jujutsu
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地下へ下ろうとする背高のっぽの後ろ姿を見掛けたので、用意されていたこれからの予定は全て取り消した。
自室に取って返して、箱買いしておいたポップコーンの袋を一つ、段ボール箱から取り出す。それを抱えて、お次は自動販売機へと駆けた。メタリックな赤いボディが刺激的なコカ・コーラの缶を、二つ、硬貨と引き換えに譲って貰う。そこからは走るのは厳禁だ。以前、高鳴る胸の鼓動に合わせた速度で疾駆したら、知らずに缶がシェイクされてしまっていたのだ。その所為でシアタールームのソファと床を、蝿取り紙よろしく、べたべたにしてしまった事を思い出す。あの時、悟さんは、どれだけ楽しみだったのだ、と香料の甘い匂いが立ち込める中で腹を抱えて笑っていたのだったか。いっそ不機嫌になってくれたならば気が楽であった、恥ずかしさで消え入りたくなる思い出だ。かぶりを振って蘇って来た羞恥を振り落としてから、競歩程度の速さで、地下への入り口を目指す。程無くして例の部屋に着いたが、矢張り、悟さんの姿は既に扉の内側に消えていた。後を追うべく、片腕にお供の数々を抱え、もう一方の手で床に設置された扉を持ち上げる。地下へと続く階段が現れた。この瞬間は何時も、童心が擽られる。秘密基地を発見した様でとてもわくわくするのだ。数段先からは暗がりとなっている。踏み外さないように、一歩一歩、慎重に階段を下る。前述の通りに粗忽な私ではあるが、放映が開始されている劇場へ――この場合は部屋へだが――入場する時の心得は有る。教え込まれた、とも言えるが。その為、この時ばかりは、自然と猫の如く足音を消して、息さえ潜めて移動するように心掛けているのだ。丸で、スパイ映画の中に飛び込んで、敵地に潜入しているかの様である。だとしたら、缶に纏わり付く結露が落ちた、この微かな音が命取りになるであろう。しかしながら此所はスクリーンの外である。警報が鳴り響く事も無く、無事に最後の一段を下り切る事が出来た。
その先に伸びる短い通路を灯り目掛けて進むと、地下室としては十二分な広さと調度品を備えた空間に出た。設えられたソファの背凭れの向こうに、オフモードの白い下ろし髪が見える。その奥には、古めかしくもモノクロの映画が映されたテレビ画面が在った。珍しい。派手な画面が炸裂する映画ばかりを観ている印象があったものだから、趣向の変わり様に新鮮さを覚えた。それと同時に。――これは、難易度が高い。一歩踏み込んだばかりだが、心許無い自分の忍耐力に既に不安しか抱けない事態であった。後込みする私を気付けるかの様に、画面の中の白黒の男が猛り吼える。そうだ、今回こそは。お陰で意を決する事が出来た。有り難う、名も知らぬ異国の紳士よ。
驚かそうと言う心算は無いが、集中の妨げにならぬように足運びに気を付ける。そうは言っても、防音設計に飽かせた大ボリュームでの鑑賞だ。普通に歩いても足音くらいは掻き消されるだろう。そっ、と。ソファに近付く。白皙の横顔は、真剣なのか見流しているのか、判断が難しい。サングラスで瞳が隠されているのだから尚更だ。身体の線を視線でなぞってみると、悟さんは行儀悪くもローテーブルに脚を乗せている。又である。テーブルはテーブルであって、足置きではないのだが。退かせる為に、態と踵の近くにコカ・コーラの缶を置く。素行の悪い二本の脚は、すんなりと降ろされた。突如として横合いから伸びて来た手であったろうが、それでも悟さんは微塵も動じない。態々こうして存在を主張せずとも、彼は疾っくに私の来訪を察知していた事だろう。気配を感じ取ったと言うのも有るだろうが、ここ最近、悟さんが映画を観る際には、殆ど欠かさずに同席させて貰っている。今日も来るだろうと予想していたに違いなかった。論拠となるその回数は最早、恒例、とさえ言えるものとなっている。そしてそれは、彼の日常に入り込めたようにも思えて、何所となく胸の内側がむず痒くなるのであった。
画面の中の場面が転換する。単色の先程の男と見知らぬ女が、束の間の逢瀬を睦まじく楽しんでいる様子が映し出された。何と言う映画なのだろう。棒立ちの儘、卓上に投げ出されたパッケージへと視線を向けようとした所で。画面から目を離さない悟さんが、肩幅程に開いた脚の間をぽんぽんと叩いたのを捉えた。此所に座れ、と言う意味だろう。幾度となく示された合図である。ポップコーンの袋を携えて、ちょこなんと納まりにゆく。直ぐ様、シートベルト宛らに腹に腕が回された。苦しくはなく、しかし、弛くもない拘束。
本日の予定を全てキャンセルした私は、これから映画鑑賞に挑む。悟さんの抱き枕役も兼ねて。
