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餡蜜、自棄食いらしくもっとかつかつと掻き込むべきだった。感傷に浸ってまごまごとした匙運びをしている場合ではなかったのだ。暖簾を潜って甘味処を出た先。「紺炉さん、」と、夜半に足の無い人に出会しでもしたような引き攣った声が喉から迫り上がって来る。今は真っ昼間で、目の前の人には立派な足が生えているのに、だ。
私がどれ程この場から逃げ出したいと望んでいるか知らぬではないだろうに、紺炉さんは、傷の勲章の飾られた精悍な顔付きを僅かも変えずにいる。昨夜の出来事が夢か幻かと思わされるありさまだ。
「奇遇だな。お前も餡蜜が目当てか。」
入れ違いに甘味処に踏み込もうとしていた紺炉さんが、身体を横にずらして、手の甲で暖簾を上げてくれる。何時も何時も紺炉さんに褒めて貰いたくて手入れを欠かさなかったこの髪が引っ掛かってしまわぬように、何時もの通りに気を遣ってくれている。恋い焦がれた男のなりを崩さずにいる。私を置いてきぼりにして。
それが無性に憎らしかった。
「――私、人違いをしていないわよね。貴男、昨夜、女を一人フった覚えはないかしら。」
「あるな。あれは俺には勿体無ェ女だった。」
「いけしゃあしゃあと。よくも平然として顔を見せられたものね。」
「行き付けの店が同じなんだ。鉢合わせるのは仕方が無ェだろ。」
「せめて悪びれて縮こまって貰いたいと、女心がお願いしているのだけれど。」
「図体がデカくて悪う御座んした。」
一向に暖簾を潜って行かぬ私に代わって、何食わぬ物言いで背を丸めながら暖簾を潜って行ってしまおうとする紺炉さん。その、擦れ違いざま。火消し装束である法被の衿元を引っ掴む。私の行動は思わぬものだったのであろう。紺炉さんは反射的に身を引こうとしたが、フった男が憎ければ法被迄もが憎いもので、躊躇も遠慮も一切無い強引さでそばへと引っ張れた。落ち窪んだ眼窩の中心に灯る青い光に肉薄する。
「もう一度だけ言うわ。貴男が好きよ、紺炉さん。終生、私と添い遂げて頂戴。」
昨夜の焼き直し。二度目の一世一代の大告白。此度は胃腑を餡蜜で装ったのだから、吐息迄も甘く可愛らしかろう。声の大きさは、火消しの男顔負けで威勢が良くなってしまったようだけれど。
此所は浅草、祭り好きの浅草の町だ。甘味処の前を行き交っていた人波は途端に凪ぎ、降って湧いた見世物に視線で野次を浴びせ掛けて来る。構っていられなかった。形振りなんて構っていられなかった。そう言う子どもっぽさがお眼鏡に適わなかったのだと、それだけが由なのだと信じさせて欲しかった。
「女に恥はかかせられねェが――悪いな。わかってくれ。」
私の手を包み、静かな動作で頑なな拳を開かせる。その儘、慰めに握られもせずに手離されると。嗚呼、ほんとうにおしまいなのだ、と。飲み下してしまう、と。餡蜜の椀となった腑に、すとん、と。落ちていった。
「お前みたいな器量良し、男が放って置きやしねェよ。じきに他にいい男が見つかるだろうよ。」
たったいま私を突き放したばかりの手が、このひとの為に小綺麗にして来た頭の天辺にそうっと載せられる。ずうっと褒めてくれた手だ。長く纒を振るって来た為に皮の厚く、固く、それでいて優しくあたたかな大きな男のひとの手だ。熱の移らぬ内に退いてゆくそれに、追い縋る事はもう出来ない。
紺炉さんが、私を通り過ぎてゆく。
彼が開かせてくれた拳をふた度、握る。握り締める。
「――そう言って紺炉さんは放って置くじゃない、紺炉さんの馬鹿! 今のでほとほと愛想が尽きたわよ! もっと素敵な男性に嫁いでゆく私の晴れ姿を見て、精々口惜しがると良いわ!」
甘味処の奥へと進む紺炉さんの背中を目掛けて、暖簾を翻す勢いで以て啖呵を切る。「こいつァ、逃した魚はデカかったかも知れねェな。」だなんて応えは実に愉しげで、嬉しげで、私の成長を言祝ぐようで、まったく憎たらしい。
紺さんは相も変わらず浅草の初恋泥棒だねえ、お縄を掛けてくれる女は何時現れるんだか、この嬢ちゃんが色男をものにする方が早かろうなあ、違ェねェや!、これだけ別嬪さんでこれだけ度胸があったらなァ。何時の間にやら築かれていた人垣が口笛やら指笛やらでピュウピュウと囃し立てて来る。二度に亘り念入りに失恋した身には喧騒は煩わしいったらなく、未来を祝福する音だと思わなければやっていられない!
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