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捧げ持った燭台に手引きされて、夜陰の塗り込められた廊下をゆく。主であるサリバン様や彼の御方のお孫様である入間様は、既に床に就かれている時刻であった。万が一にも安眠の障りとならぬように、足音はもとより、踝に届かんとする慎ましやかな使用人服の裾の揺らめき一つにも細心の注意を払う。そうして静謐を保って辿り着いた一室は、何を隠そう、厨房だ。灯火に浮かび上がる看板を目にするなり、ようやっと狂おしい程の空腹から解放されるのだと、腹の虫がくうくうと快哉を叫ぼうとする。折角此所迄守り抜いた静寂に亀裂など入れられるか! そうはさせじと慌てて扉を開けて、身を潜ませる。と。
「――おや。」
耳に滑り込んだ感嘆は、窓から射し込む月明かりのささめきかと思われたが、如何やら違うようだった。篝を掲げて辺りに凝る夜闇を打ち払う。無人である筈の厨房内にぽつねんと在ったしなやかな影の正体を、橙色の幽光がおずおずと暴いた。
「オペラさん?」
「こんばんは。」
流し台の前に立って此方を振り返る先客は、何故か手で口もとを隠していた。よくよく見てみると、頬は何かを咀嚼しているように微かにもぐもぐとしている。
こんな夜更けに何をしているんですか。自分を棚に上げた問い掛けがつい喉元迄込み上げて来たものだが、発さずとも答えは自然と得られた。鼻腔を甘やかに擽る、瑞々しい果実の清涼なる香。それは、日の出ている内に繰り出した食材の買い出しにておまけとして幾つか頂いた、馴染み深い果実の滴らせるものに相違無かった。――ならば、出どころは。
暗がりに秘されている片手を覗き見ようとする私の視線に気付いたのであろう。オペラさんは口腔の果実を嚥下するなり、尤もらしく頷いて見せた。
「余り褒められた事ではありませんが、こうして夜食を食べたくなる時もあります。」
私とてあの太っ腹な店主からのご厚意をあてにして来た身分なのだから、何かを言えよう筈も無い。意を同じくしていると首肯で応じる。共犯関係となった事で、歩み寄るのを許されたような気がした。一歩、二歩。流し台の向こうの調理台の上に盛られている、赤々と熟れた果実の一つを求めて邁進する。
「剥きましょうか?」
気遣いの声に対して礼を失さぬように、通り掛けにオペラさんの方へと顔を向ける。――甘えようとしたのか、断ろうとしたのか。その選択すらも心の臓から噴き上がった火にくべられてしまった。
腕捲りをして露となった手首から前腕に掛けて果汁が伝ってゆくのを、見た。「おっと。」と一つも焦っている様子の無い声音を漏らした唇が、果実を掴む手へと寄せられる。薄く開かれた唇から差し出された舌が、齧られて晒された白い断面から溢れる蜜を受け止める。舌では拭い切れなかった迸りに吸い付くと、ひっそりとした夜の中にささやかなリップ音が落とされた。それは耳元で甘言を囁かれているようにも聞こえる、甘美なる蹂躙の音色となった。
私の頬は今、この蝋燭に灯る火よりも熱いのではないだろうか。
「どうかしましたか?」
すっきりとした頬の上を、睫毛の陰影が綾なす。橙色の仄灯りが生み出した美しいさまに魂を奪われた心地となっているのを気付けたのは、在り在りと表れた訝る気配だった。次いで差し向けられた切れ長の双眸は、平時と変わらず凪いでいる。にも関わらず悪徳を処断する断罪の刃に感ぜられて息が詰まるのは、私に疚しい所が有る所為だろう。
もしかして私は、オペラさんの見てはいけない一面を見てしまったのではないか。仕草に気を取られていたが、普段はきっちりとリボンが結ばれている襟元も、今は緩められていたように思う。そうっと確かめる。寛げた襟から覗く、無防備な鎖骨。滅多な事では御目に掛かる事の無い素肌を目の当たりにした途端、羞恥心が頭からつま先迄を席巻した。首が嫌な音を立てかねないくらいの勢いで顔を逸らす。
「いえ、その、御馳走様です。」
「何も振る舞っていませんが。」
仰有る通りです。悶々とする頭を如何にか斯うにか冷やそうと手の甲を頬や首筋に当ててみたりするものの、暫くしてふた度、しゃりしゃりと果実を噛み締める小さな音が耳に付くと、それも焼け石に水と言うものだった。意識せずに生唾を呑み込む。思わぬ光景を食らった腹の虫はすっかり鳴りを潜めてしまった。ならばもう部屋に帰ろうか。そんな撤退案を押し流したのは、水道から流れ落ちる水音であった。
オペラさんは手を濯ぐと、颯爽と私の横を通り抜けた。調理台に鎮座して事の成り行きを見守っていた果実の一つを、その手に取る。
「私も一つでは物足りなかったので、分け合いましょうか。」
空腹と体重の増加とを天秤に掛けている、苦辛の間だとでも思われていたのだろうか。オペラさんは優しい事にそう心を配ってくれたが、先程の光景がフラッシュバックし続けている私はと言えば、満足な返答をするどころか、情けなくも視線を上げる事すら儘ならなかった。
手の中の燭台に点ぜられた蝋燭の灯火が細かく揺らめく。腹を抱えて笑われているようで決まりが悪いったら!
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