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息、吸って、吸って、吐いて、吸って?
何年も前、誰からも何からも守られていたうら若き頃、学校の体育の授業で強制されたマラソン。その中で体育教師が教えてくれた筈の長距離走に適した呼吸法とやらが思い出せない。酸素不足、おまけに、走れども走れども逃避出来やしない最悪の現実の所為だ。
仕事を終えて台東区に建つ我がマンションに帰ったら、彼氏擬きが消えていた。代わりに、テーブルの上には金の借用証書が一枚、残されていた。
内容なんて検める迄もない。私は着の身着の儘、スーツに玄関に出しっ放しにしていたスニーカーを履いて、最悪最低の糞野郎の姿を探しにマンションの外に出た。右を見る、左を見る、と。黒塗りの車のそばでマンションを見上げている二人組の男と目が合った。ワイシャツにスーツと言うものは、他人に清潔な印象を与え、かっちりと着熟す事で信頼を得る。だが、目の前の、何やら目配せをして何やらじりじりと近付いて来る男達の格好はどうだ。シャツのボタンを何個も外して着崩して、露出した首には太い金のチェーンが掛けられ、スラックスからはセンタープレスが消えかけている。明らかに営業の仕事に就いているようには見えず、先ず以て、このタイミングで私に用事が有ると言うだけで怖い人相の彼等のご職業が知れる!
咄嗟に男達とは反対の方向に走り出す。「テメェッ! 女ァ!」「待てコラァッ!」。背中を殴り付けんばかりの怒声に、死、を意識した。焼死が一般的な死因となるこの世で、よもやこのような目に遭うとは思わなかった。正に必死になって道と言う道を駆け、時折、身を隠して呼吸を整えては糞野郎への怨嗟で叫び出しそうになり、吸って、吸って、吐いて、吸って。走る。逃げる。けれども男達は執念深く、一度は撒けたと安堵しても直ぐに足音が迫る。どれだけの巨額を貸したのか、将又、余程ボスが恐ろしいのか。わからない。如何でも良い。この儘、無闇矢鱈に走り回っていても堂々巡りにしかならず、ならば、私の体力は果たして後どれだけ保つのだろうか。
――皇国で堂々巡りになっている、ならば。
――皇国でなければ、もしかしたら。
皇国と原国主義者のクニ・浅草との間には、教義や主義や文化等の思想の隔たりこそあれども、物理的な隔たりが存在する訳ではない。取り分け、台東区は浅草に隣接しており、足抜けするには打って付けではあった。
天啓とばかりに脳裏に閃いた、一か八かの賭けとも言える打開策。然程、敬虔な信者ではないが、今、この時ばかりは太陽神に心から祈る。浅草に坐しますと言う謎の神にも序に祈っておく。
「ああ、もう、誰か助けて……!」
吉と出るか凶と出るか、鬼が出るか蛇が出るか。浅草に進路を変更する。
血路を開く中、追跡する足音は聞こえない。聞こえていない、だけやも知れない。心臓が耳もとに移動して来たかのように鼓動の音しか聞こえない。吸って、吸って、吐いて、吸って。体育の授業でもこんなに走った事はない。大人になれば意識しない限り運動する機会は目減りする。頭が痺れ、足が縺れ、気付けば私は道に寝そべっていた。違う。転んだのだ。体力が尽きかけているのだ。
考えもなく飛び込んだ、見知らぬ小道。横を見ると、舗装されていない地面に埋められた小さな標石には『浅草』と確りと彫られていた。
息を吸って、吐いて、吸って、吐けた。
「おい。派手に転けたが、動けるか。」
唐突に声が掛けられた。撥ね起きる。それから、成人男性のものよりも若く高い少年の声音である事、驚きと訝しさとやや心配げな感情が綯い交ぜとなっている事で、此所が袋小路でないと理解した。
夕日に焼けた辺りを見回す。皇国では見ない造りの木造住宅の軒下に、壁に背を預けている子どもが一人。地平線から生まれ立ての朝日みたいに真っ赤な瞳を真ん丸くして、あどけなく私を凝視している。年の頃は十代前半だろう。手触りの良さそうなさらさらとした黒髪が、首を傾げる仕草に合わせて揺れる。ふむ、と。異国情緒を感じる前合わせの服の袖の中で、少年は腕を組んだ。
「膝、血ィ出てる。」
「ああ、ええと、大丈夫。それどころじゃあないから。」
「訳ありか。」
長い前髪の下で、少年の眉が密かに寄る。――少年、なのだろうか、ただの。今、私を追って来ている男達は、荒事を日常としている人間特有の非日常的な雰囲気を放っていた。それを目の前の少年から感じ取った、気がした。精査は出来なかった。
「どこ行った、クソアマァ!」「とっとと出て来い! クズがァッ!」。しつこいのよ! クズはお宅からお金を借りパクした糞野郎でしょうが! 追うのならばそっちを追いなさいよ!
