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藍染めの暖簾を潜ると目に付いた、大きな男の人の履く大きな防火靴。皇国の特殊消防隊所属の消防官に支給されているそれは紺炉さんのものと同じ寸法をしていたが、得手勝手に散らばる草履の中で遠慮勝ちに三和土の隅に縮こまっている佇まいが実に客人らしい。「桜備さん、来ていますよね。」。丁度表に出るところであった若衆の一人を引きとめると、あァ、と親指で第七特殊消防詰所奥を指し示した。「第8が世話になってる礼に、って酒の差し入れにな。酒屋のおじきから一等の酒を融通して貰ったんだってさ。今は若と二人で大部屋に居るよ。俺も夜にはご相伴に与りたいもんだねェ。」。舌舐め擦りをして町の警邏に出る若衆を見送って、桜備さんが居るとされる大部屋の方へと目を向ける。商店街で出会した火縄さんから彼の人の行方を尋ねられた時には、此所に居るだなんて想像だにしなかった。――居る、と言うべきか、恐らくは捕まっているのだろうけれど。新門さんから、一杯だけ付き合え、とでも誘われて、一杯だけでは済まずにずるずると酒を酌み交わす事になってしまったのだろうと思う。新門さん、桜備さんの事を甚く気に入っているから。然れども、彼等は今や皇国のお尋ね者集団だ。此所こそは浅草の破壊王のお膝もととは言えども、幾ら経っても戻って来やしないとなると心配も募ろうもの。早く第8特殊消防隊のもとに身柄を返して、彼等を安心させてやらなければなるまい。
詰所の奥へと続く廊下を進む。脇に何枚もの襖が居並ぶが、部屋を間違える事は凡そない。彼方此方が補修された継ぎ接ぎ襖が表札代わりを務めるは、消防官達の集まって寝起きする部屋だ。そして、そのお隣。家の壊れた町人や鳶職達が食事や雑魚寝をする場として使われる大部屋から、今、聞こえる声は二人分。襖越しにも明らかな朗らかな響き。大隊長同士、込み入った話をしている訳ではなさそうだった。
「お取り込み中、失礼いたします。」
ひと声掛けてから襖を開ける。むわ、と。部屋に封じ込められていた聞き慣れぬ酒精が、大慌てで逃げ出すようにして廊下に雪崩れ込むのを肌で感じた。子どもをこの辺りに近付けたくないと憚りたくなる程、濃い酒気の霧が十重二十重に立ち込めた中心に、見慣れた恵比寿顔。それからその向かいに――私と言う闖入者の存在に光明を見出だしたかの如く、表情を綻ばせて安堵している桜備さんが居た。
新門さんの酒癖の悪さは無体を働く類いのものではないにせよ、取っ捕まって酒の席から帰れないとなれば迷惑千万だったろう。敷居を越えて、部屋の中心で胡座を組んで向かい合う二人に歩み寄ってゆく。
「桜備さん、火縄さんが探しておいででしたよ。今日はもうお開きにして――」
ちょいちょい。視界の端で手が振られる。ご陽気にもにこにこにっこり笑顔の新門さんが、こっちに来い、と私に向かって手招きをしていた。どれだけ酔おうとも口の減らないこのひとが、無言で、と来たのだから何事かと気遣わしくもなろう。琥珀色の液体を腹六分目迄おさめたコップが畳敷きに据えられるのを合図に、新門さんの両の手が空き、私は彼の間合いに踏み込み、桜備さんは「あ! やめた方が――!」と待ったを掛けた。忠告が途切れたのは時既に遅しと悟ったからなのだろうと、力強く腕を引かれた瞬間に気が付いた。ぬうっと伸びて来た手の狙い通りに、体勢を崩して倒れ込む。その先で待ち構える藍色の衣に咄嗟にしがみ付くところ迄織り込み済みなのだろうと、上手い事、新門さんの膝の間に納められた己の身体に思わされる。
そのべろんべろんの酔漢は、桜備さんの目があろうともお構い無しに、着物の帯の形がひしゃげようともお構い無しに、ぎゅうぎゅうと抱き締めて来る。首筋に掛かった吐息はそれはもう酒臭いったらない。
「新門さん、飲み過ぎです。身体に障りますよ。」
「ン――……。」
