。大嫌いです。そういうところが。

     
  • 新門紅丸

    20240521(火)23:15
    ▼私の可愛い、愛す可き貴男
    (『夢主の台詞「仕方が無いのです、ときめいちゃったので」』でリクエストを頂きました。有り難う御座います。)


     俺と恋仲になるにあたって、こいつは一つ、口癖を直した。健気な事に男を立てようと努力してくれたんだとは理解していたが――今日、久しぶりにそれを聞いた。
    「新門さん、機嫌、直してくださいよ。」
    「……。」
    「わあ。不機嫌なお顔。」
     誰のせいだと思っていやがる。いや、俺の器の小ささのせいだ。知らず、加減を損ねていた手の力を意識的に弛める。手の中の細っこい手首には赤く痕がついちまっているだろうと考えたら、少し、頭が冷えた。
     事の発端はこうだ。まずは、最近、浅草に拠点を移して来たジョーカーの話からだ。あいつは人と関わる事が上手い。言葉巧みで、頭が良くて、ノリが良くて、他人との距離を見定める事が上手い。聖陽教会にカチコんだ夜、浅草に帰る為に纏を浮かすと、当たり前のようにしがみ付いてついて来やがった。その翌日には四丁目の煙草屋のババァに数年来の常連みたいに相手されていたんだから驚きだ。他にも、賭場の破落戸共に、旦那が“焔ビト”になってから寡婦でいる二丁目のシホの姐さん、一丁目の生き字引の頑固ジジィと、浅草の町の奴らの中でも気難しいとされる奴らと接点を持っている事は知っている。人を食ったような顔で人懐っこい顔をして、人の懐に完全に入り込みはせずに猫みてェに身を翻す姿が遠慮がちで、気になって、気に入られているらしい。
     それはこいつも例外じゃなかった。そもそも、この評価もこいつからの受け売りだ。
     俺の女は、皇国からの滅多にない客人であるジョーカーに興味津々だった。口がうまい男だ。話はどれも面白く、浅草以外を知らない耳目には新鮮だっただろう。――紙芝居屋を楽しんでいるみてェなもんだ、と、あいつが楽しそうにしているなら良い、と、そう見守っていてやれたなら良かったんだがな。
     気づいたらこいつを攫っていた。
     別に、こいつの貞節を疑う訳じゃねェ。そして、俺は浅草の新門紅丸で、最強だ。だが、恋愛ってのは浅草のルール通り、力こそが全てとはいかねェもんだ。紺炉は灰病になったが未だに引っきりなしに女衆から言い寄られているし、桜備だって密かに恋文を送られているって話だ。惚れた腫れたってのは力のみでは制せねェ、感情を扱い倦ねる代物だ。
     だとしても、おいそれと離してはやれねェ。
     ここで話は戻る。「こっちに来い。」と、ジョーカーとの間に割って入って、連れ去って、その時に発したこいつの第一声が、いつぶりかに聞く嘗ての口癖だった。
    「もう、可愛いですねえ。やきもちを妬いてくれたんですか。」
     呑気な口振りの二度目の台詞に、流石に足を止めた。当所無く歩いて来たが、落ち着いて辺りを見回してみると、家の持ち主しか通らないような人気の無い小路だった。ゆっくり、掴みっ放しだった手首を解放してやる。やっぱり赤くなっていた。
    「……みっともねェ、の間違いだろ。」
    「可愛いですよ。」
    「ガキみたいで、か? 小せェ男で悪かったな。」
    「捻くれないでくださいよ。私は、可愛いから可愛いと感想を述べているだけです。」
    「どこがだよ。そんなところ、あったか。」
     お前の事を傷つけておいて、と真っ赤な痛々しい手首に視線を落とす。そのまま沈もうとする気分を掬い上げるように、顔を覗き込まれ、しっかりと目が合わせられた。鏡を覗くようなばつの悪い心地がして視線を逸らしたが、俺のこの仕草もこいつにとってはいとおしいようだった。
     嫉妬で凝り固まった眉間が、華奢な指先で撫でられる。
    「格好良い新門さんは皆の人気者ですけれども、可愛い貴男は私だけのものなんだなあ、と。そう思うと特別な気持ちになります。」
     小さく声を上げて、上機嫌に笑われる。――あァ、とどめだ。格好悪い男の形をした自分にとどめが刺された。俺のありのままを受け入れてくれる女の度量の深さに、勝てねェ、そう思わされた。釣られて笑っちまう程に。
    「新門さん、可愛い。大好きです。」
    「その口癖、直したんじゃなかったのか。」
    「仕方が無いのです、ときめいちゃったので。」


     
  • 五条悟

    20240521(火)23:13
    ▼ホット・ライン080××××××××
    (『夢主の台詞「寒いから、くっついて寝てもいい?」』でリクエストを頂きました。有り難う御座います。)