心の中で言い返すだけ言い返して、破れたストッキングから目を背けて足を踏み出す。遠くから響いて来る恫喝の声、けたたましい足音。心が折れてしまいそうだった。こんな事ならば日頃から信心深く過ごしておくんだった。だから、これは藁にも縋る思いの功徳だ。
「ここ、今から危なくなるから! 行こう!」
「な――!?」
あれだけ激昂している男達だ。私の行方を尋ねる為に、通行人に対して手荒な手段に及ぶ可能性も無いとは言い切れまい。年端もいかない少年を借金取りの通り道に一人で置いてはおけない。ええいままよ、と少年を横抱きにして駆ける! 駆ける! これこそが、ランナーズ・ハイ、と言うものなのやも!
事務仕事にしか従事した事のない私にとっては、如何に華奢な体躯の少年と言えども、担いで走るのはかなりの重労働だ。明日は筋肉痛必至で、そもそも、筋肉痛に呻くだけの余裕のある日常を明日から送れるのだろうか。
ばたばたと走りながら、人拐いだと大声を上げられたら困る、借金取りに居場所がバレてしまう、と。酸欠でまっさらになりつつある脳味噌に別の不安が過ったが、「なァ。」。少年は場慣れしているかのように至極落ち着いた調子で語り掛けて来るではないか。
「お前、皇国の奴だな。追われてんのか。」
「そう!」
「何でまた。」
「連帯保証人、知っている!? ならない方が、賢明!」
「金を借りた張本人にトンズラされたかして、金貸しに借金のカタにされようとしてんのか。とんだとばっちりを食っているな。」
「仰有る通り!」
とは言えども、私は連帯保証人になりたくてなったクチではなく、勝手に仕立て上げられていた被害者なのだが。真っ当に生きていただけなのに、何故、このような事態に巻き込まれているのか。
恐怖を乗り越えた怒りが原動力となり、兎に角、脇目も振らず、目の前の道を直走る。腕の中で少し考える素振りを見せていた少年は、す、と。目先に分かれている横道を指さした。
「――そこ、右だ。花の植わった鉢が並んだ家が見えたら、角を左に曲がれ。その後、道なりに真っ直ぐ行くと、左手に番屋がある通りに出る。中で事情を話せば皇国に帰してもらえるだろ。もうひと息、踏ん張りどころだ。」
ひと通りの説明を終えるなり、ひょい、と。少年は身軽にも私の腕から飛び下りてしまった。何か特殊な訓練でもしているのか、着地は猫のようにしなやかで、危なげは感じられなかった。だが、片足を庇うようにして見えたところから、出会った時に壁に凭れていたのは足首を捻っていた為なのだと否でも応でも知れる。
「まさか纏がすっ飛んで行って空から落ちるとはな。後であわい屋に纏を取りに行かねェと……もう紺炉の耳には入ってんだろうなァ……。」
怪我の痛みからか、舌打ち混じりに悩ましげに少年が唸る。聞き違いでなければ、空から落ちた、と言ったか。それは大層な事で、私の擦り傷の心配をするよりも優先的に手当てされるべき事だ。
子どもに加えて怪我人だなんて、尚更、危険な場所に放置出来るものか! 勢いで進んだ五歩を足早に下がり、肉付きの薄い腕を掴む。難無く振り払われた。
「俺の町で、嫌がる女をつけ回す真似が見過ごせるか。」
其所い等の大人顔負けに腹の据わった声は、喉仏の目立たぬ細い首から出されたとは思えぬ程の貫禄があった。
一人で先へ進むか、二人で先に進むか。子どもを危険に晒すなど以てのほかだが、少年から不思議な頼もしさを感じてしまうと、途端に自らの倫理観に迷いが生じてしまう。これはそれ程の、カリスマ、であった。
私の逡巡を好機として、獲物を追い詰めんとする足音は大きく、次第に大きくなりゆく。借金取りが、来る。
「その細腕じゃァこれ以上は俺を抱えては行けねェんだ。さっさと行っちまいな。」
過労によって震える腕を見抜いた少年が、颯と手を振って私を見送る。
道の真ん中に立ちはだかる小さな背中に、出来る事。
息を、吸って、吸って、吐いて、吐いて。深呼吸。取り敢えず、目指すは花の植わった鉢が並んだ家。
「大人の男の人、急いで呼んで来ます!」
「おう。身長のデッケェ、髪を結った火消しが居たら、そいつを呼んで来てくれ。話が早ェからな。ついでに手と膝の手当てもしてもらえ。傷物になっちまったらそれこそ一大事だ。」
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