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日暮れ前の商店街には人の行き交いが絶えない。それは道々のみに言えた事ではなく、美味しげな油の匂いが手招く惣菜屋や、品物の鮮度と主人の愛想で客を引く肉屋や魚屋の店先こそ引きも切らなかった。その中でも盛況であるのが、青々とした野菜が店じゅうにあふれ、軒先にも所狭しと並んだ浅草の町一番の八百屋だ。旬を迎えた野菜を求める人びとが幾重にも波を作るが、其所にひょいと飛び込んだ女は、揉みくちゃにされる事もなく目当ての野菜を次々選び取ってゆく。遠目からでも手際の良さが知れた。
「よくあれだけの人の中を進んで行けるな……。」
「あいつは昔っからそそっかしくてな。今回みたいなへまをやらかす事はザラにあるんだ。だからと言っちゃなんだが、この時間の買い物はお手のものなんだろうよ。」
落ち窪んだ眼窩の翳りの中、紺炉の目蓋がそうっと下ろされるが、射し込んだ西日を避けての事でないとは竦められた双肩が物語っていた。八百屋の向かい。本日は既に店仕舞いをした床屋の店舗の端に身を寄せて、森羅は、大通りを小走りで過る若い主婦と思しき人影を何とはなしに目で追った。
ばたばたと、鬼事でもしているかのような大慌ての足取りであった。浅草の火消し達の世話を一手に請け負う、女中に似た働き振りをする女が、息急き切って勝手元から玄関に向かう。廊下で擦れ違った森羅には、一体何があったのか、尋ねるのは憚られたのだが――彼女に少し遅れて現れた紺炉の手に握られていた、財布と、武骨な大男には何所か似つかわしくない華やかな色柄の風呂敷が答えをくれた。察するに、夕餉の材料に不足があったのであろう。「荷物持ちなら俺がやりますよ。」「これくらい屁でもねェよ。働かざる者食うべからず、ってな。この儘だと食いっぱぐれちまう。」「俺だって新門大隊長に稽古をつけて貰うばかりで、第七に何も返せていません。荷物持ちくらいさせてください。」。
森羅が懸命に志願したのは、灰病を患う紺炉の体調を気遣っての事であり、もうひと欠片の理由は今、人波に攫われて八百屋の奥へと行ってしまった。
「なんか、意外ですね。しっかりした人にしか見えないのに。」
「シンラは今、十七だったか。それくらいの年頃は、年上ってだけで誰でもそう見えるもんだ。まあ、夢子の見栄っ張りが相当なモンってのもあるだろうが。」
「それって、無理をさせている、と言う事ですか。」
「見栄ってのはそうじゃねェ。――夢子は筋金入りの世話好きでな。若い衆の面倒が見たくてならねェんだよ。お前達にも頼りにされるように姉御肌を気取って……シンラとアーサーが来ると随分と楽しそうにしてるぜ。」
第8特殊消防隊の面々が浅草の町に初めて足を踏み入れた日の、夜。結果として町の復興に寄与したお陰で町民達に迎え入れられたからこそだろうが、その時から女は、皇国とは勝手が違うだろうと何くれとなく面倒を見てくれたものであった。森羅とアーサーが紅丸に稽古を付けて貰う事になってからも、衣食住、全てを賄ってくれたのは彼女で、世話好きの称号に恥じずに不馴れな寝巻の着付けを手伝ってくれさえした。近くに感じる吐息に緊張為い為い、森羅の面貌に暗闇では恐ろしかろう形相が浮かんでも、にっこりと笑い返して動じやしない、浅草の女性。年上の女性。何時しか憧れとなっていた、女性。怯まずに生傷を手当てしてくれるのも、何時だって彼女だった。つい先程迄みっちりとしごかれていた森羅の頬に貼られた湿布は新しく、すうすうとしている。だと言うのに、貼付する指先のほっそりした形を、「ご精が出ますね。」と優しく笑う顔を声を、思い返すだけで顔が火照る。
