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稽古で煤と土埃と打撲傷まみれになった身体を洗い、貸して貰った作務衣に着替えて、縁側を歩いている最中だった。障子戸の影で何かが動いた気がして、足を止める。ついさっき俺とアーサーが新門大隊長にぶっシゴかれていた裏庭に面した、その部屋の中を覗き込んでみる。そこには、きっちりと畳まれた洗濯物に囲まれて座る夢子さんが居た。第七特殊消防詰所の家事を手伝いに来ているこの女の人は、時間を見つけて稽古をつけて貰いに来る俺達の面倒まで見てくれる。いつもあたたかい日溜まりのような笑顔で迎えてくれるから、俺は夢子さんに憧れを抱いているし、アーサーも懐くのが馬鹿みたいに早かった。馬鹿だから、みたい、ではないな。
それにしても――
「よく寝てるみたいだけど、疲れてるのかなぁ。」
何かが動いたと思った、その正体はぐらぐらと揺れるこの人の頭だった。前に行き過ぎたら右に、右に行き過ぎたら後ろに、後ろから左に前に。無意識に身体のバランスを取ろうとして、頭が豪快な円を描く。今にも倒れ込みそうな危なっかしい居眠りに、この数十秒で何度手を伸ばしかけたかわからない。
いやいや無防備な女の人に触るのはあれだろ、と。気を取り直して室内を見回す。第七の人達と一緒になって夕飯をご馳走になる時に使われるここは、皇国で言うリビングであり、膝掛けとなるようなものは残念ながら置いてはいない。新門大隊長か紺炉中隊長を探して、何か掛けてあげられるものを借りた方が良いよな。
縁側を振り返ろうとした、瞬間。遂に頭の重みに負けて、夢子さんの身体が大きく傾いた。
――倒れる! 洗い立ての法被で作られた境界線を咄嗟に越えて、俺は手を伸ばしていた。慌ててその肩を支える。は、と目蓋が持ち上がる。ぼんやりとした瞳、ぼんやりとした声が俺を捉えた。
「――森羅くん。」
「はい。おはようございます。」
「ごめんなさい。私、寝ていましたか。」
小さく伸びをして寝起き特有の気怠さを身体から追い払うと、夢子さんは座り直した。頭から背中のラインが正される。
見慣れたしゃっきりとした姿が現れるなり、彼女の身体に触れている事がいけないことのように思えてしまう。怒られたりしないだろうか、と恐る恐る細い肩から手を離す。手を離して、手の平にはっきりと残る、男のものとは違う、柔らかい肌の感触に、自然と、不自然な、笑みが、浮かんでしまった。十七年の付き合いだ。今、自分の口がどんな形を取っているかは嫌って言う程理解している。だから、女性の寝込みを襲おうとしている変態だと、誤解される覚悟も出来た。なのに、じい、と見詰めて来るこの人の眼差しからは少しだって嫌悪や軽蔑を感じられない。ただ、光っている。悪戯を思いついた幼い子どもみたいに。
俺が掴んでいた肩の辺りをそっと撫でて、夢子さんが、囁く。
「今は昼ですが、夜這い、でしたか。」
「は!? あの、すみません、俺、本当に、そんなつもりはなくて――!」
「そんなつもりにもなれないくらい、私、魅力がありませんか。」
かなしそうな、拗ねたような、しんみりとしていながら甘えた声。それがこぼれた唇がちょっとだけ尖ったから、視線が突き上げられて、きっとこの人の思惑通りに目が合う。するとゆっくりと目が逸らされ、弱々しく目蓋が伏せられる。明らかな恥じらいの仕草だった。
――は!? いや、え!? そんな事ある!? 優しい人だと思っていたけど、俺の事が好きだから……とか……え!? そうなの!?
