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その時、何も手にしていなかったのは僥倖だった。
只でさえ冷えたオペラの肝は霜が付いたように凍て付いた。もしもこのマジカルストリートに遣いに出されたわけである、魔具なり、装飾品なり、食材なりを抱えていたならば、戦慄く手の平は取り零してがしゃんと地面に落下させ、見るも無惨な有り様へと変じさせていたであろう。今、持っている荷物が、肩に引っ掛けた紙袋一つだけで良かった。
気を落ち着かせる為の逃避として俯瞰などをしてみてから、オペラは震える唇を薄く薄く開いた。「いま、」。引っ繰り返る声を正す咳払いすらもぎこちないと来た。
「今、何と?」
あわれにも掠れ切った声への応えは、初擊から少しも威力を衰えさせる事無く、尖った耳の奥の奥をこれでもかと蹂躙する。
「昨晩はカルエゴの所に泊まって、これから暫く居候させて貰おうと思っています。」
その台詞が他者に与える印象を理解していないのか。理解していたとして、隠し立てする事は何一つも無いと全身全霊で伝えて来るような、底抜けにあっけらかんとした様子であった。
万に一つも聞き間違いでは無かった。鈍器で側頭部を強かに殴打されたが如き衝撃が、星を鏤めるようにして、彼女に纏わる記憶をオペラの脳裏にばらまいた。
オペラが在学中に猫可愛がりしていた後輩の少女は、悪魔学校卒業後、見聞を広めたいとしてこの地を遠く離れた。「落ち着いたら、連絡をくださいね。必ず。」と言い含めたオペラの――先輩の言葉を真摯に受けとめての事だろう。魔界を気儘に旅してまわる彼女の足跡は、時偶にだが、手紙の形できちんと知らされた。文字が語る冒険劇は然しものオペラをしてもわくわくよりもはらはらさせられるものが多く、長らく便りの無い時は、不図した拍子に少女の無事を考えて鉄塊を飲み下したように気重になる事も有った。
今回は立ち寄っただけではなく暫く滞在するのだと、先程、マジカルストリートで偶然にも再会した彼女は言った。昨日帰って来たばかりなのだと話す彼女の実家は秘境と呼べる場所に在り、学生時代からその長距離の移動を億劫がっていた彼女が、疲労を蓄えた身体を引き摺ってでも家に帰ったとは到底考え難かった。「宿は取れましたか?」。――当てが無いようならばうちに泊まりませんか。逸る期待を咽頭に控えさせていたら、これだ。
頭にわんわんと谺する台詞を、復唱する。音にしたオペラ自身も目を見張る程に感情が霧消していた。「カルエゴくんの、所に。」。ナベリウス・カルエゴ。くだんの彼もまた、オペラが可愛がっている後輩の一人であった。彼女とは同級の間柄で、悪魔学校の学生時代から現在にあっても、バラムを加えて三人でつるんでいる事をオペラはようく知っていた。お互いに気の置けない仲であり、性別の垣根を越えた対等な友人関係が築かれているのだと微笑ましく見守っていられるそれは、紅一点の彼女が何方かと男女の付き合いをするなんて、一端の想像だって適わないものである。当人達からしてもその認識は揺るぎ無いのであろうが、カルエゴは厳格な性分だ。彼こそは思慮と分別を持ってきちんと断ったのだろうと信頼が置けた。そして、断って断って、断った末に押し切られたのだろう。一度斯うと決めたら曲げない頑固な一面が彼女には有ったが、きっと、そればかりが間借りを許した要因では無い。深夜に突然訪問された挙げ句に、じゃあ路上で寝てやる、とでも喚かれたのやも知れない。眉間に刻んだ縦皺以上に深い情をも併せて隠し持っているのが、カルエゴと言う男であった。ならば部屋の扉を開く運びとなるのも、宜なる哉。そう見通したオペラは、今頃、教職を全うしているであろう彼が居る悪魔学校の方に遠い目を向けた。
「オペラ先輩?」
ぼんやりとしてしまった暗赤色の双眸の前で、ひらひらと手が振られる。右に、左に。正気を確かめようとする彼女の怪訝そうな振り子を、オペラは咄嗟に捕まえた。力がこもる。