酩酊、と言う言葉がこれ程に似つかわしい声音が世にあるだろうか。酒を吸って薄紅色にぼけぼけと色付いた頬がうっそりと擦り寄る。七丁目にお住まいの御年九十を数える耄碌したお爺さんが見たって、深酔いしている、とはっきりと答えるに決まっているような在りさまだ。
辺りには酒瓶とコップのみで摘まみが見当たらなかったのは、夕食前だからとおかしな気を遣っての事か。空きっ腹に酒を掻っ食らうだなんて不養生はやめて欲しいと、日頃から小五月蝿いくらいに言っているのに。新門さんはまるで悪びれもせずに、膝の近くに置いた硝子のコップに夢中のようであった。無造作に引き寄せると、蜂蜜色をした甘露がとぷりと波打ち、薫香の飛沫を辺り一面に引っ掛ける。日本酒の趣とはまるで異なる、木や果物等の香りが幾重にも折り重なったような不思議なにおいだ。
「すみません。新門大隊長はウイスキーは初めてだと言っていたので、ペースに気を付けてはいたんですが……。」
「ういすきい、ですか。」
「日本酒やビールよりもアルコール度数が高い酒です。初めてであれば水割りか、せめて氷を入れて飲ませるべきでした。新門大隊長、「酒に水や氷を混ぜるなんざ邪道だ。」とストレートでぐいぐい飲んでしまって……。」
桜備さんの実に申し訳無さそうな声を背中で聞きながら、火消し装束を目一杯に引く。「こら、新門さん。」。少しきつく叱ろうとも、肩に載せられた頤は、こくり、こくり、と酒を含んでゆく。
「いや、しかし、新門大隊長は面白い酔い方をされますね。まさか褒め上戸だとは。酒の力で自分も他人も愉快にする、正に愉快王だ。」
――喉を潤し、舌を滑らかにする為に。
「だれが愉快王だ。――おい、桜備。夢子のことをどう思ってる。気だてがいい女だと思わねェか。」
琥珀酒の干されたコップが畳敷きに転がる。ゆうらゆらと覚束無い手は、ようやっとコップから離れるなり私の肩甲骨と肩甲骨の間をやんわりと叩いた。
え?なのか、は?なのか。兎角困惑を込めに込めた音がこの喉から小衝き出されようとも、よく知る声でよく知らない話し振りをする新門さんは止まらない。
「昔っから世話ずきでな、弱ってるやつがいればすぐに飛んでいっちまう。お前ェらの所にもちょくちょくでいりしてるんだ、気がきく女だってのはよォくわかってるだろ。けどな、それだけじゃねェ。こいつはな――、」
止まらない、止まって欲しい。息を継ぐ合間合間に火消し装束を引っ張り、背中をはたき、新門さんと強く名前を呼びとするが、その都度お転婆な猫でも宥めるかのように緩やかに背を撫でられ往なされてしまう。酔いどれでも流石は火消しの男。制止は無意味と悟って新門さんの腕の中から逃れ出そうとするも、まるで能わず。
「俺にはもったいないくらいのいい女だ。だがな、だれにも渡す気はねェんだよ。」
彼の膝の上で只菅に呂律の回らぬ寵愛を受ける事しか適わずにいる私を、桜備さんは一体全体如何様な顔で見守っているのだろう。考えただけで振り返る事が躊躇われるが、相槌の声音に愛想笑いは感じられず、心より微笑ましそうであった。この能天気な迄の朗らかさ、彼も段々と酔いが回って来ているようである。
前門のへべれけに後門のへべれけ、同じ部屋にいるならば飲まなければ損なのでは。新門さんと桜備さんの間に置かれたウイスキーの瓶は蓋の外された儘。花が芳しい香りで虫を惹き付けるように、素面を気取る人間は一人だって余さず蜜に溺れさせんと、したりと開いた口から媚香が醸し出されている。
――飲まなければ、呑まれなければ、やっていられない。
「まさか、蒸留酒だとそんな酔い方をするとはな。」
私に自棄を飲み込ませたのは、ほとほと呆れ果てていると言った風情の溜息だった。
すらりと開いた襖を見遣る。廊下に吊り下がった裸電球の電氣の光を背負う大きな男の人の姿が、今はぴかぴかの後光を背負った仏様に見えた。「紺炉さあん!」。先程の桜備さんも、私が登場した時には斯様な安堵を抱いたのであろうか。残念ながら酒に溺れる者の藁にはなれなかったが、此度、現れてくれたのは丈夫な頼みの綱だ。
紺炉さんは大部屋の酷い酒臭さに眉を顰めて、酷い光景に更にきつく眉を顰めて、此方に近付いて来るなり手早くウイスキーの瓶の口を塞いだ。