    「寒いから、くっついて寝てもいい?」だなんて、精一杯の似合わないおねだりをしたところにこれなのだから、文明の利器なんて物は恋人には無粋な代物だ。
     ワンコールが鳴り終わるより早くに端末の画面を弾いた悟さんは、二言三言で会話を済ませると、時にベッド代わりにもなるソファーに下ろしかけていた足腰をしゃんと伸ばした。安息が遠退いた仕草だ。時計の短針が天辺に向かいつつある時間に電話での連絡。速やかに、確実に、危急の用件を伝える手段が取られる意味は、術師の端くれである私にもわかる。いずこかの任地で健闘している――健闘していた術師の安否の天秤は辛うじて生に傾いてはいるが、瞬く間にもう片側に傾こうとしている。術師だけではない。呪霊の脅威を水際で防ぐ堤防たる術師である彼か彼女かの生命が危うければ、多くの非術師達の生命とて托生だ。其所に在る天秤は一つ切りではないのだ。
     どんなに逼迫している行き詰まりの状況にも風穴を空けられる、世界の切り札の彼に掛ける言葉は、気負いのない一つだけ。「行ってらっしゃい。」。黒いシャツの背中に届くと、悟さんはソファーの背に預けたマウンテンパーカーに再び袖を通し、端末を操作し始めた。ヴ、ヴ、ヴ。折良く私の端末が震える。急ぎ画面を確認すると――「悟さん……?」、表示されている発信元の名前は目の前に居るひとのものであった。
    「じゃあ行って来るから、出といて。」
     片手を上げると颯爽と歩き出した悟さんは、すたすたと自室のドアを潜って、せかせかと長い足を動かして、意図を尋ねようにも走らねば追い付けない所迄既に歩を進めているであろう。よくわからないながらに、そう仰有られたからには、と未だ振動止まぬ端末の応答ボタンをタップする。
    「ええと。もしもし。」
    「悪いね。彼女のおねだりの一つも聞けなくて。」
    「いいえ、貴男の彼女ですから。仕様の無い事だと納められます。けれども、これは一体……?」
     訊きたかった事を問い掛けると、悟さんは千ルーメンで光る名案を閃いたと言うような声音で答えた。得意気な表情迄もが見えるようだ。
    「君が寝つくまで――いや、僕が部屋に帰るまで、電話、繋げておくよ。せめて耳くらいは温められるでしょ。スマホの熱で、だけど。」
    「ええ。これから任務なんですよね。」
    「そーですよ。――出して。」
     声と共に、バタン、と車のドアの閉まるらしき音が聞こえて来た。悟さんの長い脚では駐車場に辿り着くのも一瞬だ。送迎車は今は窮地の任地に向けて発進し、筵山を下っているのだと想像がつく。どれだけの距離を走行するかは知れないが、深夜の道路だ。然程の時間は要さぬ筈だ。そして、彼は「僕が部屋に帰るまで」と言っていた。
    「もしかして、呪霊を祓う間もこうして電話をしている心算ですか。」
    「これくらい慢心にもならないよ。」
    「いえ、でも、」
    「そっちが甘えて来たんだろ。甘やかしているんだから、「悟さん大好き♡」くらい言ってもらいたいもんだね。」
     拗ねた風に下唇を尖らせている、ように見える悟さんの声。見える、のだ。感情に率直なひとだから。
     送迎車を運転している補助監督は、十中八九を超えて十中九十、伊地知さんであろう。知りたくもない他人の、それも先輩の、恋人に接すると言うプライベート中のプライベートなさまを否応なしに目の当たりにさせられて可哀想だ。逃避じみた同情を育てるのは、「ほらほら、早よ早よ。」と急かす、可笑しげに弾んだ声音。擽られて鼓膜がむずむずとする。だから、だ。
    「悟さん、大好き、だから、早く帰って来て、抱き締めて欲しい。」
     慣れぬ素直さを披露して、寒がった事なんてすっかり忘れてしまう程、頬が熱かった。頬だけではない。血がのぼって旋毛から耳から脳味噌から熱くなっては、揶揄する悟さんの声はよく聞き取れなかった。もしかすると、なんにも言っていなかったやも知れない。呼吸する事しか出来なかったのやも知れない。舌のようく回るひとが此所ぞと言う時にだんまりになるだなんて、考えられないけれど。
    「……すぐ帰る。」
     真っ赤っ赤に火照った耳に、静かに、静かに差し込まれる。おそろしさすら感じる程のその平坦な音には、放埒の精神を自制心で抑え付けているかのような強さがあった。

     
  • 新門紅丸

    20240521(火)23:11
    ▼すきだらけ
    (『キャラクターの台詞「惚れた女」』でリクエストを頂きました。有り難う御座います。)


     昼寝するつもりなら男の目がある縁側じゃなくて、若の部屋で寝ろ。
     紺炉さんにそう促され、私は今、勝手知ったる新門さんの私室の畳敷きに寝転んでいた。ころ、ころ、ころりと身動ぎしながらようく見慣れた天井の木目を眺めている内に、目蓋は重くなりゆき、四肢は弛んでゆき、意識はうとうととぼやけだす。微睡みを許容するような静かな足音が、ゆっくり、忍び足で近付いて来た。襖を開ける音にも気遣いが行き届いていて、このひとはほんとうに私を甘やかす事が好きなのだとわかる。
    「しんもんさん。」
    「起こしたか。」
    「寝てしまおうか、如何しようか、迷っていました。」
    「そんなに寝惚けた顔してんだ。大人しく寝ちまえ。……あァ、その儘だと身体痛めるか。布団、敷くか。」
    「いいえ。起きている事にします。折角の二人きりの時間ですから。」
     そうか、と傍らに腰を落ち着けた新門さん。不図、その手が伸びて来て、私の目もとに影を作る。目蓋に掛かっていた前髪のこそばゆいひと筋を指先でちょいと退けられ、返して、節の大きな指の背で額を一つ撫ぜられる。甘やかしの込められた優しい所作の障りにならぬようにと細めていた目は、我知らず何時しか瞑っており、自然と無防備を呈していた。貴男の虜だ、と身体が告白している。
     ふ、と。何所か嬉しげな温度をした吐息が、新門さんの微笑の唇からこぼれた。
    「隙だらけだな。どうにでもしちまえそうだ。」
    「好きだらけですからねえ。大好き、ですよ。新門さん。」
    「……ったく、敵わねェな。お前ェには。」
    「惚れたが負けが世の習いならば、私こそでは。」
     よいしょ、と、のっそり、と。眠気の重石の載った気怠い身体を起こす。しなやかな筋肉の厚みが頼もしい新門さんの身体に身を委ねて、その首に腕を回し、「首ったけ、です。」と笑ってみせる。きょとん、と言うと子どもっぽい表現になるが、新門さんはそのように何度かまばたきをしてから、返答かのように私の背中に手を添えた。何方からともなく不意打って、頤を持ち上げ、吐息が交わり、唇を睦み合わせる。間近に見る緋の瞳に灯った光は、慈しみのあたたかさ、だけではない。情と欲とで確かに熱い。それは、ひしと背を捕らえる手の平からも伝わって来る。
    「――その分だと、あんまり伝わってねェのか。」
    「その分、とは?」
    「惚れたが負け、って話だっただろ。俺は自分の事をわかりやすい性質だと思っていたが……言葉でも、態度でも、足りずにお前を不安にさせちまう不始末をしでかしていたか。」
    「いいえ。そのような事はあり得ません。けれども、新門さん、負けたいんですか。」
    「この場合、負けるが勝ちなんじゃねェか。」
     本当に喧嘩が大好きだなあ。小さく首を傾げては真剣に喧嘩論を説かれた新門さんの唇に、触れるだけの口付けをする。何時も熱心に与えてくれる愛情へのお返し、そして、おねだりの心算だ。
    「新門さんはいつも、真っ直ぐに愛情を示してくれます。けれども、言葉でも、態度でも、もっともっとと欲しがるような悪い女になってしまったのかも知れません。」
    「面倒見てやるさ。惚れた女の性分だ。」
     手の平が背中から離れ、逞しい腕が確りと腰に回される。苦しさはないものの、ようよう逃げ出す事だって叶わない力加減だ。穏やかに笑って、新門さんは秘密ごとみたいに囁く。先ず、一つ。
    「――愛してる。俺が愛した女は、後にも先にもお前だけだ。」
     そして、甘やかな熱さを注がれた鼓膜は熔け、全身で感じ続ける体温で身体が熔かされゆく昼下がり。新門さんの首筋に回した腕は如何とも下げ難く、ならば何時いつ迄も好きだらけだった。勝負はおあいこ、に持ち込みたい意地が私にもあるのだ。
     眠りに落ちなくて正解であった。夢よりも夢らしいこのひとと過ごす時間が、この世で一等の安堵の時なのだから。

