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一丁目の七味唐辛子屋さんの前に設置された纏の立て台の立て付けが悪い、と。
町で預かった伝言を反芻しながら、第七特殊消防詰所の暖簾を潜る。藍染の布の向こうから、ヂリリ、ヂリリ、電話機の呼び招く大声は聞こえてはいたものの、何方かがお出になるだろうとうかうかと草履を脱ぐ。その間に電話機は声を嗄らしてしまった。しんと静まり返る詰所に、新門さんも、紺炉さんも、料理番の火消しも他の火消しも皆出払っているのだと気付かされた。
電話の主には悪い事をしてしまったなあ。申し訳程度に反省をしつつ、ならば私も、火消しに言付けるには町に探しに出た方が早いのでは、と草履を履き直そうとして。ヂリリ、ヂリリ。ふた度、電話機が早う早うと喚き出した。早足で廊下を渡り、電話機のもとに参じる。勝手知ったる番屋、勝手知ったる第七特殊消防詰所。電話機付属の受話器を取って、応ずる。
「はい。こちらは浅草、第七特殊消防詰所で御座います。」
無言。無言。待てども待てども無言。
否。言葉こそ無いが、耳を澄ませば受話器越しに男性のものらしき息遣いが聞こえる。全力で町を駆けずり回って、這う這うの体で助けを求めて来たかのような荒い息遣いだ。
「もし。火消しを呼びますので、お名前とお住まいを伺ってもよろしいでしょうか。」
一介の町娘には話す事も憚られる内容か、急病で話す事も困難な状態なのか。どちらにせよ、火消し乃至町医者に引き継ぐ為にも、せめて所在を確かめようとする。
沈黙が続き、顔も見えない相手への心配がじりじりと募ってゆく。軈て、ねっとりとした生唾を飲み下す音が聞こえた。
「……ねえ。……パンツ、何色?」
「――え?」
「パンツ何色かって訊いてんだよッ!」
尋ねられた意味が――尋ねられる状況が理解出来ない。因果が結び付かず、思考が硬直している間に、苛立ちの頂点から怒鳴り声を浴びせ掛けられる。
此所は浅草、火事と喧嘩は江戸の華とも謳われる江戸っ子の町。故に、怒声にも大きな声にも慣れっこだ。けれども、見ず知らずの人間の下着の色を訊いて来る、答えないと責め立てる、受話器から顔を背けてもわんわんと響くような大声で耳を塞ぎたくなる罵声を発する。一つも道理がわからなくてこわい。正気を疑う、こわい。普通にこわい。
頭蓋骨の中で恐怖と混乱がごった煮となり、煮詰まり、今日の下着は何色であったかを必死に思い出そうとしてしまっている。――と。突然、受話器が捥ぎ取られた。
「悪戯のつもりだろうが、次に掛けて来たらタダじゃ済まさねェぞ。」
受話器を握り締めた新門さんの声は、低く、低く、静かな怒気で満ち満ちて今しもはち切れんばかりのものであった。息を呑んだのは、私か、電話の相手か。
私が茫然とまばたきを繰り返している内に、舌打ちの音を伴って受話器が置かれた。
「――しんもんさん。」。ようよう喉から出て来た声は酷く憔悴していて、我が事ながら吃驚する。不審な電話の主を剣呑な声だけで仕とめた新門さんだが、私の声を聞くなり、そ、と。何時から握り込んでいたものか、真っ白になった私の両の手にそれぞれの手を重ねた。力が込もって強張った手指を撫でてくれ、もう安心だ、と言うかのようにゆっくりと拳を開かせる。血の気の失せた指先が、大きくてあたたかな手に包まれた。じわ、じわ、新門さんの体温が沁みて、身体も精神も随分と冷えていたのだと気付く。
「最近、この手の電話が多くてな。」
「そう、なん、ですか。」
「ヒカゲとヒナタには出ないよう言っておいたんだが、まさかお前が出ちまうとはな。嫌な目に遭わせて悪かった。」
「ええと、そう、そうです。新門さん、私、今日の下着、何色でしたか。」
新門さんの唇がきっと正当の形を作りかけ、そして徐に噤まれた。真一文字に結んだ唇に力を入れた分、私の手を握っている手にも力が入る。痛みも衝撃も感じないけれども、優しい気付けの心算やも知れない。
滞っていた血潮が流れ始め、それに乗って身体じゅうに安堵がめぐる。指を絡めて、少し引いてみる。新門さんの気を引いてみる。
「もしかして、新門さんも訊かれたんですか。下着の色。」
「……七曜表が出回ってから、あの手の電話が掛かって来るようになってな。男の下着の色を訊いて何が面白れェんだと思ってはいたが――」
「新門さん、男性にも想いを寄せられる程の男前ですからねえ。」
「そんな話はしてねェ。」
げんなりとした表情を見せたのは一瞬の事。素早く切り替えられた瞳が、真剣な光で赫々と冴える。だのに、垂れ勝ちな眉の様相は常の余裕そうな線ではなく心配げな線をえがいているのだから、このひとは。
「脅したからには二度とは掛けて来ねェだろうが、同じ考えの奴が他にも出て来ねェとも限らねェ。電話が鳴ってももう取るな。放って置け。」
「そのような訳にはいきません。火急の用事であったらどうします。」
「直に詰所に来るだろ。」
それは、そうかも、知れない、けれども。
皇国からの伝達だとか、最近昵懇の間柄となった第8特殊消防隊からの連絡だとか、他にも緊急性の有る電話である可能性は限りない。新門さんが悪意から私を守ろうとしてくれている事はわかる。でも、ちょっと、過保護だ。私だって浅草の女で、貴男の女なのに。
次に電話が掛かって来た時、又同じような迷惑電話であったら、今度こそ直ぐに切ってしまおう。そう算段を付けている間、だんまりでいると、嫌な予感ばかりがようく働く新門さんから「わかったな。」と強く念が押された。
「わかりました。私の下着の色は新門さんのみぞ知る、と言う事ですね。」
「そいつは、まァ、そうなんだが……本当にわかってんのか?」
「ああ、そうです。私も、新門さん宛てに伝言を預かっているんでした。」
無理矢理に話を捻じ曲げる。割って入る、ヂリリ、ヂリリ、電話機の騒ぐ声。
さっきの今では到底忘れ難い不安感が、身体に緊張を強いる。確りと手が握られる。大丈夫だ、と仕草であやされる。もう片手で受話器を取った新門さんが、「こちら浅草。」と何とも窓口らしからぬ、不親切にして打切棒な応答を為す。
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