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ゴールデン・レトリバーと言う犬をご存知だろうか。深い茶色をしたアーモンド型の目の留まった顔が何時だってぼんやりと笑っている、垂れた耳や長い金毛も合わせて、やわらかなものでしか出来ていない大きな犬だ。犬なのだから当然、尖った爪や牙を備えている筈なのだが、穏和な性格が獰猛さを丸め込んでしまって使われる事は滅多に無いらしい。至ってふわふわだ。なんと賢く優しき犬だろう。
私は図鑑で初めて見た時からこの犬が大好きなのだった。特殊消防隊に就いてからと言うもの、終の住まいに大きな庭付きの一戸建てを買い、ゴールデン・レトリバーと心穏やかに暮らす為の老後の資金を貯める事を目標としていた。だから、だから、クレームの一つや二つや三つや四つで挫けてはいられない、の、だが。
「こうも立て続けだと疲れる……。」
第8特殊消防教会の前を通ったのに消防官に挨拶されなかった出動要請の警報が騒音となっている建物が古びていて危なっかしい夜間のマッチボックスの駆動音が五月蝿いパトランプが眩しい無言無言無言――電話の受話器から飛び出して来る貴重なご意見はどれも鋭く尖ってばかりで、鼓膜を突き刺すだけでは飽き足らずに心の臓迄串刺しにした。冷や汗の浮いた額をデスクに預けて、午後はもうクレームが入りませんように、と机の下で合掌して祈る事しか出来ない。
「おい。飯は食ったのか。もう休憩終わるぞ。」
他にも出来る事はあったらしい。悄気た後頭部に落ちて来た威風堂々とした声の主に肩を跳ねさせて反応を示す、だとか。
森羅くんと二人、近くのファストフード店で昼食をテイクアウトして来たアーサー・ボイルくんは、お腹も膨れて元気いっぱいのようだった。事務作業が捗らずに生気を失わせていた、木乃伊のようであった午前の彼は最早見る影もない。艶々としている美貌を横目で見て、次に机上の時計を確かめる。今から食事を買いにゆく時間も気力体力もなかった。
「お腹、減らない。」
「生きていて腹が減らない事があるかよ。ほら、顔を上げろ。この騎士王が昼食を恵んでやる。」
ガサリ、と。重たそうに揺れる紙袋から油っぽいにおいが漏れて来る。これは、フライドポテト。それとハンバーガーと何か飲みもの――彼の選択だからきっとコーラだろう――が入っているのだろう。湯気と結露とで湿気った紙袋がデスクに置かれる。それからアーサーくんは私の傍らにちょこなんとしゃがみ込んで、じいっと此方の様子を窺った。待てを命じられた犬のようで愛嬌がある。黄金色の毛並み、大きな身体、活発な性格。疲弊した私の精神が、アーサーくんからゴールデン・レトリバーの要素を取り上げてゆく。合掌を解いた手がつい向かった先は、王より賜りし兵糧ではなかった。
「おい。騎士の頭を気安く撫でるな。」
「重々しい気持ちで撫でているから騎士道精神的にはセーフだよ。」
「ん? それなら良い、のか?」
頭が傾いても気にせずに、撫で、撫で、撫でり。わしゃわしゃと金の髪を掻き混ぜる。夢中になっている内に、何時しか身体の正面はデスクではなくアーサーくんを向いていた。
女性に跪く金髪碧眼の美少年。端から見れば彼の姿はそれこそ物語の中の忠誠を誓う騎士のように映るのだろう。けれども、私の目にはもうそうとしか見えなくなっていた。
「ゴールデン・レトリバー……。」
「誰だ、それは。俺はアーサー・ボイルだ。」
頬をもちもちと揉まれながら、じっとりとした半眼で見上げて来る。透き通った青の瞳の上に描かれた眉も僅かに寄せられている。陶器の肌に走る小さな罅のようなそれは、不機嫌の兆しに思えた。流石にやり過ぎたか。そろそろと手を引っ込めてゆく、と。寸分も離れていないところでアーサーくんの手が重なった。引き寄せられ、片方は頭へ、片方は頬へと導かれる。
「気が済んだら食えよ。腹が減っては戦は出来ないからな。」
「あ、ありがとう。」
珍しく言い違いをしていない。只、動揺に声が裏返ったのはその所為ではない。頬に触れている手から、彼の手が離れてくれないのだ。
飛びっきりのお気に入りの玩具を離したがらないゴールデン・レトリバー、と同じくらいの可愛いげが、人間のアーサー・ボイルくんにはある。金に縁取られた目蓋が心地良さそうにゆっくりと伏せられてゆくさまを見せられて、私には好きなものが増えたのであった。
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