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第七特殊消防詰所に詰めていた火消しは出払っており、普段の喧騒が遠退いた此所は今、ひと足早くに夜がやって来たかのように静かなものであった。しんとした廊下を進んで行った先。奥まった所に在るは、代々火消しの長の憩う部屋である。そろりそろり、細く細く、襖を開けて中をうかがってみる。閉め切られたその部屋は、昼日中の太陽を追い出して薄闇の帳を降ろしている。その暗がりに、夜半から敷きっ放しらしい布団の上に、火消し装束が一式、中身付きでぱったりと落ちていた。背を交差する腹掛けの紐が持ち上がっては均され、均されては持ち上がり、規則正しく呼吸が繰り返されていると知れる。――新門さん、よく眠っている。敷居を越えて、腕を枕に横臥する彼のそばに寄ろうとも、真っ直ぐな黒髪の束は無造作に敷き布団に散らばった儘。緋を秘した目蓋も僅かも震えない。力の抜けて安らかな寝顔は二十二の齢相応にいとけなくて、いとおしさがむくむくと込み上げて来る。
空の白む時間迄賭場に入り浸っていた新門さんは、寝床に就いて数時間もしない内に、“焔ビト”と化した市井の一人を弔うべく現場に駆け付けたと言う。大掛かりな破壊消防を終えた身で町復興の指揮を執り、昼の休憩時間になると共に仮眠をとりに一旦部屋に帰ったのだが――待てど暮らせど幾ら経っても詰所から出て来る気配が無い。火消しも鳶も皆んな慣れたもので、何時もの通りに町を直すべく、得手勝手に現場は回ってゆく。そんな中、表で休憩する男衆に麦茶を配って回っていた私を、紺炉さんは手招いた。最近出突っ張りだから休める時に休んで貰って構わねェ、だが知らねェ間にどこかに出掛けちまったって事もある、ここは俺に任せてお前は若の部屋を見て来てくれ、と。麦茶の入った薬缶を貰い受けられてしまったからには紺炉さんの言う通りにするしかなく、こうして様子を見に来たのだが。案ずる事はない、熟睡だった。
蹴り遣られてしまったのか、新門さんの足もとで丸まり縮こまっている掛け布団に手を伸ばす。肩迄打ち掛け直してやるべく引っ張ったところで、衣擦れに感付いて目蓋が重たげに上がってゆく。鼻に掛かって甘い音のする小さな呻き声の響きは、瞳の動きと同じくぼんやりとしている。緋色の虹彩が私の影を捕らえて、それから、安堵に弛緩した風にゆうっくりとふた度目蓋を下ろした。
「……いい。あちィ。」
そう言いながら、新門さんがかたわらの空白を叩く。――これは、抱き枕にされるなあ。苦笑で答えを濁している間にも、二度、三度と叩かれる。四度目で、五つを数える頃には手を取られて引き倒されるだろう、と確信が持てた。このひとは気が長い方では決してないのだ、睡魔に唆されて判断力を欠いているならば尚更。紺炉さんはこの運びとなる事を予期していたに違いない。なれば急いで戻る必要は無く、私の今の一番のお務めは、このよいひとをより良く休ませてあげる事だろう。「お邪魔いたします。」とひと声掛けて、ころりと新門さんの隣に寝そべる。一昨日の夜にも見た景色だなあ、と腹掛けの黒地に包まれた胸の辺りに目を遣っていると。頭の下に逞しい腕が差し入れられようとする。矢張り、そう来たか。やんわりと身体をずらして避ける。動きを止める腕。気不味い沈黙。不機嫌そうに見えるだけの八の字眉が、その形の通りに不機嫌さを宿してゆく。
「お前ェはいつもこれだけは嫌がるな。」
「嫌がっている訳ではありません。」
「汗臭ェか。」
「いえ、石鹸の良い匂いがしますよ。」
「じゃあ何でだ。」
「……だって、痺れさせたら悪いじゃあないですか。纒を振る時に障ったら、と思うとどうしても気後れします。」
