jujutsu
name change!
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振るった拳は目の前に聳える男の頬にクリーン・ヒットする事なく、不可視の壁に阻まれるようにして寸前で止められてしまった。
「アブなっ。ドメスティック・バイオレンス?」
「ドメスティック抜きの純粋なバイオレンスです。」
不承不承ながら腕を引く。印を解いたその手が渡して来た紙包みが、仲を取り持とうとでもするかのように、クシャリ、とか細い声を上げた。第三者を気取った音が癪に障る。当たり前に逆立ってゆくこの眉を目の当たりにして置いて、心底から不思議そうに顎に手を遣る恋人には尚更の事だ。
手の中の紙包みへと視線を移す。移して、見ていられなくて逸らした。その先で、板張りの廊下の目玉みたいな木目と目が合う。居た堪れずに、剥いた包装紙を慌てて御座なりに被せ直したが、手汗を吸って柔らかくなった薄紙はしっとりとそれに張り付いて、余計にそのかたちを意識せざるを得なくなった。
「今更、恥ずかしがるようなものでもなくない? 初めて見るワケでもないのに。」
内から発火しそうな程に熱の籠った私の頬の、赤々とした血色を眼帯越しに見るにつけて、悟さんは如何にも信じ難そうに首を傾けた。誰よりも私の奥深くを知り尽くす男に言われると何とも言えない気持ちになるが、何度も目にしたからと言って、これに対して羞恥心の一切がさっぱりと霧散するとでも思っているのだろうか。
機微を理解していないコメント毎、お奇麗な顔をぎろりと射抜いてやる。
「何ですか、これは。」
「何って、張り型。ディルド、の方がわかりやすいか。」
その憚りの無さと言ったら、何かの動物の学名でも唱えているかのようである。人さし指を立てて尤もらしくする姿が実に教師らしく、そして堂々とした教授だったものだから、すとんと腑に落ちてすっきりとしすらした。
そうか、そうだな、これはそう言うものだ。納得と共にその儘引き下がりそうになった私に、手の平から待ったが掛けられる。湿気った包装紙の膜に覆われた、それ。落とさないように気を付けて握り込むと、形状の仔細を手の平いっぱいに押し付けて来た。いや。いや。何故。精巧に作られた張り型を。土産に。買って帰って来たのか。
丸め込まれるところであった意識が急速に気付けられる。此所が職員寮の廊下のど真ん中、それも良い子も良い大人も疾うに寝ているような時間である事も忘れて、堪忍袋の緒が千切れ飛んだ。
「そうではなくて、彼女へのお土産がどうしてこれなのかと訊いているんです!」
「だから魔除けだって。出張先ではポピュラーな。最近寝付きが悪いって言ってたし、百パーセント善意だよ。」
「だとしてもデリカシーが無さ過ぎる!」
包みを受け取った当初の嬉々とした感情は、暇乞いを出したきり帰って来ていない。代わりに住み着いた混乱に身体の操作を任せると、男性器を模した木工品を、性急にも悟さんの胸にずいと押し付けた。
「持って帰ってください。」
「え。嫌。」
「真顔で拒否するようなものを他人へのお土産に選ぶな!」
「でも効き目は抜群なんだよね、これが。」
つるりと丸みを帯びた天辺を人さし指で弾いて、「だから効果の程は期待して良いよ。」とからりと言ってのける。そればかりか、穏便なお引き取りを願ってでもいるかのように――かのように、ではなく実際にそうなのだろうが――そうっと手を押し返して来た。何を言ったところで返品は受け付けてくれないのだろう。苦々しい思いが胸から込み上げて、喉の辺りで溜息へと変換される。
「折角だし、可愛がってあげてよ。」
「本気で言っているんですか、それ。」
最強と名高い男は、兼ね備えたスペックのみならず価値観もブッ飛んで特別製なのだろうか。付き合って暫くが経つが、彼の思考回路のたった一本だって理解出来ていなかったのだと思い知らされた。
普通、なんてあやふやでしかない固定観念が適用される相手では到底ないけれども、普通の彼氏は、幾ら効果抜群だとしても、誰のものがモデルになったかもわからない張り型を、お守り代わりに彼女に贈る事はしないのではなかろうか。――自分のものを象ったならば良い、と言う話でもないが。
何だかどっと疲れて来た。長らくの睡眠不足も相俟って遂にはくらくらし始めた頭を、額を押さえる事で支える。
「貴男は、彼女が部屋にこう言ったものを置いていて、嫌な気持ちにはならないんですか。」
「全然。無機物相手に妬けるほど器用でもないし。」
「さいですか。」