カルエゴが彼女に魔手を伸ばすなど、仮令天地が逆しまになっても有り得まいと、絶対的な確信は得ている。――だとしても。
「うちに来ませんか。」
彼女の口腔に満ち満ちゆく疑問が解き放たれる前に、二の句を見舞う。
「長期で泊まれるよう、理事長には私の方から掛け合います。幾らでも居てくれて良い、と仰有って頂けそうですが――そうなると入り用なものを買い揃える必要がありますね。今から買って行きましょうか。」
「え、あの、」
「ああ、代金ですか。私の私財から払いますから気にしないでください。では、先ずはあちらの店で服を調達して――」
「いえ、その、オペラ先輩!? お気持ちは有り難いのですが、そこ迄お世話になるのは忍びないです!」
淡々と為されていた提案が段々と決定の向きになりゆく事に、危惧を催したと見える。華奢な手を引いて彼女好みの服飾店に歩を進めようとするオペラであったが、津々浦々に迄行き渡った健脚は踏ん張りがよく利く。遠慮と言う抵抗をも共に受けて、オペラは独断を振り返る。ぶんぶんとかぶりを振る彼女の姿が映ると、彼の中に少しずつ冷静さが呼び戻された。
「嫌ですか。」
「嫌ではありませんが、兎に角、気が引けます。働かざる者は食うべからず、と言うでしょう。ふらふらしている私には働き口がありませんから、サリバン様のお屋敷でただ飯食らいになるなんて、申し訳無くてなりません。」
「ふらふらしている自覚はあるんですね。」
その言い分を通すと、カルエゴのもとで食いっぱぐれるのを待つばかりになるのだが、果たして。
この話は此所で終局だと言わんばかりに曖昧に笑う彼女の手を、しかし、オペラが離す事はなかった。
「でしたら、私の仕事を手伝ってくれませんか。そうすれば心配している三食も堂々と食べられるでしょう。」
これは義理堅さに応える為の一手ではない。何所へなりとも飛んでゆく小鳥の自由なさまを愛せども、他の男が止まり木に選ばれたと知った瞬間、オペラの胸裏は酷く焦げ付いた。無害な後輩相手であっても、だ。
「――この条件ならば、カルエゴくんの所に泊まる理由は無くなりますね。」
これは、嫉妬のほむらで逃げ道を丁寧に塞いでゆく作業にほかならなかった。
「不安に思わなくても大丈夫ですよ。貴女は物覚えが良いので、仕事も直ぐに覚えられます。覚えるまで、私がしっかりと面倒を見ます。」
彼女のつぶらな瞳を、真っ直ぐに貫く赤の視線。それは花の脣を縫い合わせて肯定以外の返事を封ずるだけの、静かな剣幕を見せていた。畏縮し切ったような沈黙の後に、彼女は小さくちいさく首肯して見せる。「じゃあ、お言葉に甘えさせて頂きます。」とはにかんで為された色好い返答は、オペラの中でひりついていた焦燥をすっかり慰撫するものであった。
オペラは頷きを一つ返して、捕まえていた儘の彼女の手をそうっと引き、先を促した。賑やかな店構えの建ち並ぶ石畳の道を、横並びになって歩く。
「それでは、必要なものを言ってください。揃えに行きましょう。その後はカルエゴくんの所に荷物を取りに行かなくてはいけませんね。」
「何から何迄済みません。お世話になった分のお金の方は、いずれ必ずお返しいたします。」
隣に付く彼女の俯いたこうべを盗み見るなり、オペラの黒い毛並みの尾が自然と揺れた。
買い付ける荷の量を考えて馬車を出したものだが、正解だった。先に運び入れておいた品々をきっちりと積み込んだならば、これから購入する彼女の必需品の数々も、彼女自身も、余さずに納められるだろう。それは自由なる彼女を束の間だけ閉じ込める鳥籠のように思えて、オペラは耳がぴんと立ち上がるのを如何にも抑えられなかった。
「奢ります。今の私はとても機嫌が良いので。」
「機嫌が良くなる事がありましたか。」
「これから幾つもありますが、どれも秘密です。」
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