「ったく、こんなに飲んじまって。――桜備。第8から連絡があったぞ。うちの大隊長が行方不明だ、ってな。騒ぎになる前に早いところ帰ってやんな。」
「それは申し訳ない。すぐにお暇します。」
紺炉さんの一言が気付けとなったのか、俄に頭がしゃっきりした様子の桜備さんが慌ただしく立ち上がる。酒に漬かっても第8特殊消防隊の長たる身。心もとない赤らんだ目もととは裏腹に、たゆまぬ鍛練の賜物か足腰はよたよたになっておらず、礼をしても頭が揺れる事はなかった。
「お二人共。それでは、自分はここで失礼致します。後はご夫婦水入らずでゆっくり過ごしてください。」
「おう。そうさせてもらうとする。」
「おう、じゃあないでしょう。私達、今は未だそこまで進んだ仲ではありませんよ。」
「細けェこと言うな。だったら、明日にでも祝言をあげちまうか。なァ?」
ご機嫌に細められた目は据わっているが、新門さんの頭と言えば生まれ立ての赤子の首のように据わっていない。ぐわんぐわんとふらついている。
身体の中を暴れ回るアルコールがほどかせたものか、何時の間にか、私の腰を捕らえて離さずにいた腕がくたりと脱力している。今を措いてこの囲いから抜け出す機会はないだろうと、紺炉さんと桜備さんのお二人に付いて新門さんの膝から辞そうとする。が。
「俺は水を持って来る。夢子はそのまま若の相手をしていてくれ。部屋を出て若い衆に絡まれたら厄介だからな。」
紺炉さんは新門さんをひと睨みすると、これ以上飲ませてなるものかと最早空き瓶と言えそうなウイスキーの瓶を没収し、桜備さんを連れてさっさと大部屋を出て行ってしまった。
そう任されては追い縋る事は出来ない。換気の意図で開け放された儘の襖の影に隠れる立派な二つの影を、大人しく見送る事しか出来ない。見事に機を逸してがくりと項垂れる私を慰める為、では勿論ないだろうが、新門さんの手で優しくやさしく後ろ髪が梳かれる感覚は心地好かった。
「新門さん。」
「ン……?」
鼻に掛かった甘い声は鼓膜を蜜漬けにするよう。それは、閨以外では聴かない響きだった。夜毎覚えた反応を示そうとして、自然と身体の奥深くに情火が灯ろうとする。新門さんの顔付きを見るや否や、敢えなく掻き消された。酔いどれでも流石は火消しの男、と繰り返して良いものか。最強の消防官の名を冠する彼の炎よりも赫灼としたまなこは、熱が浮かせた涙の紗が掛けられてぼんやりとしている。ともすれば、具合が優れないようにも見えるのであった。
「新門さん、ご気分は悪くありませんか。」
「おまえが腕のなかにいるんだ。悪いなんてこたァねェよ。」
弛み切っていた二つのかいなが私の腰に纏わり、力が込め直される。ふた度ぎゅうぎゅうと抱き締められる。無遠慮であるのに、矢張り、痛みはない。
酒は人の本性を暴くと言う。なれば、何れだけ酔っていようともこわがれはすまい。このひとが、私を、力任せに抱く筈はないのだから。
芯にやさしさが根差した新門さんの、逞しい背中に手を回す。抵抗の一切を為す気の無い仕草を見せる私の肩口に、ぽすりと額が寄せられた。重荷とならぬ程度に凭れ掛かられる。甘えただ。可愛いったらない。ただ、絆されて背中をさする事はやめておいた。
「そこで吐いたりしないでくださいね。貴男のお酒の失敗、紺炉さんから確り聞いていますからね。」
二十二と言う年の若さ故か。新門さんがその博打の打ち方にも通じる向こう見ずな酒の飲み方をするのは、何も今日が初めての事ではない。楽しいだけでは終わらなかった酒の席の話を度々聞いているからこそ、飲み慣れない酒を鱈腹飲まれた今、彼の調子が悩ましい。
しかし、当の新門さんは聞いていやしない。ぐいぐいと肩に顔がうずめられる。首筋を擽る切り揃えられた黒髪の振る舞いは、幼子がいやいやをしているかのようにも感ぜられた。此所迄上機嫌であった声の調子が、一つ、落ちる。
「いまは俺と居ンだ。ほかの男の名前なんてよぶな。」
「妬く程の事ですか。相手は紺炉さんですよ。」
「紺炉だって男だろ。これだけできた女だったら、どんな男も放っておかねェ。」
