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調子の悪い日と言うものは誰にでもあるもので、如何やら、本日の持ち回りは私であったようだ。
「あー……死にたい……。」
死ねないけれど。独り言ちて、最後の抵抗として海を橙に焼く夕陽をぼんやりと眺める。肉体は扨措き、精神の方は死から免れる事がない。じり貧となった時、私は何時も此所に来るのであった。UQホルダー構成員の居住区の一画に在る、建物の屋根の上。見晴らしが良い割りに下からは死角になっているので、こうして膝を抱えて打ち拉がれていても見付かり難いのである。
「……追い出されたら如何しよう……。」
屋根瓦に下ろした尻は冷え切り、硬さに負けてじわりじわりと痛み始めたけれども、罰だと思えば耐えられた。だが、頭を締め付けるこの懊悩は、幾ら自分を罰した所で微塵も弛む事はない。
今日の私は絶不調と言って良かった。凡ミスから食事の配膳先を間違え、お客様の御呼び出しに気付かずに素通りし、果ては素っ転んだ先にいらっしゃった上客の娘さんのお召し物を――咄嗟にとは言えども――引っ掴み、有ろう事かびりりと破いてしまった。無垢な肌を晒して蹲る、年端も行かない御息女の小さな背中と絹を裂く様な悲鳴は、時が経った今、思い出しても、歯の根が噛み合わない程に身震いしてしまう。騒ぎを聞き付けて、真壁先輩が忽ち遣って来ては御客様方を取り成してくれたが、「今日はもう部屋に戻れ。」と。「雪姫様には僕の方から報告しておくよ。」と。固い表情で告げられたそれは、最後通牒の様に反響した。
不死者と言えども、私を死から遠ざけるそれは余りにも脆弱なものである。優れた膂力も無く、秀でた能力も無く、不死狩りなんぞに目を付けられでもしたら、それこそ三秒と保たないだろう。逃げ足だけが取り柄の、臆病な生き物。それが私であった。それでも、此所で働かせて貰ってからと言うもの、同じ境遇の仲間が出来た。毎日が煌めいているかの様に楽しかった。物音一つに怯えて、孤独に逃走してばかりであった以前の生活の仕方が、今はもう思い出せそうに無い程だ。今の生活から離れ難い。離れたくない。であれば、今からでも雪姫様に許しを乞いにゆくのが賢明な遣り方である。そう思う。思うのだが。もしも、を考えると足が竦んで動けなくなる。忘れている筈の昔のように、逃げ出したくて膝が震えて来るのだ。
「いっそ死にたい……。」
もう一度、口を衝いて出る。すると、瞳が涙に溺れ始めた。如何せならば、入水するこの夕陽の様に、泡と消えてしまえないものだろうか。人魚姫ではないから無理か。
とっぷりと沈んでいると、ことり、と。微かに硬質な音が差し込まれた。誰彼来でもしたのか。ぎょっとして音がした方向を振り返ったが、人影は伸びていやしなかった。過敏になった神経が齎した気の所為か。そう思いきや、其所には、こんな所に自然と在る筈の無い代物が、こぢんまりとだがはっきりと存在を主張していた。
「缶……ミルクティー……?」
そう。缶に入ったミルクティーであった。結露も少ないそれは、手に取ってみるときりりとよく冷えていた。丸で、たった今、自動販売機なり店なりから取り出したばかりの様な――はっとして、屋根の端迄急いでゆく。身を乗り出して眼下を覗き込むと、矢張り、居た。徐に遠くなってゆくコンビニの店員服の背中を目掛けて、その名前を呼ばう。
「甚兵衛さん!」
尻尾の様に揺れる髪の束を踊らせて此方を振り仰いだその人――甚兵衛さんの顔は、遠目からでもばつが悪そうに見えた。躊躇せずに屋根から飛び降りる。着地点から彼迄はやや距離が在ったので、逃げ足の速さを転用して一息に駆ける。「おー。速ぇ速ぇ。」と口端を上げて、甚兵衛さんは静かに笑った。その穏やかな顔の前に、「これ。」と件の缶を差し出す。
「これ、甚兵衛さんがくれたものですよね。」