     
  • 五条悟

    20240521(火)23:10
    ▼女の子はアドレナリンとドーパミンと素敵なセロトニンで出来ている。
    (『夢主の台詞「先生が振り向いてくれなくても、私きっと先生のことが一生好きです。」』でリクエストを頂きました。有り難う御座います。)


     貴男を知って、私、おかしくなっちゃったんだ。出会わなければ命を落として、出会ったからには命懸けの貴男だから。
     校庭の土を見るよりも貴男を見て学びたいと、熱心に五条先生の背に付いて回った。五条先生も五条先生で先生らしからぬ、然し常に最前線に立つ埒外の呪術師らしく、生徒の私を死線に伴ってはまばたきも許されぬ見稽古を良しとしてくれた。
     降り掛からんとする禍つ呪いは己で祓い、我武者羅にその大きな背中を追いかけた。遠く、遠く、人の果てに在って追い付けない背中を。
    「う~ん。もなかの気分。」
     一級呪霊を難無く祓除したのち、五条先生と彼に随伴した私は送迎車に乗り込み、昼の街を横切っていた。そして、銀座で降りた。「何故、銀座。」「美味しいもなかを売っている和菓子屋があるから。」。左様な訳で、五条先生御用達の和菓子屋に向かうべく、駐車場に止められた車から外へ、このひとが守った街へと共に繰り出す。
     銀座と言う一等地では、学生服も、喪服に使われるような染め色も悪目立ちする。だが、五条先生は、目立つ、のだ。すわ芸能人かすわドラマの撮影か、と。異色の風貌と非凡な雰囲気に、見蕩れ、圧倒され、人びとの足運びは自然と彼を大きく避けるものとなる。五条先生の術式が他力で以て発動しているような光景だ。お陰で得手勝手に歩き放題で、彼の後を追う事は容易く、でも、容易には追い付かない。脚の長さの違い、筋肉の付き方の違い、備わっている機能にそもそも大きな差があるのだ。
     藍染に「もなか」と白抜きされた暖簾の掛けられた店の前。少し遅れて辿り着いた私を、五条先生は振り返って待っていてくれた。彼の背中を見失わずに来た。小走りで来た。日々、弛まず精進している私だから、一寸の距離を駆けたくらいで息は上がらない。なのに、幾ら走っても、幾ら学んでも、貴男に近付けた気がしない。遠いひと。呪霊の前で、神様の指先を持つひと。
     けれども、それでも、いつでも、私はあの日から変わらない。
    「先生が振り向いてくれなくても、私きっと先生のことが一生好きです。」
    「振り向いてるよ。」
    「そう言う事じゃあなくて。」
     一世一代の告白と言う程大したものではないが、私の有りっ丈の決意は、あっけらかんと言ってのけられたのんびりとした台詞に脱力させられてしまった。
     五条先生が此方に向けていた身体の中心をずらす。白い石を積んで造られた門構えに対すると、木枠の特徴的な自動ドアを開けようと手を上げて――徐に私に顔を向けた。ゆっくりと滋味を味わい尽くして、正に感想を述べようとしているような顔を。
     日射しを透かさぬサングラスの下に御座す至宝の色は、青。艶めいて長い睫毛の色は、白。晴れやかな色合いのひとだと思う。今は、特に煌めいて。
    「僕を諦めないんだったら、諦めずにここまでおいで。」
     タッチスイッチが押され、自動ドアが開き、客を招き入れる。
     五条先生はマイペースだ。感情も、行動も。当人は知らぬ存ぜぬと言ったところだろうが、それは風のように人の身体を揺さぶり、心をも揺さぶる。そう言う、人、だ。
     きっと、このひとは喜ぶ。そう確信が持てるから、私は笑みも歓びも一歩を踏み出す事も堪えられなかった。
    「諦めません! 私は先生の事が一生好きです! 必ず追い付きます!」


     
  • 五条悟

    20240521(火)23:08
    ▼シティボーイ・ミーツ・山育ちガール、それから
    (『夢主の台詞「最強なのに」』でリクエストを頂きました。有り難う御座います。)


     メッセージアプリのトーク画面に浮かんだ吹き出しは、『部屋来て』と、簡素な分、私を急かそうとしていた。
     五条くん、懲りないなあ。たったの一言で事情を把握し、私は自室をぐるりと見回す。神保町の古書街に足を伸ばして手に入れた、昭和発行のファッション誌。絶対に駄目。三分の一程、中にミネラルウォーターが残っている六百ミリリットルのペットボトル。ひと息で飲み切って「相手」に備える。学生時代に「これ」で使って以降、「これ」専用となってしまったステンレス製の中型ボウル。無難にして万能の網であり防具である。そして、毎度お馴染み、百均で買ったピンク色の蝿叩き。スターティングメンバーであるそれを手に取り、年季の入った相棒の柄をくるくると弄びながら、『なに』と簡単に返信を為す。準備は万端、ならば用事を尋ねた訳ではない。
     間を置かずして、五条くんから『蛾』と、『オオミズアオ』と返って来た。はい、はい。了解、了解。亀虫退治用に空にしたペットボトルをごみ箱に放りがてら、壁とキッチンワゴンの間に転がしていたボウルを取りにゆく。
     カメラで正体を検索する余裕があるんだったら自分で対処すれば良いのに。五条くんは学生の頃から悪癖がある。自分の部屋に大きな虫が入り込むと、毎度、毎夜、私を呼び付けては後を任せると言う悪癖だ。此所は東京都で、呪術高等専門学校で、四方八方を結界が囲っているとしても、此所は山奥で、虫が棲んでいて、五条くんは宵っ張り且つ夜でも窓を開けて風通しを良くする事を好む。飛んで電灯に入る春夏秋の虫、だ。学生時代のあの夜。至極不愉快げな顔をして廊下に出て来た五条くんから話を聞き、善意から彼の部屋に上がり、大きな羽虫をボウルで捕獲して外に逃がしてやった所から、五条くん専用の虫退治屋の副業は始まってしまったのだ。「俺ってシティーボーイだから~。」と山育ちの私に言ってのけ、下女扱いしているのか、と反感を抱きもした。しかし、私が反発心からボイコットを選んだところで彼は然程困らないだろうとも思えたのであった。だって、この男はと言えば、虫の跳梁跋扈する部屋に在っても何時も落ち着いていて、不快そうではあっても不安がっている風では丸でないのだから。私だって虫を退ける事に慣れているだけであって特段平気と言う訳ではないのだが!
     お互いに大人と成った今でもこの副業は何となく続いており、何となく放って置けもせず、今夜も今夜とて仕方無しにボウルと蝿叩きを携えて自室を発つ。
    『帰って来たばっかりで疲れているんですけれど』。『ついでに部屋で休んで行きなよ』『練りきり余ってるよ』。『自分の部屋で休ませてよ』『五条くん、虫くらい捻れるでしょ』『術式使えば』。『甘えてんだよ』。
     あまえてんだよ。身長百九十の男が、齢二十八の男が、才を遍く持つ男が、何時だって貴男は――『最強なのに』。他人に凭れ掛かる姿が想像出来ない。そう言った戸惑いの本心であったが、言葉にして、メッセージとして送信して直ぐに、学友相手に突き放した物言いをしてしまったと気が付いた。罪悪感の過る速度よりもはやくに、トーク画面に、ぽこん。吹き出しがポップアップする。
    『そ』『僕を好きなだけ甘やかせるなんて君だけのもんだよ』。
     続いて、丸々としたフォルムの兎があざとい動きをするスタンプ――生徒からお勧めして貰ったものだろう――が雪崩れ込んで来る。おねがい。更には、だいすき、の文字が添えられているスタンプだった。
     振り返れば、虫を処理した後には何時だってあの手この手で彼の部屋に引きとめられていた。――五条くん、女を口説く才能だけは無いんだなあ。
     廊下を行き行き、ちんどん屋の如く助っ人の登場を知らせに、ステンレス製のボウルを蝿叩きの柄の先で軽く叩く。今の私が上げたがっている笑い声に似た甲高い音が鳴る。五条くんの部屋は、私の部屋の三つ向こう。待っていろ、オオミズアオ。今、其所を代わってあげよう。