じっとしているのが苦手な私に、そんなに困っているならば一緒に映画を観よう、と提案して来たのは悟さんの方であった。最初の頃は、二時間弱も動かずにいるのは苦痛以外の何ものでも無かった。だが、荒療治の一環、なのだろうか。そわそわする度に手を握られ、肩を抱き竦められた。そうして都度、動きを封じられる内に、次第に落ち着いてひと所にとどまれるようになったのである。問題は、代わりに、何故か映画の途中で眠り込んでしまう体質となってしまった事だが。特別授業らしき映画鑑賞会は改善を以て切り上げられたが、次なる障害であるお邪魔虫の睡魔を撃退したい私は、自らに修行を課した。兎に角、数を熟して眠気に慣れよう、と。以降、私は、悟さんがシアタールームに向かう姿を見掛ける度に、手土産持参で後を追うようになったのだ。
あの時から同席の許しを得る為にポップコーンを箱買いするようになったんだよなあ、と、預けた背中に彼の体温を移しながら、しみじみとポップコーンの袋を開ける。途端、逸早く侵入された。悟さんの指先が、二、三粒を袋から摘まみ出す。ぽぽい、と放る様にしてその口に納め、咀嚼し、嚥下し、そして、一段落ついた所で私の頭頂に顎が乗せられた。暫くして、ふた度、手が浮こうとする。私は彼が取り易いように、袋の口の角度を変えるのであった。
正直な所、この人の挙動の一つ一つから機微を感じ取る事の方が、ディスプレイの中で繰り広げられるどんな喜劇を眺めるよりも楽しかった。画面の中の登場人物達が演じる切った張ったの大立ち回りや、涙誘う愁嘆場や、頬が熱くなるラブロマンスよりも、彼へと気が向いてしまうのだ。何時からか、映画を観る為に悟さんと居るのではなく、悟さんと居たいが為に映画を観ている、だなんて。斯様な本末転倒を知られたら、呆れられるだろうか。目の前では真っ赤な缶が、冷たい汗を浮かせては流している。思わず自分に重ねてしまいそうな心持ちだが、きっと、錯覚だ。悟さんの事だから、「知ってるって。」と。「だって君、僕の事大好きじゃん。」と事も無げに笑うのだろう。
そう考えている間にも、不図、目蓋が重たくなって来た。視覚から聴覚から、映画は私を眠りへと堕落させようとする。モノクロの画面は砂嵐の様に、喧騒は潮騒の様に。それだけではない。背中から伝わるぬくもりが、眠気の台頭に一役も二役も買っているのだ。今や慣れ親しむ事となった彼の体温は、安堵ばかりを私の中に満たす。嗚呼、眠い。その隙を狙って忍び込んだ睡魔に唆されて、欠伸を一つ。は、として直ぐに噛み潰そうとするが、時既に遅し。悟さんの片手が持ち上げられた。私の頭に乗せられる。一撫でされた。寝ても良い、と言葉無く告げているその手付きは、克己が叶わないこの悔恨すら宥めてしまうのであった。何時も睡魔に屈してばかりで、映画を最後迄観る事が叶わない。共に同じものを鑑賞する相手とするには、詰まらない事この上無いだろう。それでも、此所に居る事を許してくれる。それはとても幸福な事のように思えるのであった。だから、ついついその手に甘えたくなってしまう。何時迄もそれでは格好が付かないのだが。せめて、自室のポップコーンの在庫が最後の一つになる頃には――ならば今日は――。
悟さんの腕の中で、体勢を変えるべく身動ぎをする。身体を捻って、脚をソファへと上げる。横向きになって、側頭部を彼の胸へと預けた。衣服越しに穏やかな心音が聞こえる。最後に、と横目で窺ったモノクロの世界の中では、男達の間で命の遣り取りが、駆け引きが行われようとしていた。彼等の張り詰めた緊張を他所に、私は地上で最も安全な膝の上で、ゆうるりと目蓋を下ろす優越を味わう。とく、とく。鼓膜から全身に染み渡る、子守唄の様なそれが心地好くて。抱えていたポップコーンの袋が取り去られた感覚が、意識のおしまい。私は気持ちよく、これまでのように。とろとろと夢の中へと蕩けてゆくのであった。
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五条がこの映画を鑑賞するのは、これが二度目であった。故に銃撃戦が繰り広げられるシーンが訪れる時間にも察しはついていた。画面の中の男の内、一人が、スーツのジャケットの内側に手を差し込む。一片の不安も持ち得ていなさそうな寝顔を浮かべる、健やかなる彼女。その小振りな片耳を手で塞ぐ。そうして頭を抱き抱えるようにすると、五条は自分の胸へと押し付けた。ばん、ばん、ばん!と実際の発砲音にも負けぬ大音量が室内に弾ける。だが、弾丸の一つも彼女の夢の中には届かなかったのだろう。すっかり預けられた小さな身体は、白河夜船。魘される事もなく、規則正しい寝息を漏らし続けている。銃弾から安眠を守った腕を解いて、下ろし様、手櫛で彼女の髪を梳く。その指先にはいとしさが込められているかの様であった。映画が終わったら、この儘彼女を抱き枕にして一眠りしようか。五条はそう思い付くと、平和そのものの体温を腕の中に感じながら、傍らに置いたポップコーンの袋の中を探るのであった。
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