二度三度と振られた手の動力となっているのは、呆れ、らしかった。阿呆らしい、と言い出さんばかりに気怠そうにしている。私とて、独占欲を示したり嫉妬に駆られたりと無闇矢鱈と忙しなくして欲しい訳でもないが、彼女として相手にされていないのではないか、と釈然としない気持ちになるのは仕方の無い事であろう。
不図、天井に張り付く電灯の明かりが遮られる。私を頭から呑み込まんばかりの大きな影が差した。百九十センチオーバーの影の中で、額に遣っていた手が、手首を掴まれて外される。真意を尋ね掛けようと首を擡げると、最早長いとも形容出来る背がぐうっと丸められた。
「それに、これで夢子が安眠出来るんだったら安いもんでしょ。」
鼻先が触れ合いそうな、遠慮のない至近距離。其所からゆったりと囁かれた柔らかなテノールは、いたわりに満ち満ちて何所迄も優しく、コンシーラで念入りに隠した隈をささやかに撫ぜるようであり。長らく音沙汰の無かった安堵を、胸のうちに呼び込むようであった。心地好さから、まばたきと言うには少しばかり長目に目蓋を下ろす。すると、掠めるだけの口付けが、目覚めのおまじないみたいに額へと施された。
触れるだけ触れて、颯と背を正した悟さんを見上げる。その頬は、如何にもしてやったりと言う形をしていたが、煌々とした電気の生んだ陰影の所為か、ひと匙の憂いがまぶされているようにも見えた。
「早くも効果アリ? それなら何よりだけど、寝るなら部屋で寝な。連れてってあげるから。」
「まさか。後、二十四時間戦えますよ。」
「キャッチコピー古ッ! 年を感じる。」
私と貴方の齢は然程変わらないだろうが。一人だけ年寄り扱いされた腹癒せも兼ねて、張り型をハリセン代わりにした強目の突っ込みを食らわせようとするが、矢張り届かない。
「こんな時間に元気いっぱいだこと。」
「お陰様で目が冴えて来ました。責任を持って、添い寝の一つでもしたらどうですか。」
「張り型、あげたじゃん。今日のところはアレと寝な。」
「あの程度で満足出来るとでも? 貴男が、良いんです。」
黒い覆いの下でまばたきが幾度も繰り返される、そんな気配がした。それから何やら明後日の方向を見遣るなり、これ見よがしに溜息を吐き出すではないか。わかっていない、とでも言いたげなそれが、しんとした深夜の廊下に溶け切った頃。悟さんは、如何にも心配性の彼氏、みたいな顔で鹿爪らしく言った。
「これでも夢子の身体を気遣ってるつもりなんだけど。」
「知っていますよ。貴男に愛されている事くらい。」
「だったら、そんなコト言って余計に寝られなくなったら、とか考えたりしない?」
「それならば、眠れるまでお付き合いください。それこそ、朝まででも。」
恥ずかしい事を恥ずかしげもなく言っている自覚は有るが、久方振りに会えたのだからこれくらいの甘えたは許されるところだろう。そうは思うものの、無言で居られると気恥ずかしくなって来るのも事実で。彼を真っ直ぐに見据えていた目を少しずつ泳がせてゆく、と。男性らしく骨張った手指が、退路を塞ぐようにして徐に伸ばされた。私の髪のひと房と戯れ、耳輪をなぞり、頬を滑り落ち、頤を擽ってゆく。こそばゆさに身を竦めた隙を突いて、するり、と手が掬い取られた。
「コッチと寝た方が良かった、なんて後で泣きついても知らないよ。」
掲げられたのは、何時の間にかこの手から掠め取られた張り型であった。きゅうと縊られて、あわれにも助けを求めているようにすら映る。それが、何だか嬉しかった。大きな手が為すその仕草からは素直さを感じられた。極めて小さなひと欠片であっても、呪術師としての合理性を扨措いた彼氏としての我欲、みたいなものが期待出来てならなかった。
「へらへらしちゃって、余裕そうだね。」
「にこにこしているだけです。彼氏に愛されていて喜ばない彼女はいませんから。」
手の平と手の平が擦り合わされる。指を絡めたのは私からで、すらりと長い指と深く繋がると、良く出来ましたと言わんばかりに指先で手の甲を撫ぜられた。ひっそりと目笑を交わす。もう、言葉は無粋なものへと変わっていた。黙して互いの熱を交わしながら、私達は眠れぬ夜をゆく。
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いきさつを述べると、私は彼の部屋のベッドに横たわって三秒で、深いふかい夢の中へと猛ダッシュで旅立ってしまった。最強の恋人の腕の中に居て安心するなと言う方が無理な話だろう。陽光のシャワーを浴びた目蓋を押し上げると同時に掛けられた、「おはよう。」と言う悟さんの声が一体どのような気色に彩られていたかは、私と、彼の手によって枕元に無造作に放られた安眠守りの張り型のみが知るところだ。
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