     
  • 新門紅丸

    20231231(日)04:52
    ▼ご休憩


    「ああ、新門さん。こんにち――」は? 第七特殊消防詰所の上がり框につま先を掛けると同時、惣菜をくるんだ風呂敷包みを持って行かれた。それが隅に置かれた時には、私の両の足は板の間を踏み、そして浮いていた。新門さんの両腕に抱え上げられて浮いていた。「なに!?」この至近距離、素っ頓狂な悲鳴が聞こえていない筈もなかろうにずんずんと邁進なさる。その先は、言わず語らずして察せられる。新門さんの部屋の前。片腕で抱え直され、襖が開けられる。下桟の擦れる乾いた音に重なって、常の余裕の欠けた分、僅かに掠れた声がする。「――ヤクザ者が女を攫うとしたら、目的は一つだ。違うか。」それは、詰まり。そういうこと、を。屋根の瓦が燦々と陽光を照り返している時分に、そういうこと、を。したい、と。結び付けるなり、擦り半鐘にも似た速度で鼓動が大きく鳴る。敷きっ放しであった布団に優しく横たえさせられる。覆い被さる影から石鹸の匂いが滑り落ちて来て。このか細い呼吸毎その腕の中に仕舞い込むように、確りと抱き締められる。じいっと。じいっと。胸の早鐘が百撞かれる頃。安堵の吐息が耳朶をぬくめた。私は其所で、肩にうずめられた顔が安穏と弛んでいると見ずとも知った。伸びやかな深い呼吸が、規則正しく上下する背中が、安らぎを示しているからだ。――新門さんは、寝ていた。「話が違う……!」助平心から発せられた文句とも聞こえるが、全く話と違うのでは真っ当な抗議にほかならない。これが無頼漢のする事か!

     
  • アーサー・ボイル

    20230815(火)06:20
    ▼Aは理想を超えて


     その話題を出したのは、本当に、何となくであった。今日の天気の話では味気無いなあ、と思っただけなのだ。
    「アーサー、知っている? キスをする時の理想の身長差は十二センチなんだって。」
     私にとっては上は百八十六センチ、下は百六十二センチと言った所か。私は女性にしては身長に恵まれている。お陰で、横を向くだけで青く閃く宝石のような瞳が望める。間近くで絵本の中の王子様めいた端正な顔を拝める。見遣った先のアーサーはと言えば、ぽかんと、丸で王子様らしくも騎士王様らしくもない間の抜けた表情をしているが。如何にもぴんと来ていない様子であった。
     まったく、アーサーはお子様だなあ。
     そう揶揄しようと開いた唇、が。途端、動かなくなる。柔く制され、人肌の温度で御される。何時の間にか視界が金に、青に、染まっていた。
    「関係あるのか。このままでも出来るだろ。」
     まばたきの音が聞こえそうな所で、恋人にしか許されない距離で、アーサーが不可思議げに言う。
     細く削った金が植え付けられたかのように根本から毛先迄輝く睫毛の、その一本一本に見惚れた振りをして。私は茫然としていた。ねえ、私、これがファーストキスだったんだけれど。

     
  • 森羅日下部

    20230815(火)05:34
    ▼牛乳に相談だ!


     片想いしている女のひとと休憩時間に近くのコンビニに行き、買った弁当を二人で食堂で食べて、和やかに話しをする。そんな癒やしのひと時も残り十五分となった頃。読んでいた雑誌から顔を上げて、そのひとは言い出した。
    「シンラくんは身長は幾つありますか。」
    「百七十三ですけど……。」
    「ちょっと立って貰えますか。」
     向かい側で急に立ち上がったそのひとに倣って、俺も椅子から腰を浮かせる。何だろう。彼女がテーブルを回り込んでこっちに来るのを目で追いながら、後輩の立場上、気を付けの姿勢でじっと待っている、と。
    「ああ、成程。これくらいなんですね。」
     俺の直ぐそばに立ったそのひとが、自分の頭の天辺に手を置いて見上げて来る。小さい、可愛い、なんか良い匂いがする。あ、マズい。どきどきして口の端が上がって来ている。だらしない所をこのひとに見せたくなくて、必死に唇に力を入れて平静を装う。
    「何が「これくらい」なんですか。」
     唇を引き結んで話した所為で、尋ねた台詞の発音が滅茶苦茶だった。
     意識しっ放しの俺を気にする素振りなんて見せず、そのひとはコンビニで弁当と一緒に手にした雑誌を振り返る。それからピースサインを作って、にこにこした顔の横に持って行く。
    「この雑誌のコラムによると、カップルの理想の身長差は十五センチメートルだそうです。私の場合は、君プラスニセンチですね。」
    「ご協力ありがとうございます。」と丁寧にお礼が述べられた。さっと雑誌を回収して、コンビニ弁当の空き容器をついでに俺の分まで纏めて、歯磨きをしに行くと言って食堂を後にする、俺の好きなひと。一人、この場に残された俺はと言うと――牛乳を飲みに冷蔵庫に向かった。
     小走りする身体は、後二センチ、足りない!

