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お一人でいらっしゃるだなんて珍しい事も有るものだ。
向こうからお出でになる一つきりの白いひと影に、全身に緊張が走った。
手入れの行き届いた艶やかな薄紅の御髪も、長い睫毛に縁取られた真紅の瞳も、網膜にくっきりと焼き付く麗しさを放っているが、潔癖な衣装に包まれたしゃんと伸びやかな背筋にこそ、私の目は奪われてしまうのであった。踵の音一つ取っても堂々たる佇まいのその御方は、アスモデウス・アリス様。高嶺も良い所の御方である。
しかし、私が極度に緊張している理由の大部分を占めるのは、家格の差や位階の隔たりではない。師団室に籠ってしたためていた、今、手にしているこの詩篇。これこそが石化魔術の触媒と相為っているのだ。迫る施錠の時刻に追い立てられて部屋を飛び出したが、慌てふためかずに鞄に仕舞い込むべきであった。どっと押し寄せた後悔は、平常心を押し流してしまう。如何しよう。こつり、こつり。高らかに謳う御御足が此方に近付いて来る。如何しよう。手の平がじっとりと汗ばみはじめた。如何したら。――否、如何も斯うも無い。アスモデウス様の方は私の事など認識していらっしゃらない。かの方からすれば私は、まんじりともせず廊下に突っ立っているだけの、その他大勢の中のいち生徒に過ぎない。落ち着いて歩き出して、落ち着いて擦れ違って、落ち着いて通り抜ければ、何事も起こらない。
詰めていた息を何とか吐き出して、大笑いしそうな膝に言う事を聞かせる。既に細作りの輪郭がはっきりと目視出来る距離になっていた。すらりと通った鼻梁の、なんと美しい事。もう少しだけ堪能していたい――なんて、事態の悪化を招きかねない軽率な邪欲を諌める為にも、早い内から目礼する。足もとを一心に見詰めて、一歩、二歩。三歩。貴人と交錯する。瞬間。頂点に達した緊張が、震えとなって手に表れた。紙片が、ひらり。脱け出す。あ。不味い。
「落としたぞ。」
貴族の方に膝をつかせるだなんて不遜な行為を働いてしまった事に、かの方に認知されて声を差し向けられた事に、その炎を閉じ込めた宝石のような双眸に自分の姿が映し出されている事に、頭は完全に真っ白になってしまった。口からは、え、とか、あ、とか、壊れた音響魔具の如く要領を得ない音が繰り返されるばかり。落としものを拾って頂いたにも関わらず受け取る素振りを見せないでいては、投げ掛けられた悉くに明らかな不審感が宿ってゆくのは道理であった。
「何だ。早く受け取れ。」
「ええと、その、あの、申し訳御座いません、受け取ってください!」
何を血迷っているのか、私は!
然りとて、出した言葉は飲み込めやしない。「は……?」と「おい! 待て!」の声に後ろ髪をぐいと捕まれたが、振り切って置き去りにして、全身全霊を懸けて廊下を直走り、学舎を出て、一目散に羽撃いて、全力を以て家に逃げ帰ると同時に倒れ込んだ。
何をやっているのだ、私は。見知らぬ女から唐突に詩を渡されるなんて、気味の悪い事この上無い。そのような奇行を、事もあろうにアスモデウス家の御嫡男相手にやってのけてしまったのだ。相応の報いが有るに違いない。お家お取り潰し、なんて事になったら如何しよう。考えるだけで、長らく早鐘を打っている胸は、凍傷をおそれる程に冷え冷えとした。
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あれから、鉛よりも重たい身体と心とを引き摺って悪魔学校に通う事、早数日。魔界警備局員の影に怯える犯罪者宛らに身を潜めて過ごしていたが、アスモデウス様とお会いする事も、ひと伝てに沙汰が申し渡される事も無かった。
きっと、詩篇はその場で焼却されて、全ては無かった事にされたのだろう。これで良かったのだ。希望的観測に纏わり付いているものがむなしさだとしても、これで良いのだ。この経験を教訓として、以降は悪魔学校の片隅でより慎ましやかに生きよう。そうと決めたならば、かの方を望むと忽ちむくむくと生まれいずる、自分でも掴み切れやしない大きさの感動。その産声を綴る事は、もう止すべきであろう。籍を置いている詩歌師団も、自戒として退団した方が良いやも知れない。大失態を演じた場所に差し掛かると身体が強張るようになってしまった事も有る。真剣に検討しなければならないだろう。
師団室に続く廊下をとぼとぼと歩いていると、早速、足が縫い止められでもしたかのようになった。大腿を摩って振り返した緊張をほぐし、ゆっくりとだが歩を進める。
「待て。」
心臓が、ひやり、とした。
後ろから掛けられた声は凛としていてよく通り、振り返らずとも――振り返れずとも――どなた様のものかようく理解出来る。アスモデウス・アリス様。御名を口にしたが、これだけ掠れに掠れていると聞こえているかも怪しい。
勅命によって足の裏はふた度、床に確りと根付いて、自分の身体なのに小揺るぎもしてくれない。言われた通り以上の硬直を見せる私を見兼ねて、アスモデウス様が前へと回り込んだ。注がれている。視線が、俯いた後頭部に注がれている気配がする。居た堪れない、とはこう言った状況で使う言葉なのだろう。消えて居なくなりたい。御尊顔を仰ぎ見るだなんて最早とんでもなくて、私の二つの目は廊下の床材に釘付けになるよりほか無かった。
