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第七特殊消防詰所に有る全ての扇風機に囲まれて厚遇されている着物を振り返る。可愛らしい声と声に濡れ鼠だと囃されたものの、水のたまの滴る程ではなかったから、きっと夕刻には乾いてくれるだろう。紺炉さんの提案する通りに、それ迄は新門さんの私室で待たせて貰う事にしたのだが。
「その服——」
日課の散歩を一旦切り上げて、新門さんが詰所に戻って来た。既にその耳には、私がヒカゲちゃんとヒナタちゃんと水遊びに興じていた事、夢中になる余り着物が水漬くとなった事、着替えを与えた事、着物が乾く迄のあいだ部屋で待たせている事――事の顛末が入っているのだろう。襖を開け、顔を見合わせた時に驚いた様子はなかった。けれども、畳敷きに座っている私の肩の辺りを見遣ると、新門さんの垂れ勝ちな眉と眉の間には良ろしくない気配が生まれようとしていた。
「ご迷惑をお掛けしてしまって、すみません。こちらは紺炉さんからお借りしました。新門さんの箪笥は開けていません。」
「滅多なものは隠していねェんだ。探られたところで痛くも痒くもねェが――」
じ、と。じい、と。見られる。肩へ、腕へ、胸へ脚へと注がれるその紅色は、好意的、とは如何とも言い難かった。
男物の着物では衿もとがはだけてしまうだろうと体裁を気遣ってくれた紺炉さんは、渋い青で染められた着物の他、鯉口シャツ迄貸し出してくれた。しっかりと着込んでいるのだからはしたない格好にはなっていない筈だ。筈、だ。居心地の悪さから思わず衿を直すも、新門さんの顰め面が和らぐ事はない。
「ええと、その、何か。」
「……紺炉の着物じゃ着丈が合わねェだろ。裾でも踏んで転けたら危ねェ。」
「おはしょりを作っていますので、心配はご無用です。」
男物の着物には不釣り合いなおはしょりの部分を摘まんで見せるが、新門さんは部屋に設えられた箪笥に向かってゆき、知った事ではないとばかりに抽斗を開けている。ごそごそと中身を引ッ返し、底の方から深い墨色の着物が引っ張り出されると、部屋じゅうに樟脳の清しいにおいが広がった。寝間着など、長らく箪笥の肥やしとなっていたのであろう。朝な夕な、布団に入る時でさえ、擦半鐘が鳴れば直ちに火事場に駆け付けられるようにと常に火消し装束を身に纏っている彼なのだから。
「ガキの頃に何度か着たきりで、定期的に虫干しもしてある。悪くはなっていねェ筈だ。お前の背丈ならこれくらいが丁度良いだろうよ。」
大きく広げてひと通り検分したのち、新門さんは着物を差し出して来た。
「着替えな。」
「この部屋から出て歩き回る事はしません。危ない事はないかと。」
「ヒカゲとヒナタに遊ばれるかも知れねェだろ。その格好で満足に動けるとは思えねェな。」
「二人は商店街に出掛けてゆきましたよ。紺炉さんのお着物の儘でも無事に過ごせると思いますけれど。」
「着ておけ。」
「あの。」
「ほら。」
「……何故、そんなにも着替えさせたがっているんですか。」
眉や、瞳や、頬や、唇。新門さんの隠し事の出来ない真っ直ぐな御心を写す真澄鏡は、揃って曇った。鼻先に掛かる長い前髪の簾ではその気不味さを覆えず、顔が逸らされてしまう。ややあって、への字に曲がりに曲がった口が開かれた。
「――お前が、俺以外の男の服に包まれてんのが気に入らねェんだよ。」
渋った答えは、苦い声音で吐き出された。
がしがしと後ろ頭を掻き、如何にも決まりが悪そうな新門さんは、心腹から信頼している兄貴分相手に剥き出しにする感情ではないと自責しているようにも見える。まったく道理で、紺炉さんが聞いたら呆れ果ててしまう事請け合いだ。着物の一枚でどうなる二人でもないだろう、と。私もはじめは呆れてしまったが、しかし、可笑しくて可笑しくて。つい笑みがあふれて止まらなくなる。
「ごめんなさい、フフ、私、思い至らなくて。」
「謝るならもっとしおらしくしたらどうだ。笑ってんじゃねェか。」
引っ込められようとする着物を、彼の腕に取り縋るようにして大慌てで受け取る。序でに、藍染の袖を指先で捕らえて、小さくちいさく引いてみる。拗ねて歪んだ赤瞳の気も引けた。いけない、矢っ張り笑ってしまう。最強の消防官の誉れが高い御仁が、その火だけは自由自在とはいかないなんて。
「新門さん。嫉妬、してくれたんですか。」
「小せェ男で悪かったな。」
「入れ子人形みたいですね。」
「入れ子人形?」
「あれ、大きな器に少し小さな器が入っているじゃあないですか。泰然とした新門さんの中にも二十二歳の男性らしいお心があるんだなあ、って。」
「最強だとは言っても、惚れた女の前じゃァ俺もただの男でしかねェって事だ。格好が付かねェな。」
言い終えるよりも早くに、新門さんの唇の前に人さし指を立てる。
「最強の新門さんも、ただの男のひとの新門さんも、すてきですよ。すき、です。」
指先で触れると、ふ、と。唇の強張りは解かれた。
「――褒めても何にも出ねェぞ。」
新門さんは腕を束ねるなり、くるりと背を向けてしまわれた。彼の私室であるのに、私とは恋仲と言う懇ろな間柄であるのに、硬派にも着替えするところを見ぬよう気を遣ってくれているのだ。好き、だなあ。その逞しい背中に抱き付きたくなる衝動を堪えて、心安く帯に手を掛ける。
紺炉さんから借りた着物は、折角だが畳んでしまって。新門さんに手渡された着物を胸にいだく。麻地に深々と付いている畳み皺がひどくいとおしくて、撫でながら、着物を渡して来た彼のその胸の裡にある余りあるおもいを思う。黒髪からちょんと覗いた耳の先に灯る朱が、ようく見える此所から。――嗚呼、可愛いひとだ。
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