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坂本くんが、好きだ。
手違いで肉の器を得てしまった死神のような彼が好きだ。何リットルの返り血を浴びようとも血のあたたかさを知らない彼が好きだ。私は、彼の心臓に熱を送り込む鞴になりたかった。
下水道に住まう鼠とて例外ではなく、JCCに籍を置いていて彼等を知らぬ者はなかった。坂本、南雲、赤尾。この三人は一人一人が優秀で、やんちゃで、だからこそ同調したのか常に行動を共にしていた。だったら私もせめて優秀にならなければ、と奮起したのは、偏に彼が好きだからだ。坂本くんに言葉が届く距離に行きたくて、彼等の輪に入るべく、私は日々たゆまずに腕を磨いた。来る日も来る日も人を殺す事を考えていると、私、坂本くんのほんとうの理解者に成れるんじゃあないか、なんて烏滸がましい期待に胸がどきどきとする夜もあった。彼の心臓も、何時か、同じ音を響かせて欲しかった。軈て結果はあらわれた。射撃演習では坂本くんと最高記録の更新を競う仲になった。変装術では南雲くんと二人で教師に舌を巻かせた。近接格闘演習では赤尾さんに肉薄した。
それでも四にはなれなかった。
それどころか二になってしまった。
遂には一と一になるらしい。
坂本くんが、恋を、したから。
相手はコンビニエンス・ストアの店員だとは、南雲くんが耳打ちして来た情報であった。坂本くんが、恋。彼の訃報を聞くよりも信じ難い。でも、それを見とめてしまっては仕方が無い。久方振りにまみえた瞳に、頬に、生気の光が灯っている。穏やかな愛の光だ。感情で動かされない表情は、今、ぎこちなく起伏を見せようとしている。わかるよ、ずっと目で追っていたんだもの。
「今、良いか。」
初めて、初めて坂本くんから声を掛けられた。言葉が届く距離に来てくれた彼に、返事をするどころか首肯一つする事も忘れて立ち尽くす。そう言えば、此所は殺連関東支部の廊下だった、と、如何にも邪魔そうに私を避けて通って行った戦闘員らしい男性の存在で思い出す。
坂本くんは人波も、茫然とする私も意に介さない。世界に二人だけしか――彼と恋した女性の二人だけしかいないかのようだった。
「何の花が好きだ。」
「どうして私に訊くの。」
「笑った顔が彼女と似ているから。好みも近いんじゃないかと思ってな。」
――それは、その人も貴男が好き、って事だよ。私が貴男を好きなように。
学生の頃からどんなに卓抜した殺しの技術を持っていても、坂本くん、ハニートラップの演習はからっきしだった。それにしても、女心がわからないにも程がある。
銃口なんて怖くはないが、このひとの射るように真っ直ぐに向けられる瞳は心臓に命中するから、おそろしい。だから、今、殺して欲しがったのかも知れない。
「好きだよ。」
「? 何がだ。聞き取れなかった。」
「定番は薔薇じゃあないかな。」
「そうか。ありがとう。」
用件を済ませると、坂本くんはあっさりと踵を返して玄関口に向かってゆく。坂本くんに憧れてからずっと望んでいた、言葉の届く距離。其所に辿り着いて彼から貰ったものが、ありがとう、とは。貴男に捧げた恋心をまるごと報うような一言ではないか。
「後、追わなくて良いの?」
背後に気配、頭上から声、振り返ればスーツの黒が視界を染めた。「南雲くん。」と、じいっと前を――坂本くんの行く末を見据えている彼を振り仰ぐ。何時もの心情の読めない無表情じみた笑みは、今、この時にあっては削がれていた。真剣な顔付きで廊下の先を指す、刺青だらけの手。
「先回りして坂本くんが好きな子を殺して成り代わる、とか。しないの?」
「しないよ。一目で見破られるだろうし、人を殺す技能で恋は叶えられない。」
「恋に恋しているロマンチストだ~。」
「恋に恋して、失恋を身を以て知ったからリアリストの言だと思う。」
「お疲れ様~。慰めてあげようか。」