「顔を上げろ。恥ずべき行いをした訳では無いだろう。」
更なる命を受けて、恐る恐る仰せの儘にする。
紅玉には、嫌悪も赫怒も含まれてはいなかった。ただ、凛と光って、呼吸を奪う。間近で拝する暴力的な迄の美しさは、アスモデウス家の象徴そのものが嵌まっているのだとも思えた。
秀眉が微かに跳ねた事で、自分が不躾を咎められてもおかしくはない程の凝視を為していた事に漸く気が付いた。申し訳の無さから、又もや首が床に引っ張られる。それを引きとめたのは、アスモデウス様の静かな声音であった。
「名を聞いていなかったな。私は――既に知っているだろうが、礼儀として名告ろう。アスモデウス・アリスだ。」
朗々と告げられて何時迄も黙りこくっていては、それこそ礼を失する。古式ゆかしい手順で牙を隠し、角を隠し、からからの喉と拙い舌で名告りを上げる。さぞや聞き取りづらかったのだろう。一拍置いてから、アスモデウス様は私の家名をなぞって確かめた。生まれてからこれ迄、幾度も幾度も耳にして来た馴染み深いものだったのに、生まれ変わりでもしたかのような響きがした。
残響の消える迄味わい尽くした後になって、は、として辛々応じる。すると、丁寧に折り畳まれた紙片が――如何にも見覚えしかない紙片が、白い制服の懐から摘まみ出された。形良い指先でそれを開いて、今一度、真赤な視線を紙面に滑らせてから、かの方は私の目を見据えて問うのであった。
「これは、恋慕の情を綴った詩だと受け取ったが。」
心に従って首肯する。
私は畏れ多くも、アスモデウス・アリス様に恋心を抱いている。だが、あの瞬間迄、想いを告げる心算なんてこれっぽちも持っていなかった。遠くから御姿をお見掛けするだけで事足りるようなものだと信じていたのに、錯乱していたとは言えども、自らに裏切られた心地だった。憧憬に倣って礼節に重きを置いていたかった私にとっては、この烏滸がましさは許されぬものだ。恥じ入って恥じ入って、今も消え入りたくて堪らない。
「そうか。」とのひと声は抑揚の無いもので、その冷静さが却って私をこの場に繋ぎ止めた。アスモデウス様がもう一度、懐に手を忍ばせる。次に取りいだされたのは、一枚の封筒だった。流麗な所作で差し出される。
「私からの返事だ。」
――それだけで、こたえがわかってしまった。
かの方を見詰めて来たのだ。真っ直ぐに向けられた瞳も、声も、表情も。触れ難い程に美しいが、特別なものではないとはひと目でわかってしまえるくらいには、ずうっと。
「態々、お時間をくださって、有り難う御座います。」
両手で封筒を拝領し、こうべを垂れる。声は喉を振り絞らなければとても出て来ず、それだって涙をじんわりと滲ませた無様なものであった。端から重々承知していた筈なのに、胸に感情の重石が閊えるのが不思議でならない。
目に入った自分の胸もとを憎々しく見下していると、白いつま先が一歩分、引いた。僅かにおもてを上げて、様子を窺う。
胸に手を当てて此方に礼するアスモデウス様の御姿が、在った。
「こちらこそ。実に美しい詩だった。」
仮令、社交辞令だとしても、だ。その品良い微笑みは、長いまばたきの間だけ芽吹いた浅ましき恋心には、最上の誉れであった。
すらりと礼を解いて来た道を戻るアスモデウス様の背中を、深々と腰を折ってお見送りする。足音の聞こえなくなる迄そうした後、放って置くと身体から離れそうな意識を気付けながら、私は覚束無い足取りで師団室へと辿り着いた。皆は題材を求めて出払っているようで、室内に人気が無いのは僥幸だった。扉を開けるなり、ずるずるとその場にへたり込む。張り詰めていた緊張の糸がふつりと切れて、いっそ気を失ってしまいそうですらあった。
現実のよすがである手中の封筒を、目線よりも高くに持ち上げて、大窓から射し込む斜陽に透かして見る。赤い封蝋で閉じられた真っ白な封筒は、手触りからして上質と理解させられる、かの方に相応しい代物である。お断りの書状が封じ込められているにしても、雑には扱えない。
よろよろと立ち上がって、自分に割り当てられた机の上の文房具入れからペーパーナイフを手にする。端から刃を当てて、細心の注意を払って開封してゆく。切り口からふうわりと解き放たれた甘い香りに、身体と心の凝りが取り去られてゆくようだった。香水が吹き掛けられているのだろうか、お洒落だ、などとひと頻り惚けた後で、いよいよ正確に二つ折りにされた便箋を取り出す。呼吸を整えて、整えて、整えて。決した意を逃さぬようにひと息に開いて目を通す。
「これ、は。」
お手本となり得るすべらかな筆跡で綴られているそれは、詩、だった。気持ちはよろこばしいものであったと、想いには応えられないと、よい相手との巡り合わせが有るよう願っていると、荘厳な美辞の中から真摯に伝えて来るものだった。
二度、三度では足りず、遂には暗誦だって出来そうなくらいに幾度も読み返した頃に、ぱたり。床に水滴の落つる音で、自分が泣いている事に気が付いた。拭う間も惜しんで、手近なペンと紙とを引っ掴む。溢るる情動を書いてとどめる。
今の私の中には、かの方の賛辞が新たな鼓動となって響いていた。
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