     
  • 新門紅丸

    20230814(月)23:46
    ▼安暖手


     人気は疎か野良猫ッ気も無い路地に差し掛かった時、こつん。手の甲が触れ合ったものだから、おや、と思ったのだ。私がのこのこと隣を歩いていようとも、新門さんの手は何時も大事そうに袖の中に仕舞われている。だと言うのに、こんにちは日のもとにご健勝を顕示召されているではないか。珍しい事もあるものだ、と不思議がっている間にも、こつ、こつん。火消しらしく日に焼けた手が、節榑立った指が、私の手の甲にちょいとぶつかって来る。そばにいる事が許される関係なれども、並んで散歩するとなると差し障る距離であったろうか。一歩、横へとずれようとする。つ、と指先が攫われた。「へ、」なんて素っ頓狂な声を上げる私を気にもとめずに、新門さんは手を繋いでしまうと、何でも無いような顔をして半歩だけ先をゆく。分かたれる事のないようにと、その手には確りとした力が込められていた。私達が表で手と手とを重ね合わせるのは、これが初めて。つい、良いのだろうか、と彼の火消しの長としての体裁を気にしてしまう。けれども、歩く毎、嬉しさが追い抜かしてしまった。ぎうと手を握り返すと、新門さんの横顔に微笑の気配。もしかして先程の仕草は、慣れないながらに手を繋ごうとしてのもので――「――ふふ。」「……機嫌が良いな。何か良い事でもあったか。」「はい。飛びきりの良い事が、掌にあります。」

     
  • 相模屋紺炉

    20230814(月)20:22
    ▼滋温


     目が、目が、疲れた。向かい合った文机を厭うた身体が、ぱったり、勝手に畳に転がる。第七特殊消防詰所の一室、「筆忠実部屋」と揶揄されるこの部屋に出入りする者は、私ともう一人くらいのものだ。お陰様で男所帯でも人目を憚らずにだらしなく過ごせる、と言っては、くだんのもう一人に叱られてしまうか。
     大の字になって遠くの天井を仰ぎ、疲れ目を休ませる。――休ませようとしたものの、木目が蚯蚓ののたくったような文字に見えて来てしまって全く休まらなかった。大人しく目蓋を閉じる。今度はタイプライターの打ち出した整然とした文字がまなうらに散らばって、矢張り気が休まらない。
     第二世代能力者と言う身分のみで女だてらに第七特殊消防隊に混じっている私ではあるが、その実、男の世界とされる火事場に出られる筈もなく、任される仕事と言えば事務仕事が専らであった。詰まり、第七特殊消防隊は私を書類を相手に喧嘩して貰う為に起用したのだ。それに異を唱える程の力は無く。先ず以て荒事は苦手で。だから彼等を支える裏方仕事は性分に合っているにしても、蟻の如く細かな文字を日がな一日追っていては眼球の奥も鈍く痛む。それでも、これが私に与えられた仕事だ。全うしなければならない。
     ヨイコラ、目蓋を持ち上げる。持ち上げられない。ヨイコラ、身体を持ち上げる。持ち上げられない。起き上がりたくない気持ちが、藺草が背中に絡み付いているような錯覚を起こさせる。「ああ……新門大隊長の顛末書の添削があ……。」。呻き声を上げるも何も上向きにはならない。それどころか、目蓋になにかあたたかな重石が載せられて、やんわりと頭が畳に押し付けられるではないか。
     思わぬ出来事に目を剥いたが、目もとが覆われていては薄闇で視界が利かない。けれども、おそれる事は無かった。傍らに座した気配はこの荒くれの町でも一等大きく、一等力強く、ならば一等理知に富んでいるからだ。適材適所だ、と。書類仕事を共にしてくれるもう一人の御方の影であった。
    「あれだけあった山が更地になっているとは、今日も随分励んだな。疲れただろ。そのまま楽にしてろ。」
    「紺炉中隊長。」
     あたたかな重石の正体は包帯の巻かれた大きな手の平であった。目蓋をじんわりと包み込む紺炉中隊長の体温は余人よりも高い。丁度気持ちが良く感じる湯船の温度に通じて、五分もしない内に身体が弛緩してしまう。十分もすれば意識だってとろとろに蕩けて、勤労の意思も骨抜きにされる。これは、まずい。
    「ちゅうたいちょう、まって、これ、だめです……。」
    「熱かったか。」
    「いえ、きもちがよくて……ね、ねる……。」
    「寝ちまえ。三十後にはまた働いて貰うからな。」
     飴と鞭の使い方をようく心得ている台詞は、穏やかで優しい声で低く響く。眠っているところに毛布を掛けられた時のような擽ったい心地になって、すこん、と。私は容易く眠りの底に落ちてしまうのであった。

     
  • 五条悟

    20230814(月)04:44
    ▼コネクッテコネクト



    「呪言使いって訳でもないのに勿体振るなぁ。」
     黒糸で織られた幅狭の几帳の向こう、きっと、目は口程にものを言っている。舌が付いていたならば舌打ちの一つでもしていたであろう、痺れを切らしたように苛々としてぎらつく青眸を前にして、逃げ去りたくならない生命体などこの惑星には存在しやしない。御多分に洩れず、私も踵が浮いた。
     一歩、後退る。
     一歩、歩が進められる。
     一進、一退。
     繰り返すうち、悟さんの肉厚の身体に押し込められるようにして、私は部屋の隅に追い詰められていた。ぐいぐいと壁に背中を押し付けれども、其所に隠し扉なぞ在りはしない。只、僅かばかりでも構わないから距離を取りたかった。そもそも、部屋に二人切りとなった時から心臓は全力で跳ね続けているのだ。斯様な至近距離で斯様に圧力を感じさせられては、忽ちに限界を迎えて身も心も共倒れとなってしまう。のに。悟さんはと言えば、静かに、静かに私を見下ろして、逃がしてくれる気配が無い。
     不図、天井を衝かんばかりの巨躯の背が撓った。血液のすべてが心の臓に注がれている為に血の気の引いて蒼くなったあわれなこの顔を。じい、と。覗き込んで来る。矯めつ眇めつ、その度、蒼く赤く。頬に引いては寄せる血潮の動きを真剣に観察するさまは医師の如く、ならば、視診の次は触診となるのも然もありなん。
    「顔にはそりゃあもうしっかり書いてあるんだけど。」
     何を、とは問えなかった。伸びて来た骨太の人さし指の先が、むに、と頬に埋まって遊び始めた所為だ。
     迂闊に話せば頬の内側の肉を噛んでしまいかねない遠慮の無い力加減で、むに、むに、と。捏ね繰られて、捏ね繰られて、お前は餅だとか饂飩だとかなのだ、と自分の頬に言い聞かせる時間が幾らか過ぎた頃。飽きた様子で指先は大人しくなり、今度はすいすいと文字らしき線がえがかれる。
     頬に意識を集中させて読み解いた、それ、は。
    「でも、君の口から聞きたいんだよね。――好きなら好きって、はっきり言ってよ。」
     好きだと、読まれていたのか。過ぎたる気持ちを隠す事も秘す事も出来ず、己の感情を取り扱う呪術師として忸怩たる思いだ。――それは傲岸不遜と言うものか。御釈迦様の掌の上ならぬ御六眼様の視界の中なのだから、読まれていて当然なのだ。
     思考に没していると、人さし指の背で頬を撫でられた。甘やかに低い声音こそ自信に満ちあふれていっそこぼれている程の堂々たるものであったが、擽ってでも笑わせようとするかのようなその手指の仕草に見えるは、紛う方なき催促だった。揶揄されると覚悟していたのに。
    「悟さん。」
    「ん?」
    「言ったら、どうなりますか。」
    「どうしちゃおうか。」
    「言ったら、貴男はどうなりますか。」
    「もうどうにかなってるかもよ?」
     あっけらかんと笑って、悟さんは自分の片頬を指さした。
     私には魂を見透かす特別なまなこは填まっておらず、読心の心得もない。言葉にして言ってくれなければ思うことなどわからない筈なのに、私のこの頬に書いてある感情と同じものが其所には宿っているように見えていた。

