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所持金が足りなかったのは大きな誤算であった。漫画喫茶から追い出された後にやれる時間潰しと言えば、路地を歩く事くらいしかなかった。大通りから外れた細い裏道を拾い歩きする。悪い事はしていないが、パトカーの赤色灯に照らされるのは、今は気が引けたのだ。家を飛び出して来た身だからだろうか。理由は、と問われれば実に他愛無い。親との口論による短気である。ほとぼりが冷める迄、親が寝静まる迄は漫画喫茶で過ごそうと当て込んだものの、前述の通り。手持ちが二桁となった人間に、世間の風当たりは冷たい。反骨精神から、無料で出来る散歩なる文化は素晴らしい! と虚勢を張ってみたが、ものの数十分で飽き飽きしてしまった。今は夜。満遍無く暗い景色では変わり映えがしないのだから、当然である。
時間よ早く過ぎろ、と願いながらとぼとぼと歩いていると、差し掛かった公園の中から声がした。声とも言えない、呻き声、だった。酔っ払いであろうか。破落戸の喧嘩か。関わり合いたくないなあ。目を付けられていない内に、足早に横切ろうとする。どさり。何十キロと有る重たいものが地面に倒れ込む音。――明らかに異音であった。
足が竦んだ。逃げろ逃げろと本能が警鐘を乱打する。五月蝿い。今、そうする所だ。駆け出す。駆け出す、て如何やれば良いんだっけ? 右足を素速く出して、左足を素速く出して――でも、足音を立てたら見付からない? 恐怖に縛られた両足は意思を受け付けてくれず、無様に縺れてすってんころり。不味い、と思った時には遅かった。無意味な事だが、荒く浅いこの呼吸音が「誰彼」に聞こえぬように、手で口を塞ぐ。受け身を取った際に付着した砂がじゃりじゃりと唇を汚したが、そんな事、今は気にしていられなかった。
もしや、植え込みが死角となって見付からないのでは。そうであって欲しい。お願いだから、お願いいたします、神様。これ迄に意識して来なかった存在に祈り、縋ったけれども、こう言うものは普段から敬虔でなくては叶わないらしい。直ぐ様、かつりこつり、とヒールの音が此方へと迫って来た。
女の人かな。だったら、おそろしい事にはならないかな。
「あら。可愛らしい子羊ちゃんだこと。」
固く固く目を瞑って審判の時を待つ私に掛けられた声は、甘ったるい思考を肯定するかの様に優雅なものであった。
典雅な音色に撫でられた目蓋をそろそろと押し上げる。首を巡らせて背後を振り向こうとすると、それよりも先に顎を捕らえられた。肉の柔らかさは無い。骨で出来た台座に支えられた、と言った方が適当に思える質感であった。強引に頭を捩られて強制的に謁見させられる。
「今晩は。よい夜で何よりですわ。」
――そこには、うつくしい面貌をした女のひとが、居た。
茶髪に緑色のインナーカラーが施された髪は上品に巻かれていてうつくしい。目尻の穏やかそうな様がうつくしい。双つの翡翠を填め込んだかの様な瞳がうつくしい。ルージュが彩る花脣の形もうつくしい。
これだけのうつくしさがひとつ所に凝縮されているのだ。人、ではない事は、彼女の背の奥の奥の暗がりに伏している人間だったらしきモノを目に入れずとも、早々に察せられた。
「……貴女、少し変わっているわね。」
視線を気取られたのだろう。女のひとはくすくすと笑った。ルージュを引いた唇を隠して、気品の有る仕草で。その際に関節から、かち、ぎい、かちり、と微かな機械音が鳴るのが聞こえた気がした。気がした、だけである。気に留まる事が無かった。莞爾として笑う頬の、なんと白いこと。それは、以前、いずこかの博物館で見たビスクドールと同じ色のように思えた。その時は気味の悪さしか抱けなかったものだが、この白亜は、夜闇を蹴散らす風情の無いLEDライトの下で扇情的に映って、私の意識はそこに釘付けとなってしまったのだ。