だから取られないように、と。より一層の力を込めて抱き寄せられる。衣服の隔たりを越えて互いの熱が行き交い、熱くて熱くて、少しだけ苦しい。
「お前は俺の女だ。そうだろ。」
和やかに弧を描いた唇から作られたにしては、言葉は余りに強くて。これこそが普段は秘しているほんとうにおもうことであるならば、もっと強がって欲しかった。
酔っ払いに取り合うだなんて馬鹿げた事だが、ときめいてしまったのだから致し方あるまい。腕力は及ばない、それでも、想いは同じだけ込めた。火消し装束にひしと抱き付いて、最後の最後の一分の隙間を埋める。
「そうですよ。私には貴男だけです。」
小ッ恥ずかしい告白をしたところで、酒が抜けると共に忘れられてしまうやも知れないと言うのに。除け者にされたコップの底に薄く残されている、素直になる薬が気化して満ち満ちている、この部屋に居ては本音が転び出てしまって仕様がないのだ。
新門さんが微かに息を呑み、息を詰める。そうして解かれた息吹はほろ苦い、でも、こんなにも、甘い。
「好きだ。俺だってお前しか考えられねェ。離してくれといわれても離してやれねェくらい、それくらい惚れ込んでんだ。すきなんだよ、お前が。」
嬉しげ、楽しげ、喜ばしげ。一音一音がどれも陶酔し切った音色であった。
箍も羽目も纏めて外してしまったのか、滔々と、切々と、懇々と、思いの丈が説かれる。外したのは私なのだから因果応報と言うやつなのだろうが――耳もとでそうっと囁かれる幾つもの睦言は、鼓膜やら頭蓋の中やら背骨やらを甘痒く震わして、身体じゅうがじんとして来る。芯迄痺れはじめると愈以て耐えられなかった。何よりも、これから紺炉さんが冷や水を持って戻られるのだ。此所は新門さんと二人切りの床でもなしに、すっかり惚けたあられもないところなぞ見せられるものではない。
臆面もなく耳朶に吹き込まれてやまない愛情の籠った音。それを、唯一自由を得ている足をじたじたと鳴らして無茶苦茶にする。
「あの、もう、十二分にわかったので、勘弁してください。」
「まだ言いたりねェ。」
「私はいっぱいいっぱいです、壊れてしまいそうに。」
「ン……そうか。夢子を壊すわけにはいかねェな。大事な嫁さんだ。」
「お気遣い、ありがとうございます。」
序でに腕に込めた力を弛緩させてくれるのだから健気だ。
折角なので身動ぎをして、何とはなしに襖の向こうの板張りを眺める。方々から、夕餉の味噌汁のにおい、見廻りから帰って来た火消しの人達の足音、話し声に笑い声、生活のにぎやかさが空気に滲んで運ばれて来る。
不図、身体に掛けられた重みが弥増した。背にくっ付けた手の平から伝わるのは、呼吸が深く規則正しくなりゆく様子。夕時の平和が新門さんを微睡ませていた。
この分では夕餉は食べ損ねてしまうだろうなあ。それでも味噌汁は残っているだろう。後は紺炉さんの世話している漬け物と、おむすびでも拵えておけば良いか。斯様にもしあわせそうな寝入り端だ、これこそは幸福の重さだ。これから身体じゅうの筋肉が凝り固まろうとも望むところだった。
このひとに取り付いた睡魔を追い払ってしまわぬように、徐に伸し掛かって来る身体を何とか抱きとめている、と。夢うつつに、新門さん。
「なあ。」
「はい。」
「愛してる。」
「知っていますよ。」
ならいい、と言わんばかりにすこんと眠りに落ちてしまった。肩に伏せられている為に見えはしないが、愉快な恵比寿顔は安心し切って、きっと穏やかだ。
「私も、愛していますよ。」
こればかりは新門さんが目を覚ました時に、酔いを覚ました時に、目と目を合わして告げよう。酒の飲み方への小言もちょっぴり添えて。この甘くて甘くて如何しようもない失敗をこのひとが覚えているかは知れないけれど。
新門さんの頭がずり落ちてしまわないように身体の向きを整えていると、廊下の先から小さく板張りの軋む音が。紺炉さんが水差しを手にやって来る気配だった。
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