「バレちゃあ格好付かねえなあ。」
十中八九所か、十中十の確率でイレカエの技を用いたのであろう。下がった眉が、やれやれ、とでも言っているかの様であった。
「あの……有り難う御座います。」
「――その礼と言ったら何なんだが、ちょっと付き合ってくれない?」
「目の腫れが引いたらで良いからよ。」と缶を指して甚兵衛さんは続けた。これで冷やしておけ、と言う事だろうか。示された通りに一先ずは片目に当てる。ひやりとした温度が、熱を帯びた目蓋に心地好かった。失礼に当たるかもしれないが、その間抜けな格好の儘、尋ねる。
「付き合う、とは……一体、何所へでしょうか。」
「雪姫のとこ。」
さらりと告げられた言葉に、瞳孔が開いたのがわかった。思わず唇を引き結んでしまう。それは、如何言った都合でだろうか。先程、己が演じた失態に次ぐ失態が、頭の中をどたばたと駆け巡ってゆく。さ、と音を立てて、ふた度、血の気が引いた。「な、何故……。」。今しも缶を取り落としそうに戦慄く私を一瞥すると、しかし、甚兵衛さんは気楽な様でひらひらと手を振ってみせた。
「実は、ここだけの話、ちょーっとばっかしやらかしちまってな。」
「へ……? あ、はい……?」
「謝りに行くにしても、下手したら雪姫に殺されかねねぇ。まあ、要するにビビッてんだよ。だから付き添って貰いたいって訳だ。扉の前――いや、廊下の角迄で構わないから。な?」
飄々と翻していた手を顔の前で立てて、頼む、と片目を瞑る甚兵衛さん。
「……あの……。」
「ん? やっぱ嫌?」
「ち、違います。そうではなくて――」
腕を下ろし、目蓋の熱を取っていた手中の缶へと視線を落とす。――こわい。立ち向かいたくない。こわい。向き合いたくない。こわい。逃げたい。こわい。それでも、此所から離れなければならない事の方がおそろしいし、彼からの気遣いを無為にしてしまう自分になる事の方が、嫌であった。己を鼓舞する為に、祈る様に缶を両手で包み込む。その冷たさが、私に一歩を踏み出す勇気をくれた。未だ腫れの引き切らぬ、みっともない二つの目で、私は真っ直ぐに甚兵衛さんを見詰める。
「私も雪姫様に謝らなくてはならない事があるんです。此方こそ付いて来て頂いても良いでしょうか。」
捲し立てる様な早口で言って、勢いを殺さずに頭を下げる。すんなりと言葉が出て来た事に、自分でも驚きが隠せなかった。今から既にばくばくと大騒ぎしている心臓の音が、聞こえでもしてしまったのだろうか。そ、と後頭部に手が置かれた。煙草のにおいを纏ったそれが、宥めるかの様に優しく髪を撫でてくれる。
「お前さん、逃げ足だけが取り柄だって言っていたのになあ。」
よもや、試したのだろうか。そう過りもしたが、邪推をした事が申し訳無くなるくらいに、その声色は何所迄も何所迄も慈しみ深いものであった。きっと、扉の前迄でも廊下の角迄でも甚兵衛さんは許してくれただろう。共をせずとも笑って流してくれすらしたやも知れない。そもそも、「やらかしてしまった」と言う失敗も――否、それを追及するのは野暮と言うものなのだろう。
「よしっ! じゃあ一緒に絞られに行くとするか!」
今度は恐怖だけが理由ではない。確かな武者震いをしている膝を握り締めて奮い立たせていると、ぽん、と頭を一撫でされた。不思議と、ふっ、と気分が軽くなった。顔を上げる。我が事の様に誇らしそうな甚兵衛さんの顔が、落陽の残光に照らされていた。
「マジでヤバそうな時は頼むぜ、相棒。」
「ぜ、善処します……。私の時も、如何か、よろしくお願いいたします。」
「あー……ま、善処するわ。」
首筋を摩りながら、苦み走った笑みを頬に乗せる甚兵衛さん。爪の先程の天辺のみを水平線から覗かせる夕陽に見送られて、私達は、雪姫様の部屋へと肩を並べてゆっくりと歩き始めた。
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