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逆上せた面持ちから、ざ、と。血の気が引き切る瞬間を捉う。
先に身仕度を終えた新門さんが止まった。向かい合う私の身体をすみずみまで拭き浄めたのち、肩に寝巻きを打ち掛けてくれた格好の儘。肩に付いた円環状の傷に――噛み痕に気付いてしまったからであろう。出血には及んでいない血色の痣に瞠目、そして、絆創膏を巻き付けるかのように丁重に寝巻きでくるまれる。
常より精神統一の為の座禅を欠かさない御仁が、女一人に、小さな傷に、何と言う取り乱しようだ。
「……悪かった。」
忠実忠実しくも私の寝巻きの襟を直し、帯を締めながら、新門さんは呟く。部屋の片隅に設えた行灯の仄明かりが照らした声音は、蝋燭の火では到底熔かされようのない硬い質感を持っていた。とろけた事後のとろけきった閨で聞く声ではない。
別段、噛み付かれた傷は血が滲んでいる事もなく、明日になったら緑っぽい痣となるくらいが精々だ。夜毎、肩まわりや胸もとに付けられる接吻の痕と何が違うのだろう、と当事者としては思うばかりなのだが。する、と。新門さんの手の平が、静かに、静かに、傷に障りの無いように静かに、私の肩を慰撫する。
そんな真似もそんな顔も、しなくとも良いのに。
二人してあれだけ浮かれていたのに、今や浮かばれない新門さんの両の頬を、ぱちり。態と音を立てさせて包む。らしくもなく俯き勝ちとなっている顔をぐいと上げさせ、確りと目を合わす。
「“きゅーとあぐれっしょん”、と言うそうです。」
はたと労しげな手付きが止まると、遠慮勝ちなむず痒さもやんだ。私の肩に奇麗な噛み痕を残したあぎとが小さく開き、「きゅう……?」と復唱を試みる。存外と可愛らしい響きであったものだから、思わず吹き出しかけて、新門さんの眼差しが未だ申し訳無さ気に悄気返っているさまに寸での所で憚った。
「可愛らしいと感じた相手を噛んだり、締め付けたくなったり、我知らず攻撃的になってしまう衝動だそうです。」
「碌でもねェ衝動だな。」
「でも、新門さんに噛み付かれてこの話を思い出した時、私は嬉しかったですよ。」
概して人を守らんと努めるこのひとが自らの手綱を手放す姿は、きっと、すべてを受け入れてくれると言う信頼があってこそ晒け出せるものだ。矜持を持つ義侠の人だからこそ、忘我し、女の身である私を傷付けてしまった事を深く恥じているのだろうけれど。だとしても、何時も、何時でも、何時迄も、私達の為にも強く在るこのひとの甘え心の拠り所となれる事が、こんなにも嬉しい。
「……お前、そう言う趣味だったのか。」
「違いますけれども、新門さんが相手ならば悪くはありませんねえ。」
高揚して火照る手の平から新門さんの頬に熱を移す思いで、指の一本一本を輪郭に添わせる。思ったよりも反省しきりのその顔色は、夜雨に濡れそぼった捨て犬宛らだ。曇った垂れ眉を晴らさんと、接吻一つ。きつく結んで固く強張る唇を解かんと、接吻一つ。本能か、嗜好か、安堵からであったならば良い。啄むうち、ゆっくりと新門さんの身体が前にのめり込んでゆく。貪る、とは違う。呼吸も忘れて接吻に夢中になる彼に、その身体の重さを知っているのは私だけで良いと、新門さんの機嫌を直したいのに私の機嫌ばかりが良くなってしまう。
軈て、熱の戻った吐息が互いの唇をぬくめる。
「――貴男が、堪えようもない程に可愛いと思ってくれたんでしょう。女冥利に尽きます。」
行灯の灯火を反射して、緋の光がきらとあかる。
飽きずにむっつりと黙り込んでいるからには未だ沈む気持ちもあろうが、水面にぷかぷかと浮游する浮きの如く、その殆どは暗澹の海から浮上しているのではないか。胡座を掻いた膝に載る、新門さんの手の甲に、触れる。掬い取って、薄らと日に焼けた肌に唇を寄せる。指先、手の甲、手首、浮いた血管、前腕と、小刻みに口付けを落としてゆき、時に食む。法被に守られて日焼けを免れた生来の皮膚ならば人目に付かないだろう。
「あんまりしょぼくれたお顔をしていると、可愛くて可愛くて、ついつい噛んでしまうかも知れませんよ。」
「……そんな小さな顎で痕が付けられんのか?」
苦笑混じりに煽られては、受けねば礼を失すると言うもの。そろそろと口を開け、がぶ。薄く引かれた境界にかぶり付く。確かに、しなやかな筋肉を鎧った腕は強靭で、戯れ程度の力では歯が立たなさそうだ。
がぶ、がじ、がじ。痛がらせていやしないか、などと可笑しな不安に見舞われながら噛み進めてゆく。その間にも、新門さんは私の頭をまるくまあるく撫でてとても楽しそうにしているのだから、これこそ余程可笑しな話だ。
酷く恥ずかしい真似をしている気が催して来て、最後に強くひと噛み、つと離れる。唾液の糸が行灯の橙光にぬらと照るので、大慌てで袖を伸ばして彼の腕と自分の唇とを拭う。「もう気が済んだのか。」と追い討ちを掛ける笑う声に、新門さんが普段の上機嫌を取り戻したと知った。首肯に代わり、彼の前腕を指さす。
「どうですか。痕、残りました。」
「歯も小せェのか、お前は。」
「そんなにもまじまじと見られると気恥ずかしいのでやめてください。」
私の肩のみならず、私の頭のみならず、私に付けられた腕の歯形迄もいとおしげに撫でられると、これは愛撫の一環なのではないか、と錯覚してしまいそうになる。
実際はその段は既に終わり、現在は夜よりも朝の方が近い幕の内だ。新門さんが手ずから整えてくれた寝巻きの襟を直し直し、不貞寝を装って布団に潜り込む。少し湿気っていて寝心地はよろしくないが、こればかりは仕様の無い事だ。
小さく笑う吐息が吹き消したかのように、ふ、と。明かりが消える。能力で以て燭火を消しせしめた新門さんが、次いで布団に横たわる。青み掛かった薄闇の中、逞しい腕が自然な仕草で私の腹に回り、腰を捕らえてはぐいと引き寄せる。彼の体温が背中の皮を伝い、骨身に染みて血潮をあたためる。肩に血がめぐってじくじくと歯形に痛む。痛む。
否。心地が好くて、気持ちがよかった。
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