「でも、新門大隊長と親しくされていますよね!?」
「新門さんとは長年のお付き合いですから――」
内緒話をするみたいに声を潜める夢子さんは、泣いている風には見えないけど、袖口を目尻に押し当てていた。幅広の袖に顔を隠されて表情が窺えない。何を考えているのかわからない。新門大隊長と彼女は確かに長い付き合いらしい。誰が見たって二人は仲が良いが、同時に、誰の口も二人は恋愛関係にあるとは言っていなかった。それでも新門大隊長がこの人を愛しているのは絶対だ。俺にはわからない。どう返事したら良いんだよ!? 訓練校時代は理解不能な事に馬鹿モテていたアーサーに色々と聞いておけば良かっただろうか。今からでも呼んで来るか。でも、俺、今、まともに動き出せそうにない。「あの、」「えっと、」「その、」「俺、!?」。意味を為さない言葉が喉に飽和して、溺れたかのようにばたばたと手で宙を掻き、無闇に風を起こす。
それがこの部屋の一大事を告げに行ってくれたのかも知れない。
縁側から頼もしい声が一つ、割って入って来る。
「ガキをからかって遊んでやるなよ。」
「し、新門大隊長……!」
大混乱――俺だけが――の現場に堂々と踏み込んで来る新門大隊長は、いつもの通り何を思っているのか読み難い表情をしていたが、畳に落ちた溜息がそれはもう呆れ返っている。
て言うか、やっぱり、からかわれていたんですね、俺。
気不味い空気を一声で壊してくれた破壊神から、じとり、思わず半眼となって振り返る。夢子さんは眉を下げて申し訳無さそうに装っているが、そこから下は堪え切れずに笑っちゃっている。決定的だった。
「ごめんなさいね。初々しい反応って、浅草では中々新鮮だから。」
「俺が本気にしていたらどうしていたんですか。」
「釘、刺されてェか。」
物理的に? 首筋に本当に釘の先端が突きつけられているんじゃないか、と恐怖するくらいの迫力のある新門大隊長の声。自分に向けられていないにしても、その“地下”の奥底から響いて来るみたいな低い声に可笑しいところはない筈なのに、夢子さんは浅草の人らしく至って明るく笑ってのける。
「新門さんも、昔は森羅くんと同じくこの手に引っ掛かって慌てていたんですよ。今は可愛くなくなっちゃいましたけれどねえ。」
「良い褒めっぷりじゃねェか。もっと寄越せ。」
「あれは、そう、五年程前でしたか。この人、私を家に送ってくれる時に――むぐ。」
夢子さんの側に座るなり、新門大隊長の手が翻る。思い出話を始めようとする口を塞いでしまった。
「それはもう良いだろ。お前、末代まで語り継ぐ気か。」
それが長い間からかいのネタになっているのだとは、素早く話を遮った新門大隊長の、げんなりと寄せられた眉間を見れば一目瞭然だ。新門大隊長にとっては褒められる出来事ではなくて、夢子さんにとっては褒められる出来事と言う事は――つまり、本当に存在するのか、彼女のみぞ知る新門大隊長の可愛いエピソードが。こんな、男の中の男、みたいな人に? もごもごしている夢子さんを牽制する目つきの鋭さ一つとっても、俄には信じられない。
「冗談にしか思えないんですが、本当に、新門大隊長にも可愛い時期があったんですか。」
「今も、可愛いところ、あるんですよ。こうして、矢鱈と格好付けたがるところとか。」
「……お前、男が「可愛い」だのと言われて喜ぶと本気で思ってんのか。」
「感想ですもの。別段、男の人を喜ばせようとは思っていません。森羅くんも、さっきの反応はとても可愛くて、私は好――むぐ。」
新門大隊長の手から這い出たにっこりとした唇が、また塞がれた。その儘、新門大隊長は自分の腕の中に夢子さんを抱き込むと、片手と胸板とを駆使して顎及び頭の動きを封じ、彼女から言論の自由と言うものを完全に奪ってしまった。仲良いなぁ。大人の男女を相手に、子猫が戯れ合うみたいだ、なんて表現は相応しくないんだろうけどそう言う微笑ましさがある。
ふと、夢子さんに注がれていた新門大隊長の視線が、俺を向く。和やかそうだったその瞳には不思議と、引き続き牽制の色が――いや、厳しい警戒の色が強く強く表れていた。予想外の所から出て来た敵を睨んでいるようにも見える険しい眼差しは到底躱せるものではなく、稽古の時の拳同様に真っ正面から受けると、引っ込んだばかりの引き攣った笑みが冷や汗と共にまた浮かび上がって来る。
新門大隊長の一体どこが可愛いって言うんですか。
女の人の言う「可愛い」、男には永遠に謎だ。
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