「傷の舐め合いのお誘い?」
「僕はノーダメだよ~、男の友情は永遠だから~。」
「嘘つき。さみしいくせに。」
曲がりなりにも殺し屋ランキングにも入っている私が南雲くんに背後を取らせたのは、恋心に手傷を負って不覚を取ったからではない。この傷と似た傷が付く事になる彼だから背中を許したのだ。南雲くんが、笑う。男友達の結婚披露宴で余興をするようなにぎやかしの顔、を模しているだけだった。
「坂本くん、あの様子だと殺し屋を引退しちゃうかも知れないね。」
「するだろうね~。」
「そうしたら、南雲くん、殺しに行くの?」
「さぁ~。依頼次第かな~。君は、殺しに行きたい?」
「行かない。人間の坂本くんは、天国でも地獄でもなく、人間にしたひとの所に在るのが正しい。」
「執着心が無いな~。」
「手の届く場所にいないから。どれだけ努力しても、どれだけ優秀と言われても、君達を遠くに感じているからかも知れない。」
「こんなに近くにいるのに?」
プロポーズの言葉はこんな声で聞きたい。そう言う声をして、南雲くんは背を曲げて、私と目線を合わせて来た。
「僕がそばにいるよ、ずっと。」
JCCに在籍していた時代にも聞いた台詞。それは昼間の学食でだったか、放課後の校舎裏でだったか、学生寮に向かう夜の道すがらだった気もするし、その全てで囁かれたとも思う。二人だけの秘密ごとのように言われる事に、あの頃の私も首を横に振った。
「今は、ひとりでいたいな。」
・
・
・
「――今は、って言ったじゃん。」
海水で濡れそぼった頭を振り振り水気を切って、南雲は額に張り付いた前髪を掻き上げた。午後から雪がちらつく、と言う天気予報の言いなりとなった鈍色の空の下、吐いた溜息は透明であった。真冬の海に沈められては体温は死体じみる。皓歯のカチカチと鳴る音が、埠頭の倉庫の壁を小さく叩く。物音はそれだけだ。震え始める肩をさすりながら南雲は己以外の気配を探ったが、間も無くトレンチコートの裾を絞りながら歩き出した。
唐突に殺連を出てのち、彼女はフリーの殺し屋としてならず者達に雇われていた。長い人生のうち三つ子とも言える学生であった頃から優秀で勤勉で真面目なのだから、大人となってもその性質は変じない。並べて口の固さにも。しかし、組織の基盤に亀裂を生むかもしれない程に内部事情に精通している存在をおいそれと足抜けさせる訳もなく、ならず者達は彼女の口を封じる為に動き出した。ならば、死を偽装してやるだけだった。
手の甲に引っ掛かっていた肌色の被膜を爪先で剥ぎ、澄み切った風に乗せる。この埠頭に呼び出される筈だった彼女に変装して、成り済まし、南雲は身代わりとなって海に沈んだのであった。身を呈して守った彼女は、明日には遠方に在る実家に戻り、殺しとは縁遠い恋人と、殺しとは縁遠い家業を継ぐのだと言う。
「実家に押し掛けて来るくらいに執拗なのも中にはいるかも知れないけど、少数だ。それくらいなら自分で何とかするでしょ~。」
痛いくらいに悴む手を握っては開き、開いては握る。体温を取り戻そうとする中で、頬にひと筋、水が伝う。先迄パフォーマンス的に大袈裟に垂らしていた血糊ではない。口もとに至った水滴を小さく舌を出して迎えてみると、ビリリとした塩辛さに端正なかんばせが顰められる。頭を振るくらいでは振り払い切れない、水浸しの旋毛から次々に滑り落ちて来る海水が、顔から、首から、残らず体温を奪い去ってゆく。水で重たくなった衣服に冬風が纏わり付いて、身体は切り裂かれんばかり。隣に誰も居ないのでは凍えて死んでしまいそうに、冷える。
「寒~い。早く帰ろ。」
南雲は大きく身震いすると、足早に海風から逃げ出した。埠頭に残った水濡れたひとり分の足跡は、午後から降り頻る雪に覆われると跡形も無くなった。
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