「そこの人間――今となっては、死体、と言うのかしら。それは命乞いをして来たものですが、貴方は震える事も無いなんて。随分と大人しい子なのね。」
顎が解放される。それから嫋やかな手を伸べると、彼女は私の手を掴んで、吊り上げるかの様な力強さで立ち上がらせた。そうなると、木下闇に転がるそれの有り様がよくよく見えた。頭髪から色が抜けた、からからの生き物。ほんの少し前迄は人間として生きていたモノ。あれは、私だ。私の末路だ。
こんな時に浮かぶのは、喧嘩別れした親の顔でも、明日を約束した友人の顔でもなかった。忘れていた命乞いを為す。「あの。」。「ええ。」。艶やかに微笑む女のひとの瞳には温度と言う温度が宿っていなかった。二人を隔てていた植え込みをのろのろと越えて、うつくしき色硝子を真っ向から見詰める。
「死ぬ前に、一つだけ、お願いしても良いですか。」
如何せこれから死ぬるのだから、おそろしい事なんて有ろう筈も無かった。返答が紡がれるよりも早く、玉砕覚悟で一気呵成に攻め込む。
「せめて、キス、してください!」
「何を言い出すかと思えば。ええ、しましょう。」
「本当に、本当ですか!?」
「私達は粘膜の接触によって想い出を採取しますもの。そもそも、それこそが目的。お願いされずとも奪わせて頂きますわ。」
オモイデをサイシュする、と言う事が如何言う事なのかは一体全体不明だが、冥土の土産に欲しいものはその回答では無かった。
「だったら、私、これがファーストキスなので、優しくしてください。それ以外は望みません。」
頬に手を当てて、「……はあ。」と。要領を得ない、と言いたそうに吐息を漏らした女のひとは、続いて小首を傾げて胡乱気に私を眺めるのであった。
「ファーストキス。」
「はい。」
「それは、生命を剥奪される事よりも上位に位置する問題なの?」
「勿論。」
力を込めて断言する。
何せ、初物は縁起が良いものだ。一等大切なものと言っても過言では有るまい。それを斯様にもうつくしいひとに貰われ、且つ、目眩くばかりの陶酔を与えられたならば、あの世で閻魔様も羨むくらいの自慢のたねとなるであろう。
「矢っ張り貴女、少し――いえ、大変変わっていますわ!」
女のひとはご陽気に笑った。釣られて私も笑う。二人で声を黄色くして笑って、一頻り笑い合った所で、彼女がくるりと回った。ボリュームのあるスカートを摘まんで、翻す。踵を鋭く地に打ち下ろすと、劈く様な鋭い音が夜を裂いた。
これは、フラメンコ、だっただろうか。ザッピングしたテレビ番組で一目触れた程度の知識を探り当てる。
「私、性根の腐ったガリィとは違いますもの。」
腰に手が回され、引き寄せられる。邪魔が入る余地など無い程に密着していると言うのに、その手や瞳と同じく、一度の熱も感じられなかった。だとすれば、情熱のダンスと呼ばれるフラメンコを踊る熱は、いずこから来るのであろうか。
そっと頬に触れられ、顔を上向きにされる。獲物を捕らえて逃さないように、彼女が脚を絡み付けている様は、さぞかし色っぽいのだろう。傍目から見られないのが残念であった。それでも、この瞬間だけは翠の煌めきを独占出来ているのだから、差し引きはゼロと言うものだ。
「変わり者の貴女。最後の想い出は、飛び切り甘いものにしてあげましょう。」
白々しいLEDの屋外灯は、今や最期の舞台を浮かび上がらせるスポットライトのようだ。その下で彼女のルージュが私の唇に移ったならば、それはこの世界で一番の死化粧であろう。
甘やかに囁かれて、きたる恍惚に、目蓋を下ろす。
皆々様。先立つ不幸を――私にとってはふた度生まれ変わった幸福を、如何かお許しくだ
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