     
  • 新門紅丸

    20230812(土)23:15
    ▼ごちそうすまいる



    「――す、」
    「酢?」
     老舗大衆中華料理店は来々軒。その年季の入りようは幾層も重なる油汚れで表され、臙脂色の四角い卓子や丸い椅子はぺたぺた。手を伸ばした先に備え付けられている卓上瓶の表面も勿論の事、ぺたぺたであった。一つ取ったやや粘着性のある小瓶の中身は、ご所望の通りに酢。それを相席している新門さんに渡そうとするも、はたと、何所に置くべきか迷ってしまった。だって、新門さんは頼んだ中華蕎麦をあっと言う間に平らげてしまって、今さら酢を使う余地なんて無いのだ。何故そこで、酢。ひと心地が付いて手を束ねている新門さんに首を傾げながら、もごもごと口いっぱいに頬張った餃子を飲み込む。それを皮切りにして、新門さんは何の気無く言った。
    「好きだ。」
    「……何で、中華屋で、餃子を食べている時に、言うんですか。」
    「布団の中だけじゃァ下心があるみたいだろ。」
    「だとしても、こんな、大口を開けてものを食べているみっともない姿を見てだなんて。」
     酢差しを戻しては、緋の眸に映った食いしん坊の食いしん坊たる所以である腕白な大口を覆い隠す。箸の先で小皿に張った酢醤油の水面を掻き掻き、俄かに沸き起こった羞恥をも撹拌している、と。ふ、と。新門さんは和やかに微笑った。
    「そう言うところが良いって言ってんだ。」
     お腹がいっぱいになると心にゆとりが持てるにしても、だ。そのおかんばせは、病める時も健やかなる時も、お腹が減っている時もお腹がいっぱいの時も慈しんでくれると思えてしまうに足るものであった。

     
  • 新門紅丸

    20230411(火)04:03
    ▼ぺいん・ぺいん・ぴゅーん!


     呼吸は浅く、早く、このひとらしくなく乱れていた。
    「――まさか、走って行って、走って来たんですか。」
    「呑気に歩いていられねェからな。」
     我が家から一番近くの薬舗迄、距離は然程ありはしないが、それでも人目のある通りをゆかねばならない。市井の人は誰も彼もが耳を欹てて擦半鐘の音を捉えようとしただろう。最強の消防官が、火消しの棟梁が、浅草の町の長が一目散に走っているのだから。徒事ではないと、表は今、ざわめき立っているやも知れない。お使い一つで町を揺るがしたくはなかったのだが――。
     新門さんが、布団のかたわらに膝を突く。客人が来訪したにも関わらず丸まった格好の儘動けずにいる私、の、目の前に、まるで健康を祈念したお守りかのように確と握った小箱を差し出す。お使いをお願いした鎮痛剤に間違いなかった。正に、取るものも取り敢えず、駆け付けてくれたと見える。この分では、「釣りは要らねェ!」と丼勘定で薬舗を飛び出していそうだ。
     ――ありがとうございます、と。苦笑と共に浮かんで来た感謝の言葉は、しかし、寄せては引いてを繰り返し、いま押し寄せた痛みによって呑まれる。息を詰める。身体が強張る。そうっと、あたたかな手に肩をさすられた。
    「待ってろ。水、持って来る。」
     死の際に在る人間に求められたかのような逼迫した声と、素振りだ。踵を返して廊下に出た新門さんの動きはきびきびとしている。だのに、その足運びたるや何所となく不慣れに感ぜられるのであった。恐いもの知らずで、人の上に立つ者として堂々とした振る舞いを心掛けている。常にゆとりを持って生きているあの新門さんが、慌てている。ともすると足を縺れさせて転んでしまうのでは、と思わせる程に慌てているのだ。
     この身は大切にされているのだと心地が好くなるよりも、過ぎた心配をされて居心地の悪くなるよりも、滅多な事に可笑しくなってしまう。可笑しさは痛みと競って、競って、僅かに勝った。新門さんは水を汲むなり大急ぎで戻って来てくれたと言うのに、私は痛がりながらも笑いがとまらぬありさまとなっていた。

