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破損したライセンスの再発行には小一時間程、掛かるらしい。丁度小腹も空いた事だ。食堂で何か摘まんで待っていよう、と。向かうべき先を定めたつま先に急ブレーキを掛けさせたのは、「先輩!」と言う親しみの込められた呼び掛けであった。駆け出しの殺し屋である私をそう呼ぶのは、JCC時代から付き合いがある青年しかいない。振り向くと、頭蓋の中に描いた通り、柴犬に似たにっこりとした顔が廊下の向こうから駆けて来ていた。「珍しいですね、先輩が関東支部の方に来るなんて。」「ライセンスが真っ二つに割れちゃってね。再発行に来たの。」「相変わらず派手にやっていますね!」からりと笑うと、どうぞどうぞ、なんて恭しく手を差し出して道を譲ってくれる。それが可笑しくて、どうもどうも、なんて会釈をしてから道を進んだ。エレベーター迄の道ゆきは世間話に興じていればあっと言う間だ。此所の社食は支部の中で一番美味しいよね、だとか、今日の日替わりメニューは何だろうね、だとか。思い浮かぶ儘に駄弁りながら、廊下脇に設置されている自動販売機の前を通り過ぎようとして――
刹那、どっと冷や汗が噴き出た。
「自販機で当たりが出たんです! 良い事ありそう!」。五日前にそうゾロ目の写真を送って来た後輩、が中等度の急性虫垂炎で病院に担ぎ込まれたのはその直ぐ後の事だ。幸運が味方したとしても退院に漕ぎ着けるには早いではないか。
ならば、未だ病床に臥せっている後輩を、模した、目の前の男の名は。からからに干からびた喉から必死になって音を絞る。
「――南雲、さん。」
「は~い。」
まばたき一つ。それが手品の種で仕掛けかのようにパッと現れた素顔は、凡そ人殺しに向かぬげな優男の風貌をしていた。人好きのする柔らかな弧を描いた唇が薄らと開かれて、意外だ、とでも言いたげな感嘆の音を漏らす。
「よくわかったね~。」
「偶々です。」
「騙されないくらい、彼とは仲良いの?」
「可愛がってしまうくらいには可愛げはありますね。」
「へぇ~。こーゆー男が好みかぁ~。」
「別に、好みでは。」
「あれ。違うの?」
首を傾げる南雲さんは無邪気そのものだ。無邪気そのもの、に見えるだけやも知れない。無邪気そのものに見えるだけだ。
ジ、と。此方を向く真ん丸い瞳はぴかぴかの団栗と同じ色をしているのに、見詰め合うと、牧歌的とは程遠い印象におびやかされる。まるで底無し沼を覗き込むかのような背筋のぞわぞわとする心地を味わわされるのだ。それでも目を離せないのは、偏に、目を背けた瞬間に如何にかされてしまうのではないか、との警戒故である。飄々として底が知れず、変幻自在で得体も知れない。気味の悪さすら感じるこの男が、私は苦手だ。だのに南雲さんは、私を見付けるとやれご飯に行こうだとかやれ飲みに行こうだとか、事ある毎に構おうとする。正直に言って、こわい。意思疏通が出来ない生きものを相手取っているようでこわい。
自動販売機の前で足を止めたのも、これ以上彼に関わりたくないからだ。先に行ってくれ。こんな生業だからか、天に祈りは通じずに南雲さんと私の視線は一向に縺れ合った儘。人っ子一人通りもせずに時だけが過ぎ去ってゆく。私にとっては永遠に近しい拷問的膠着状態だったが、南雲さんにとってはそうでもなかったらしい。
「ふ~ん。」と、ゆるりとした笑みがご機嫌なさまで深まった。一体何が嬉しいのか、常は落ち着き払っている筈の声も何所か上調子となっている。名前の通りに雲じみた、ふわふわした声だった。
「じゃあ、他には? 好きなものや――好きな人、なんて、興味あるなぁ~。恋バナしようよ~。好きなの奢るから。」
刺青の彫られた人さし指が自動販売機のディスプレイを指す。釣られて、縛されていた視線が解かれる。後光のさすように煌々と輝く缶のサンプルをぼんやりと眺めていると、南雲さんがごそごそとトレンチコートのポケットを探りはじめた。本当に奢ってくれようとしているのか。
「そうやって情報を欲するのは、変装した時に信用度が上がるから、ですか。」
「う~ん。興味があるから、って言ったばっかりなんだけどなぁ~。人の話を聞かない、ってよく言われない?」
「刺青の入った男の話には耳を貸すな。我が家代々の教えです。」
「ちぇ~。」
如何にも態とらしく唇を尖らせて、拗ねた風に見せている南雲さんの手は未だにポケットの中に突っ込まれた儘だ。じりり。恐る恐る、恐々、重心を移動させる。半歩、一歩、二歩三歩! 話はこれでお終いだと、一目散に逃げ出したい気持ちをまるで抑え切れていない早足で場を辞す。
嗚呼、もう、あれが隙だったら良かったのに! 南雲さんの身長は百九十センチメートル有るのだったか。無事にエレベーターに乗り込むよりも早くに、その長い脚で以てあっと言う間に距離を詰められてしまった。
「あ、食堂行くんでしょ。僕も行こ~っと。今日の日替わりメニュー、ハムエッグ定食なんだって~。飲みものよりも、こっち、奢ってあげよっか。」
「いりません。」
「目玉焼きの黄身って、どのタイミングで割るかで性格出るよね~。」
「行きません。」
「ええ~。」
下階行きのボタンを連打、する迄もなく扉は開かれた。後輩の出した自動販売機の当たりのおこぼれか、運良くこの階で止まってくれていたのだ。だとしても、もう運の尽きだろう。南雲さんに追い付かれてしまったからには、エレベーターの密室で二人きり、と言う悪夢が約束されているも同然なのだから。
これは自らの逃走術の未熟が招いた結果だ。腹を括って、粛々と狭苦しい箱の中へと入る。と。
「じゃあまたね~。次に誘う前に返り討ちに遭ってるとかナシだよ。」
ひらひらりと揺れる手の平に見送られる。馴れ馴れしいところでにこにこにこやかに話し続けていた南雲さんは、しかし、私がエレベーターに乗り込むとそれ以上は追って来なかった。
「善処します!」。何だって良い、何所だって良い、大慌てで適当な階のボタンを押す。閉ボタンを連打しながら、ドアよ早く閉まれ南雲さんの気が変わらない内に早く閉まれ、と願うも、焦る私を嘲るかのように、ゆっくり、ゆうっくりと扉は勿体付ける。外界が徐々に細まりゆく中、視界の真ん中ではずっと、目一杯に開かれた大きな大きな手が振られていた。
蜘蛛の巣のようだった。ホラー映画のひと幕みたいだった。扉の完全に閉ざされたエレベーターの中で蹲る。緊張が解けて脱力する、の方が状態の説明としては正しいだろう。こわかった。何時、無理矢理に扉が抉じ開けられるか気が気でなかった。深追いされなかったのは仰倖だが――南雲さんは遣り手の殺し屋だ。駆け引きは心得ている筈で、今こうして無防備で居られるのは、引き際を見定めた彼に見逃されたからに違いなかった。次のお誘いとやらは如何様な方法を使って為されるのか。丸まった背中にぶるりと怖じ気。
ガタン、ようやっとエレベーターが動き出した。降下に伴う独特の浮遊感に酷く安堵する。自分が何階のボタンを押したのか覚えてもいないが、食堂の在る階でない事は確かだ。
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