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「三丁目の角の飲み屋に狸がいるだろ。」
臍のある辺りの真ん前に平手を持って行って、これくらいの、とご丁寧にもくだんの居酒屋の名物である狸の置物の大きさを示してくれる。
へェ、なんて生返事も生返事から間を置かずして寄越された言葉がこれだ。藪から出て来た蛇ならぬ狸の正体が見破れないで、私は大人しく頷くしかなかった。何故、狸。先ず浮かんで来るのは、風船のようにぷっくりと膨らんだよくよく肥えた腹、だが――もしや、と訝る顔を差し向けると、手を懐へと納めた紅丸は至って平然と言い放った。
「アイツだって愛嬌あるじゃねェか。少しくらい肉がつこうが悪くねェと思うがな。」
「流石にあそこまで出ていないわよ!」
怒号にさっさと背を向けて、紅丸が歩き出す。片手に提げられた風呂敷包みが揺れるさまが、早く此方に来い、と手招きをしているかのようだ。追いかける前に一度だけ下腹をさすったのは、何も立腹を宥める為ではない。
「今はあそこまで太ってはいないけれども、何時かはあの狸みたいになるのかしら。」
「さてな。――そう言や、この後、何かあるか。」
「家に帰るくらいよ。何か用事でもあるの?」
「詰所に寄ってけ。ババァの大福、まだ山程あんだよ。それと、紺炉が土産買って来たからついでに食ってけ。」
「右肩上がりな体重に悩まされている、って打ち明けたばかりの女に掛ける言葉とは思えないわね。」
「なんだ。食ってかねェのか。」
「……ちょっと、考えさせて、頂戴。」
それと言うのもこれと言うのも、菓子三昧な日々が続いた事にある、と見ている。お婆さんお手製のお大福を貰う毎に横流しにして来る紅丸は変わらずだが、一番の問題は、最近になって懇意にするようになった第8特殊消防隊――に赴く度に其所に所属する女の子達から甘味を紹介されて帰って来る、紺炉さんの方にあった。浅草に戻った彼の手には毎回、皇国のお菓子の入った紙袋が提げられているのだ。
聞くところによると、皇国のお菓子は格別に美味しい代わりに、かろりい、と言うものがふんだんに使われていて、それはうかうかしていると贅肉として身体に蓄えられてしまうらしい。そして私はうかうかしてしまった。
「紅丸。荷物、何か持とうか。」
「いらねェ。」
隣に並ぶ彼に尋ねたのは純粋な善意からであり、少しでも筋肉を使う事でかろりいを燃やしてやって、これ以上狸に近付かぬように努める為でもある。しかし双方に利の有る提案は、一瞥も無く、膠も無く断られてしまった。とは言えども。
「千手観音様じゃあないんだから、それ、全部を持つのは無理でしょう。」
目線で風呂敷包みを指す。ひい、ふう、みい、よ。数え上げると、垂れた眉の根が寄った。片手を僅かばかり持ち上げたのは頭でも掻こうとしての事か。けれども幾つもの大きな風呂敷包みによって邪魔をされ、叶わないと悟ると、決まりが悪そうに下ろされた。
表通りを少し行くだけで、紅丸の両手には何時だって、手品のようにして野菜やら惣菜やらが集まって来るのだ。彼の人望の為せる御業なのか、将又、浅草の小母様方の強引さとは最強の火消しをもたじろがせるものなのか。ほんの一寸前迄は空いていた手にも、ヒカゲとヒナタにと持たされたのであろう、今や菓子が隙無く握らされているのであった。じ、とその拳を見詰める私。蒼天を睨む紅丸。
「じゃあ、これ持ってろ。」
如何にも、渋々、と言った様子で以て一本の棒付き飴が胸の前に差し出された。真ん丸い鼈甲は日を浴びてきらきらと煌めき、飴色の光を振り撒いて、お日様の子分のような有りさまだ。
「盗られねェように腹の中にでもしまっとけ。」