     
  • 新門紅丸

    20221231(土)00:24
    ▼蜜も過ぎれば毒となる



    「新門さん、格好良い。」
    「もういい。」
    「降参が早くはありませんか!?」
     部屋に連れられた時にこのひとが目覚めさせた燭火は、私達が情事に耽り、身体を清めて睦言を交わすこの時迄確りとおきていた。私の苦笑に大きく揺らめく橙炎のさまは、閨を片隅で見守っていたものとして首肯するかのよう。
     昼日中の唇を抓ってやりたくなるような捻くれた口振りは、こう言う寝床では眠りに就いてしまうらしい。代わって起き出すのは彼の素直で直接的な面で、兎も角、素肌を甘やかしながら言われるのだ。きれいだとか、かわいいだとか。今夜も事の最中に数え切れぬ程の言葉の愛撫を受けて、受けて、もう黙ってはいられなかった。「言われっ放しでは女が廃るので、眠るまで意趣返しをします。」と挑戦して、「面白れェ。やってみな。」と受けられた矢先。これだ。
     布団の上に胡座を組んだ新門さんは、照れ隠しの心算か外方を向いてしまうと、片手を挙げて制止を掛けて来る。未だ一言目だと言うのに何とも呆気無いったらないが――
    「いつも町の人に褒められていますよね。男前、とか、抱いて、とか。」
    「あれは花火に向かって玉屋だ鍵屋だと囃し立てているようなモンだろ。」
    「では、私の台詞もそうやって涼やかに受け流してしまってはいかがですか。」
    「出来るか。惚れた女におだてられて、浮かれちまわねェ男なんていねェんだ。これ以上はみっともねェ面ァ見せちまうから、もうやめろ。」
     新門さんが、己が男のさがの儘ならなさに辟易するみたいに項垂れる。その拍子に柔らかな黒髪がさらさらと流れて。覗いた耳は、真っ赤に染まっていた。灯火の橙を撥ね退ける程の血の色に、私の血潮も熱を孕む。
     このひとの気を惹きたくて、触れれば焼けてしまうような耳の先にそうっと唇を寄せる。
    「好き。」
    「――」
    「ね、新門さん、好きです。いつも格好良い貴男が、好き。だいすき。」
    「……降参、降参だ。」
    「ここは閨です。聞けないならば、塞いでください。」
     息を呑み、顎を引いた新門さんが、上目勝ちに私を見遣る。底に口惜しさが燻っている、緋の瞳。その真ん中に向けて唇を指し示す。
     こんなにも格好良いひとの格好付けようとしている姿は、可愛くて、可愛くて、いとおしい。だから、この夜に言葉はもう要らない。
     噛み付くような口付けに従い、ふた度、ふたり、布団に傾れ込む。

     
  • 新門紅丸

    20221229(木)05:04
    ▼つま先で語る


     と、と。
     防火靴に包まれた紅丸のつま先が二度三度と地を穿つ。
     裏庭での実戦稽古の最中、小休憩として設けられた時間での事だ。プラズマを納めた聖剣の柄で、と、と、同じようなリズムで己の肩を叩いてみたアーサーであったが、如何様な意図かは汲み取れなかった。唯一、彼の足もとを横切ろうとしている一匹の蚯蚓を見付けられはしたものの、紅丸は弱いものを虐げる悪趣味を持つ男ではない。徒におびやかしている訳ではないだろう。
     のそのそと伸び縮みして防火靴から距離を取ろうとする蚯蚓から、紅丸へと視線を移す。付き合いの浅い人間には不機嫌そうにしか映らぬ紅丸の表情だが、アーサーの慧眼は正しく感情を見透かすのであった。
    「彼氏面、ってやつか。」
    「あ?」
    「暇だから蚯蚓をいじめているんじゃないだろ。それ、何の儀式だ。」
    「そんな大層なモンでもねェが、あいつが笑っていられるように、ってところだな。」
     紅丸が第七特殊消防詰所の路面した方向を顎で示す。麗らかな昼下がりに相応しい呑気な足取りで裏庭を覗く者がいた。「新門さん! アーサーくん!」と、晴れがましい笑顔を咲かせている一人の女。その手に提げられた唐草模様の風呂敷包みには火消しの人数以上の大量の大福が詰め込まれている気配があり、彼女は馴染みの老婆からの差し入れを預かって来たのであろうとは、俄に顰められた紅丸の顔から容易に窺える事だった。
     紅丸から、女へ。女から、蚯蚓へ。蚯蚓から、紅丸へ。関係性を順繰りに目で追ってゆき、アーサーは首を傾げた。
    「つまり、何だ? 紅丸が蚯蚓を倒すとあいつに経験値が入るのか。」
    「あー……あいつは虫が大の苦手でな。視界に入るだけでも浅草中に響く大騒ぎで、聞いちゃいられねェ。うるせェ事になる前に追い払ってやってんのよ。」
     と、と。
     防火靴のつま先が、再度、蚯蚓の脇の地面を叩いて、騒々しくなるより早くに向こうへ行ってしまえと急き立てる。最強の男に追儺されては這う這うの体で逃げ出さざるを得まい。必死に蠕動する蚯蚓の姿は無力そのものであり、中華半島で巨大にして獰猛な蚯蚓状の生物と会敵しているアーサーにとっては脅威と呼ぶには物足りない。それは勿論、紅丸とて同じ事であろうが――この男は、高が蚯蚓だろうと言い切って超克を強いず、か弱い女の恐怖心に寄り添っているのだ。
     紅丸が身体の向きを変える。何も知らずに歩み寄って来る女の目に触れさせぬよう、裏庭の端に身を寄せる途中の蚯蚓との間で壁となる。
     ――成程、これがそうなのか。傍らで一心に女を望む紅丸を見遣って、アーサーが訳知り顔で首肯する。それは騎士の活躍する物語でも崇高なものとして扱われる、人生の一大テーマだ。
    「フッ。愛、だな。」
    「お前……真顔で小っ恥ずかしい事を言うんじゃねェよ……。」


     
  • アーサー・ボイル

    20221221(水)05:28
    ▼第三の選択肢、私



    「お前。」――と。真っ直ぐに見詰めて来るまなこは、嘘を知らない。

     その死相はきっかり事務仕事の時間に浮かぶのだから三日で見慣れた。然りとて、美形の不景気な顔と言うものは、今日は厄日となるのではないか、と心に不安の種が植わる程の縁起の悪さを感じさせる。見過ごし難くなると、私はつい、アーサーくんの気晴らしになりそうな話題を振っていた。お昼ご飯は何を食べるの、とか、円卓の騎士について教えて、とか。本日は瀕死のようであったから、彼の一等お気に入りのゲームについてだ。「アーサーくんは、ビアンカとフローラ、どっちが好みなの。」。手もとの書類を一枚、片付け終えてから尋ねてみると、直ぐさまに明るいお返事があった。無邪気さが照らすそれは、MPが……かしこさが……と何かこちゃこちゃとした事を朗々と語り出し、萎び切っていた美貌と金のちょんまげにも次第に生気が取り戻されてゆく。元気になって良かった、良かった。相槌為い為い、首肯為い為い、新たな書類に向き合う、と。未処理の書類の山脈を越え、机と机の隔たりを越え、ファイルの垣根を越えて、青い矢が飛んで来る。じいっと、アーサーくんの瞳が私を射抜く。狙い澄まされた心臓が止まってしまったから、音も聞こえなくなっていた。