だから、密やかな夜であっても、秘めやかな閨であっても、それだけはさせられない。
――だから、嫌がっている訳では、決して、ありません。そう念を押そうとした矢先、性急に伸びて来た手に腰を捕らわれた。力ずくで強引に引き寄せられる。敷き布に大きく皺が寄った所為で肌がごわつきを感じて据わりが悪くなるが、一瞬だけの事。腰から後ろ頭に移った手が、そうっと、私を肩口に抱き寄せる。優しい仕草はあたたかだ。日に溶かされる飴にでもなった心地で額に鎖骨の硬さを感じていると、寝息のなりかけみたいな穏やかな吐息に撫でられる。
「火消しの女だな。」
やわらかく、やわらかく。ヒカゲちゃんやヒナタちゃんの髪を結う時とは異なるいとおしさの込められた指先で、やわらかく髪を梳かれる。いっそ焦れったさすら覚える甘やかな触れ方に、思わず身動ぎをしてしまう。そのように擽ったがる私を抑え込むようにして、新門さんは頤を旋毛に乗せて来た。
「痺れてくれたら昼寝の良い目覚ましになるな。」
「有り難がられても困りますけれど。」
「腕一本痺れたくらいでヘマをやらかす真似はしねェよ。」
「新門さんは、最強、ですものね。」
「わかってんじゃねェか。――ほら。」
もう一度、頭の下に腕が差し入れられようとする。おずおずと、しかし思い切って彼の上腕に頭をのせてみる。驚いた。筋肉に鎧われて無骨に太い腕は、想像よりもずっと柔らかだった。動物の肉球のような病み付きになるしなやかな感触に、重たくはないかと心配する事も忘れてしまう。それは、端から見れば擦り寄って、すっかり気に入り甘えているように映ったであろう。新門さんが可笑しそうに小さく笑う。間隔の長いゆるりとしたまばたきは、親愛を伝えてくれる猫のそれのようにも見える。
「寝心地はどうだ――なんて訊くのは野暮ってもんか。」
嬉しげに、満足げに、そして眠たげにうっそりとする目蓋。それを縁取る睫毛が、欠伸一つをしたのちに濡れ羽色を彩る。涙で瑞々しく輝く緋の瞳を、きれいだなあ、なんて間近くで愛でていたら私にも欠伸がうつった。能力者の体質を差し引いてもぽかぽかとした、眠たそうな手に背中を軽うく叩かれる。一緒に寝てしまおう、と誘い掛けられる。
「このまま、あと五分。」
「私をこちらに寄越した紺炉さんが、未だ休んでいて貰って良い、と仰有っていました。八つ時くらいまで眠っていても平気でしょう。」
「そうか。まァ、紺炉に任せておけば間違いはねェな。だったら甘えさせて貰うとするか。」
背中から心の臓に、自身の体温と一緒に眠気をも染ませていた手が、しがみつくようにして力強く腰へと回される。更には脚に脚が絡んで、八つ時迄いずこへも行けない抱き枕のありさまだ。意識の薄れてゆくに連れて段々と身体の重さは増してゆく。腕の中から抜け出した時、きっと身体は痺れ切ってしまっているけれども、それはお相こか。新門さんの背中に腕を回して私からも抱き付くと、確りと距離の無くなった事に安心を得たのか、彼の表情は見る間にゆるんでいった。
「あァ、こいつは良い重みだ。寝過ごしちまわねェよう、気をつけねェとな――」
上機嫌な吐息が和らぎの寝息へと変わる。すうすうと、とくとくと、何とも気持ちのよさそうな呼吸の音と心臓の音にあやされていると、暫くもしない内に私も微睡んでいた。うちに太陽を浮かばせているかのようにあつい、あつい身体にのまれる。この分では確かに掛け布団要らずだった。
世界と分厚い幕で隔てられたかのように部屋にはしじまが満ち満ちている。このあたたかなゆりかごの中でひたる今日の日の午睡は、あと十分、を永遠に繰り返したくなる事請け合いであった。
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