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「紅ちゃァん。見たよォ~、特殊消防隊広報誌。ニクい事をやったもんだねェ。」
新仲見世商店街を雨風から守る半月形の天井に目をやった、一瞬の隙を突かれた。
砂糖水に群がる蟻だって遠慮がちに見えるくらいの忙しない足取りで近付いて来たのは、原国の味を謳う洋食屋のオヤジだ。ニヤニヤとした好色な顔付きをして肘で脇を小突いて来る。もう片手に抱えられているチラシの束――その一番下には、見覚えのある冊子が覗いていた。くだんの広報誌に違いねェ。うるせェのに捕まったもんだ。これ以上揶揄される前に通り抜けちまおうと、鍋を振って鍛えられた太い肘を払い退ける。
「掻き入れ時だろ。働け。」
「紅ちゃんさァ。ここの、好みのタイプは面白れェ奴、ってェのは――もしかしなくても夢子ちゃんの事だろう?」
聞いちゃいねェ上に誰も聞いちゃいねェってのに、オヤジは態とらしく声を潜めて耳打ちして来た。堪え切れずに吹き出しやがるから言葉は雑音と化して半分も聞き取れなかった。だが、可笑しそうな様子から嫌でも察しは付く。こっちは詰所でも散々笑われてんだよ。だからと言っておいそれと馬鹿正直にはなれねェ。オヤジの身体を押して、返した手を顎に遣る。
「さァて、何の事だかな。」
「隠しても無駄、無駄。そもそも隠せていねェんだよなァ。」
空惚けてみようとも、そもそも隠し事の出来ない性分だ。思い返してみれば、夢子に惚れていると気付いたその日には、俺の恋慕の情ってやつは町の奴らの知るところになっていた。何故か、当事者だけは今日まで気付かずにいるんだが。夢子は鈍さに懸けては最強だ。幾ら粉を掛けても気にする素振りすらねェんだから考えものだ。そろそろ正面切って言わねェと、こんな広報誌頼みじゃァ恐らく何にもならねェ。特殊消防隊に親しみを持って貰う為にこの広報誌は発行されているんだと講釈していた記者にも、「女性ファンに配慮した抽象的な回答! 恐れ入ります!」と世辞を言われた。配慮した覚えはねェな、これっぽっちも。夢子がそう言う女だからそう言ったまでだ。
町を歩いていりゃァ出会す事もあるか、と昼飯時で賑わう通りを眺めていると、どさくさ紛れにチラシが握らされた。手の伸びて来た方に目を遣る。オヤジが親指を立てて、茶目っ気を出したか片目を瞑っていた。
「新メニュー! 今日から!」
「昼ならもう来々軒で食って来た。」
「ツれねェなァ。」
親指が萎びるようにして仕舞われる。態とらしく悄気るオヤジは、しかし、若い女が目の前を通り過ぎようとするのを見ると笑顔を作って透かさずチラシを差し出していた。新メニュー、オムライス、門外不出のドミグラスソース掛け、海老フライ付。赤ん坊の拳くらいの大きさの悪筆が所狭しと犇めいている。味は確かなんだが、読ませる気があるのかもわからねェ。これで客が寄り付くのか。
ただ、夢子は知ったら喜んで飛び付きそうだ。いつか見た、中で花火が打ち上がっているみてェに目を輝かせている顔を思い浮かべていたら、また脇が突かれた。今度はさっきよりも強目にだ。お陰で、締まりのねェ面に力が入って助かった。
「ほら。噂をすれば何とやら、だ。」
オヤジの神妙な声を聞いて、チラシから顔を上げる。
商店街の人波の中で、夢子の姿は内側から光っているかのように眩しく見えた。腹の虫を宥め賺しているのか、頻りに帯をさすっている。そんな間の抜けた仕草をして見せていても目を惹くんだから仕方が無ェ。惚れた女はお天道さんよりも光って見えて、お天道さんみたいに目を持って行っちまうもんなんだよ。紺炉の言った通りだ。
そして、視線ってのは感付かれる。人垣を隔てて目が合うと、パッと、夢子は笑った。――綺麗だな。それだけでこうも胸が締め付けられる。
弾けた光が人と人の間を抜け、足早に拱廊を進み、俺達の前に着く。後は若い二人で、とか言うつもりなんだろうな。オヤジは下世話な表情を隠しもしないでその場から一歩下がった。
「新門さん。広報誌、見ましたよ。」
そんなオヤジに向けて会釈をするなり、夢子は早速切り出して来る。一拍だけとは言え、返事が遅れた。
「……そうか。」
「狐と狸がお好きだったんですねえ。犬にも猫にも優しいから、意外でした。」
肩透かしを食らった気分になった自分が情けねェ。期待されると、この期に及んで期待していたらしい。
「あァ……そうか……。」と相槌を打つ。腑抜ける俺の前に、見ちゃいられねェとばかりに首を振って進み出るオヤジが、「そこじゃあねェだろう。ここ、ここだ!」と広報誌を開いている。欄の一つを指す前、余計な世話を焼き切る前に冊子を取り上げた。遅かった。と言うか、既に目を通して来ているんだ。遅いも何もなかった。夢子は直ぐに合点が行ったようで、小さく手が合わせられる。
「ああ、好きなタイプ! 新門さんも紺炉さんも、男女問わず想いを寄せられていますからね。参考にされる方、多いんでしょうねえ。」
無邪気にも他人行儀な事を言いやがるんだから堪らねェ。
腹を括るにしても、もっと場所を選びたかったんだが――「なァ。」。「はい。」。
「俺が好きなタイプに挙げた奴に、心当たりはあるか。」
「勿論。新門さんは、浅草の町の人達の事、本当に大好きですよね。」
そう言って誇らしげに微笑まれる。そうなると、もう、何も言えねェだろ。わかってやっていない分たちが悪ィ。握り込んでいた広報誌が手の中で歪んで行く。――次があったら、名前、書いてやるか。
手を振ってオヤジの憐れみの目を遮る。今日はひと先ず腹に納めて、全く、本当に全くわかっちゃいねェ屈託のない瞳の前に、先程のチラシを掲げる。
「飯、まだだろ。こいつは今日からだそうだが、お前が好きそうじゃねェか。」
「ええ。好きです!」
真っ直ぐに告げられた言葉に心臓が駆け出す。そう言う事じゃねェ、俺がじゃねェ、と繰り返し繰り返し言い聞かせてやらないと、口もとが弛んじまって格好が付かなくなる。冗談みてェに血が熱い。逆上せる頭を躍起になって冷やそうとしているなんて知らねェ。チラシに釘付けになって想像した通りの喜色満面をしているお前は、何も知らねェ。――今は、な。
丸めた広報誌で肩を叩いて調子を取り、背後に在る洋食屋に身体を向ける。扉を押し開くと取り付けられた真鍮の鈴が澄んだ音を立てた。閉じねェように手で支えていると、有り難そうに目配せをして潜り抜ける。俺の好きな女。その横顔に、告げた。
「――俺もだ。」
「そうだったんですか。これも、意外です。」
「これが意外でもねェんだがな。」
「そう、そう。全然意外じゃあないんだなァ。」
様子見と洒落込んでいたオヤジが後に続く。にやけ面がうるせェったらねェな。
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