先程の視線はもの欲しそうなそれだと思われたに違いなかった。
「しまったら狸に一歩、近付くんですけれど。」
「今更変わりゃァしねェよ。飴一つきりで。」
「高が飴一つ、なんて、ここで自分を甘やかしたらだらだらと甘え続けてしまうじゃない。」
だが、言い出した手前、受け取らざるを得ない。
此方も負けじと、渋々、と言った調子を出して飴を手に取る。かつり、と。ご高説を送り出したばかりの前歯に、固く、軽く、甘いものがぶつかった。口の中を焦がされた砂糖の香と甘味とが瞬く間に席巻する。何かがおかしい、と違和感が頭の中を駆ける。何故、棒付き飴を握り込んだ私の手が直ぐ眼下に――口もとに望めるのか。
紅丸が頭を傾けて此方を見るので、は、と訳に気が付いた。
「御大層なこと言っといて食ってんじゃねェか。」
「つい……。だって……。つい……。」
飴で蓋しても言い訳擬きは次々とこぼれゆく。
なんと意志の弱い事だろう。甘味の誘惑から逃れられずに、私はこの儘、脂肪の層を蓄積させ続けるのであろうか。
身体に先んじて随分と重たくなった心が足取りにあらわれた。引き摺るように進んでいたが、何時しか止まっていたらしい。二歩、三歩、と先を行った所で紅丸が振り返る。彼に追い付く為に足を踏み出すよりも早くに、ずかずかと距離を詰められる事となった。――そうして。
「な、なに、!?」
荷物をいっしょくたに片手で引き受けて、紅丸は空にした片手だけで私を抱え上げてしまった。
唐突に足裏が地から離されれば慌てふためきもするだろう。泡を食って彼の肩に取り縋ったが、「落とさねェよ。」と。その言葉の通りに、両の大腿の裏に回された腕の力は全く揺るぎのないものであった。だからこそ身体に張り詰めた緊張は直ぐにほどかれたのだが、見上げて来る赤色の鮮やかさに、今度は視線が縛られる。
「お前一人抱えてやれねェほど、俺はヤワな男に見えるか?」
我儘の叶えられない子どものように拗ねた風でも、矜持に傷を受けて怒った風でもない。ただただ真剣に、真っ直ぐに信頼の是非を問い掛けられた。答えは決まり切っているのだから、躊躇い無く首を横に振れる。
紅丸は私の仕草を見届けてから、ほんの小さく口の端を持ち上げて、感情を其所にのせた。
「じゃァ良いじゃねェか。好きなもの食って、笑ってな。お前は般若みてェな面よりも、そっちの方がよっぽど似合う。」
すとん、と。地面に身柄を返した手が軽やかに翻って、私の眉間を撫でてゆく。
そんなに酷い顔をしていただろうか。彼の指先のぬくもりの残りに触れて、確かに縦皺が鎮座御座しているのにも触れると、気恥ずかしくて堪らない心地になる。
眉間に凝る意固地をほぐしてほぐして、齧りかけの飴の天辺を舌先へと当てる。甘い。美味しい。美味しいと、うれしい。強張っていた口角が自然と柔らかくなるのを感じる。
「紺炉さんのお土産、楽しみ。」
「おう。」
「お婆さんのお大福も食べたい。」
「助かる。」
「けれども付いた贅肉は消し去りたいから、明日も、明後日も、ずっと散歩に付き合わせて頂戴。」
「好きにしな。」
そう言うと紅丸は風呂敷包みを抱え直して、詰所へと歩き出す。その背に付いて、鼈甲飴をちろりともうひと舐め。甘い。けれども、この男の甘やかしの方がもっともっと甘ったるい。それこそ、逃れようなんて考えも能わない、一つ含めば虜とする劇薬のように。
この恋心は肥ゆるばかりで、一生付き合ってゆかなければならないのだろうなあ。独り言つ私の耳が外に向いた時、方々から囃し立てる様々な声でやっと、此所が往来のど真ん中であったと思い至るのであった。
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