    「おい。自分から訊いておいて無視かよ。」
    「――ええ、ああ、ごめん。もう一回、言って貰えるかな。」
    「ビアンカかフローラかで言ったら、お前だ。」
    「そっか。ビアンカかフローラかで言ったら私か。」
     そっかあ。
     くだんのゲームでは、ビアンカとフローラ、何方かの女性キャラクターと結婚出来るシステムだそうだ。その二人を差し置いて、私、アーサーくんに選ばれたのか。それは、詰まり――いや――そもそも私は騎士王様の望むようなお姫様ではないし――でも――。
     混乱の渦に揉まれに揉まれ、身体の末端に迄力を込めていられない。握っていたボールペンが滑り落ち、芯の先がカツンと机を打ってはインクの染みを作る。ごめん、シンラくん。今日は非番であるこの席の常連の少年に心の中で謝りつつ、慌てて指先でインクを擦る。かまけている姿勢を見せたら逃してくれるのではないか。真剣な声音を一つ突き付けられて、希望的観測は打ち砕かれる。
    「姫と嫁、一文字違うだけだからな。そんなに違わない。」
    「その一文字で大きく違うでしょう。」
    「騎士王の嫁は姫だろう。」
    「王の嫁は王妃よ。」
    「じゃあ王妃で。お前、今日から王妃な。」
    「アーサーくんに結婚は百年早い。」
    「百年待つだけで良いのか。簡単なクエストだな。」
     ふふん、と自信たっぷりに言ってのけられる。何事にも規格外の少年だ。百年、本当に待たれてしまいそうであった。
     ボールペンのインクを伸ばし伸ばしとして白さを取り戻した机上から、そろり、向かいの騎士王様のご尊顔を拝そうと顔を上げようとして――
    「――君達。うちは職場恋愛禁止じゃあないが、職務中は控えるように。」
     横合いから、態とらしい咳払い、が。
     実は事の成り行きを見守ってくれていた桜備大隊長の厳めしく言う事に、「は、はい!」と我ながら落ち着きのない大きな返事をし、早速記入しかけの書類に齧り付く。向かいの机からも渋々々々ながらも書類と対峙する気配を感じた。アーサーくんが又もげっそりとしようとも、今度はもう、顔は上げてあげられなかった。衝立代わりとしたファイルの内側で、火照り出す頬を押さえる。

     
  • 伏黒甚爾

    20221217(土)05:55
    ▼シグナル・レッド・ガーデン


     男性美の極致に至るこの男だからこそ、口もとに付いた瑕疵は瑕疵とは言えない。いっそ男らしさを際立たせる装飾のような傷痕が、小さく引き攣って、短な言葉を生む。
    「やる。」
     次いで、徐に、けれども勿体振らないと言うサプライズの演出に適した調子で腕が持ち上がった。目の高さに差し出されたそれに、視界が真っ赤に染め上げられる。濃い、古びた血のように濃い赤色を基調として作られた小さなブーケ。中心で咲く薔薇の花弁の形をじっくりと観察していると、鼻先で花ばなの香が戯れ始める。
    「花なんざ腐る程貰って来たかと思ったんだがな。見惚れるくらい気に入ったか。」
    「ええ。色男と花束、普遍的な胸の高鳴る取り合わせだわ。突然のプレゼントとなれば尚更どきどきする。」
    「それだけ喜んで貰えるとはな。買って来た甲斐があるじゃねぇか。」
     いけしゃあしゃあと。私の胸もとに押し付けては押し付けがましく、これを早く受け取れ、と催促して来る。花よりも刃物が似合う男だ。赤にまみれた手もとを眺めていると殊更にそう感ぜられた。赤は、止まれ。警告色の発するシグナルに従い、手は伸べず、じいっと私を見下ろしてばかりの甚爾を仰ぐ。
    「いきなり、何の真似?」
    「家主のご機嫌取りもヒモの仕事だろ。」
    「別に損ねていないけれども、これから損ねる予定が――ああ、いえ、いい、わかった。」
     彼に融資して、彼が投資して、金は天下を回り回る。めぐりめぐって私のもとに帰って来た試しはない。今日は競馬か競艇かパチンコか、スウェットに取り付いた煙草の臭いが薄い事から馬か艇だろうか。私の年収と貯蓄を試算し直す。二人揃って食うに困る日の訪れは相当遠いと判じられたにしても、こうも金を使い込まれて賭けの負けが込まれると、近く財布の紐をきつく調節しなければなるまい。
     脱力した肩の先、無気力にぶら下がっているだけの手首が掴まれた。洒落っ気もなく、半ば無理矢理にブーケを握らされる。
    「へぇ。似合うな、やっぱ。」
    「……初めて言われたけれども、花が?」
    「花も。」
     私の手の中に荷物を移し終えた甚爾は、身軽そうにすたすたと部屋を闊歩し、お気に入りの居場所であるカウチソファに身を横たえた。その儘長い脚を組み、目蓋を閉ざして、夕食の用意が整う時迄ひと眠りと洒落込む心算らしい。気儘な事だ。彼の自由な振る舞いが、彼が自由に振る舞えている事が、彼の居心地の良い場所で在れている事が。私には余程嬉しかった。
     ソファのそばに立ちがてら、ブーケを構成する花ばなを確かめる。幾ら人間の機微に敏い男とは言えども、薔薇や蒲公英と言ったポピュラーな花以外の名を知っているかは怪しいものであった。
    「この花、まさか、甚爾が選んだの?」
    「花屋に任せた。」
    「血の色がお似合いになる恐ろしいご主人様に渡すものだから適当に見繕ってくれ、とでも言って?」
    「半分当たりだな。赤が似合う強気な美人にやろうと思っている、後は「適当に見繕ってくれ。」。いらねぇなら捨てろ。」
     斯くして、平らかな声音が述べる。世辞や揶揄の起伏は僅かも無かった。
     ――要らないならば捨ててしまえと何て事無く言ってしまえる、このブーケにきっと真心は無い。そして、花は枯れたら後腐れ無く捨てられる。まるで、私だった。
    「いるわよ。誰が捨てるものですか。」
     畢竟、甚爾にとっての私とは、情を掛けるに値しないゆきずりの女だ。室温が一度、ソファの位置が一ミリ違っていたから、と言う理由だけで出て行けてしまえるくらいの居場所だ。
     甚爾にとっての私とはその程度の存在でも。
     私にとっての甚爾とはその程度の存在ではない。
     抱えていたブーケを逆しまに下ろす。未だ瑞々しい花を携えて、紐でも無いかとソファ近くに備え付けてある抽斗を探る。この男にとっては枯れた花もドライフラワーも然したる違いはないだろうから、枯れてなお残るものがあるだなんて誤算となるだろう。
    「甚爾。次に負けたらシリカゲルを買って来て頂戴。」
    「次があったらな。」
    「あるでしょう。それじゃあ明日、約束よ。」
     不貞寝か、それ切り言葉は途切れて、男の呼吸は静かなしずかな寝息に変わる。果たしてほんとうに甚爾は其所に居てくれているのかと、影のようにソファに蟠る黒衣を振り返っても堪らず危ぶむくらいの静寂。その中心に置かれて、無かった事になどしてやるものか、と怒りにも酷似した感情が燃え立つ。
     ブーケをいま干からびさせる事も容易い、貴男への情と熱。