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火に焼かれてしまうその時に、少女の心の臓を貫くのは自分の手でなくてはならない。
夕日を浴びて燃え立つような朱に染まった頬が、紅丸に拳を握らせた。浅草火消しの見習いとして大人の男に混じって纏を振れども、未ださまにならず、手の平に出来たばかりの肉刺の潰れたのが痛んで疼く。拳を開く。日々の鍛錬の結実として、無用にも手刀を形作る。今は、無用と言うだけだ。
「なあに。火鉢さんに蹴られたところ、まだ痛むの?」
桃の実のように瑞々しくてはち切れんばかりに丸い少女の頬は、小首が傾げられるとふうわりと甘やかな匂いが香って来るとも思えた。紺炉の言うには、好いた女からは甘い匂いが聞こえて来て男は如何にも酔わされてしまうそうな。酒の許されていない齢の紅丸にはピンと来ぬ感覚ではあったが、余程好い心地であるとは、尤もらしく説いた紺炉の愉快げな面持ちから察せられた事であった。
これがそうで、少女こそが自分が好いた女なのか。紺炉程年を重ねればはっきりと答えが出せるのか。心の臓がとくりとくりと口早に訴え掛けて来る事は、未だ聞き取れない。それでも、大恩ある浅草の町に住まう人びとの生命を背負うと心に決めていても、紅丸は願いをかけずにはいられなかった。この少女の胸を貫く日は、何時か、何時か遠い日であれと。此所は太陽神の加護を拒みし浅草、糅てて加えて紅丸には信心の持ち合わせが無いのだから、祈る先は少女の天運しか無いのだが。
きょとんと無防備にしていた少女のかんばせが徐に顰められてゆく。静かなる願いを痛みに声無き悲鳴を上げていると誤解しつつあるのだとは、先程の稽古の最中に蹴られた腹へと下る気遣わしげな視線が物語っていた。慰めに甘えるかのように俄にじくじくと痛み出す腹を見せまいと、紅丸が腕を束ねる。
「あれくらい屁でもねェ。」
「痛むのならば無理に家まで送ってくれなくとも良いのよ。私、一人で帰れるわ。」
「痛くねェって言ってんだろ。それに、お前を一人で帰したら紺炉にどやされちまうんだよ。女一人で夜道を歩かせんな、ってな。」
「まだ夜じゃあないから大丈夫よ。」
「だったらこの辺りを散歩して夜を待つか。」
「屁理屈って言うのよ、それ。」
言葉を遮るようにして、呆れの溜息を吐き出そうとする少女の手を引っ掴む。紅丸と少女、二人の背丈を比べると少女の方が大人びて高いが、日頃から鍛練しているだけあって腕力は紅丸に余程分が有る。手を引いて、半ば強引に脇の小路に入ると少女は付いて来ざるを得ず――否。自ずから選んで付いて来たのだと、踏ん張る真似をせず、また踏鞴も踏まぬ確りとした足取りが明かしていた。もう幾らも男として成長を遂げた時にはその無警戒さを咎めたろうが、幼い紅丸はただただ、少女がそばに居てくれる事が堪らなく嬉しかった。大人達が祭りで御輿を担いでそうするように、熱に浮かされ、誇らしい気持ちで浅草じゅうを練り歩きたかった。
とは言えども、今はお天道様の顎先が地平につく夕刻。夜に成る迄と約束した手前、何所迄もとはいかない。適当な所で切り上げなければならず、咄嗟に逸れたこの小路には何があったかと、紅丸は真ん丸い頭を傾げて――
「――犬。」
「犬がいるの?」
「前にこの辺りで見た。目の周りが黒い、珍しい顔した犬だ。」
「可愛かった?」
「よくわかんねェ。でも、お前は気に入りそうだ。」
「見てみたい。」
「今はいるかわからねェぞ。もうじき夜になるからな。あいつらもさっさと家に帰っていてもおかしかねェ。」
「うん。それでも良いわ。紅と一緒にいる、それだけでも楽しいもの。」
少女の花脣から匂い立つ甘やかな笑い声は、小路に満ちる橙の光よりもずっとあたたかみを帯びている。ならば、男の意固地などいとも容易く溶かしてしまえるだろう。「そうか。」と。普段の打っ切ら棒な調子を取り繕おうとすれども、成熟の時を待つ紅丸の細い喉は裏返り、到底格好など付いたものではない。咳払いを為い為い、胸のなかの日溜まりに触れては言葉を選ぶ。
「俺もだ。お前といると腹に太陽でも飼ってるみてェな、悪くない心地がする。だから、紺炉から送れって言われてんのに惜しくて、こうして連れ回してる訳だが――」
「――うん。」
言葉に詰まろうとも肝心要な事はお見通し、と言った風なしみじみとした相槌。それは、紅丸と同じく調子を些か外していた。
夕焼けの小路を小さな影が二つ、時を惜しむようにしてゆっくりと歩みゆく。何時かの昼間に、紅丸が目の周りが黒い犬を見付けた地点が目視で確認出来る所に来ると、「紅。」。少女の喉が躊躇い勝ちに震えた。
「あのね。そう言う事を、あんまり、他の女の子に言っちゃ嫌、よ。」
「夢子にしか言わねェよ。」
堪えていたものがあふれ出たような、涙のこぼれるような必死な響きであったから、ばかりが理由ではない。紅丸の胸から口からすんなりと出て来た応えに、手が、強く握り返される。まるで炎でも掴んでいるかのように熱いものだから、紅丸は思わず振り返った。
其所に在りしは、赤。けれども焔の赤ではない。夕陽の照り返しの赤でもない。血のめぐりにめぐった赤だ。真っ赤っ赤に火照った頬に、きゅうと真一文字に結ばれた唇。紅丸には少女が如何にもつらそうに見えて、もしや具合が悪いのではないかと勘繰るなり身体が強張った。それも長くは続かず。少女は呆気無く唇を綻ばせると軽快に吹き出した。大きく笑う声が、黄昏に燦々とした光を散らす。
「紅ったら。それは口説き文句と言ってね、女の子に言って回ると、昔の紺炉さんみたいに大変な目に遭うんだからね。」
「紺炉みたいに、か。箔が付いて悪くねェな。」
「もう。馬鹿。」
少女の唇が素早くへの字に曲がり、つんと尖る。褒められない見栄の張り方をしたのだと気が付き、然りとて謝るとなると体裁が悪くて、紅丸は無言の儘で少女の手を握る力を強めた。振り払わないでくれと、我儘にも似た願いを籠めて歩き出す。目の周りが黒い犬が居ないとは気配の無い事から察知していたが、道を行けば行っただけ帰り道は長いものとなる。
何時かは別れる生だから、今は長く共に居たかった。
夕景にもうひと声、馬鹿、と言う呟きが溶ける。
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