何か、恩返しがしたい。けれども、それだけではない。誰よりも一番はじめに駆け付けたくて、誰よりも一番に役に立ちたくて。森羅は、彼女の頭の天辺、着物の端をごった返す店から探し出す。熱心にそうしていたから、視線も熱を持ってしまっていたのか。人の頭と頭の隙間から不意に顔を覗かせた女は、直ぐさまに気が付いた様子で、目もとに微笑を宿して森羅を見返した。撃たれた胸が揺さぶられ、想いが、転び出る。
「綺麗な人、ですよね。」
「可愛い女だよ。」
頬が張られた心地がした。どっしりと落ち着いた声音は常と相変わらぬ響きであるのに、森羅の耳には如何してか威圧的に聞こえた。見えざる境界が其所に引かれていて、安易に踏み越えんとする者の胸に刃を擬するかのような。その一線がなにとなにを隔てているものかは知れない。
真意を尋ね掛ける為にも、森羅は顔を傾けて傍らの紺炉を仰ぎ見た。正面から顔を動かさずに、視線のみで応えられる。――目蓋を少し持ち上げただけであるのに、鯉口を切る、と言う表現が相応しく思えた。夕景に錦の如く輝く、橙の柔らかな光の帯が紗を掛けたところで、眼光の剣呑なさまは到底隠せるものではない。凄味のある青い光に息を呑む森羅に、紺炉が小さく顎を動かす。示したのは女の姿が見え隠れする八百屋の方だ。
「気があるのか。」
「気がある、って……?」
「惚れてるのかって訊いてんだ。」
瞬間的に頭に血が上る。火照る、などと言う言葉では利かぬ程の熱さを頬に感じながら、森羅は大いに狼狽えた。「惚れ、ッ!?」。素っ頓狂な大声が辺りに谺する。何事かと何人かの通行人が振り返ったが、動揺に酷く強張った笑顔を見るに付け、そそくさと立ち去った。彼等が商店街から出る頃、漸く、三日月を象った口が戦慄く。
「それは、その、夢子さんは綺麗だし、優しいし、いい匂いがするし――」
「はっきりしねェな。そんな成りじゃァあいつの旦那は務まらねェぞ。」
「旦那ァ!?」
「そんなに驚く事でも――そうか、皇国だとその年ではまだ祝言は挙げられねェんだったな。」
青瞳がひたと前を向く。店先から女の影を探しているのだとは、自分の行いを顧みればわかる事であった。
焚き付けているのか、と。森羅は高いところに在る横顔を胡散らしく見遣った。眉と眉の間には焦れったさを鑿にして穿った皺は刻まれてはいない。一文字の傷の走る鼻梁にも、肉の少ない頬にも、引き結ばれた唇にも負の感情は一片たりとも宿っていない。先に一瞬だけ感じた敵愾心めいたものだって、勘違いであったのではないかと思えて来るような――否。人波から女を捉えた、その眼差しが克明に告げている。
「紺炉中隊長も――」
「あァ。惚れてる。夢子には何をやっても惜しくはない。」
浅草に調査に訪れた日の当夜に目の当たりにした、捨て奸。しかし此度の紺炉の顔付きは、それとは異なる覚悟を定めて見えた。厳めしくきりりとしながらも慈しむ心が溢れてやまぬと言った眦の皺は、たった一人の彼女を映して描かれるものだ。
瞠目している森羅に向けて、あの夜、そうしたように拳が突き出される。
「これだけ頼り甲斐のある男が恋敵になるってんなら、俺もこれからは形振り構っていられねェな。」
「……望むところです。負けませんよ。」
口の端が徐に吊り上がってゆくが、緊張に引き攣っての事ではない。意図して勝ち気な笑みを形作ると、森羅も拳を固めて差し出した。ゴツリ、と合わせる。お互いに不敵に笑う顔を見合わせる――間は、それ程ありはしなかった。八百屋の庇の下で、女が、大きく手を振って二人を呼ばう。買い物を終え、風呂敷包みは丸々としてはち切れそうななりとなっていた。
夕日にも愛されているのか、日の名残に照らされてきらきらと光る、彼女のもとへ。森羅と紺炉は何方共なく惹かれていった。
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