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お勝手の暖簾を潜った瞬間に横合いからぬうっと伸びて来た手の素早さと言ったら、待っていました、とばかり。逃れる隙を見付けられずに、水仕事でふやけた私の手指はあっさりと掬い取られてしまった。鮮やかな赤色の虹彩が険しく光り、爪先から節から指と指との間から隈無く検められる。逆剥けた指先から、あかぎれで割れた節から、乾燥した指の間から、一目瞭然に荒れ果てた襤褸の手をひと頻り観察すると、そのひとは――新門さんは垂れ勝ちな眉の根をきつくきつく引き絞った。不機嫌そう、と言うのは音の印象だけを切り取っての表現だが、喉に小言や溜息が詰まっているかのような呻き声は私の身を案じて漏れ出た慈心の一端に違いない。ならば、ばつが悪くもなる。
「悪化する前に薬塗っておけ、って、俺ァ言った筈なんだがな。」
「水仕事をする度に塗るのは、その、面倒で、つい。」
「それでこれだけ荒れさせてたら世話ねェな。」
不用意に触れて痛がらせぬようにと、ぱっくりと亀裂の入った節を避けて手が握られる。これもまた心遣いのようく見え透くやんわりとした力で引かれるが、すたすたずんずんと廊下をゆかれる足取りの方は有無を言わせるものではなかった。
軈て連れて来られたのは、新門さんに割り当てられた部屋だ。勝手知ったる私室の半ばに踏み込むと、ぱ、と手は離された。新門さんがどっかりと腰を下ろして、座れ、と上目遣いで下知せらる。気を付けて見てみれば、彼の傍らには押っ取り刀ならぬ押っ取り救急箱が。お勝手で待ち構えていた時から片手に提げていたらしきそれを押し開けると、中から消毒綿の入った瓶を取り出そうとしているではないか。
「軟膏を、頂けますか。この手荒れは乾燥によるものなので。」
「軟膏……どこにしまったか。」
絆創膏を出し、綿紗を出し、湿布を出し、腹薬を出し仁丹を出し。見通しの良くなった救急箱の中から包帯の台座にされていた小さな軟膏壺を見付けるのは、私の方が早かった、ように思える。しかし、今か今かと出番を待つ小さな容器を摘まみ出そうとする手は敢えなく空を切るのであった。新門さんが颯と取り上げてしまった為だ。
「頂けません、か……?」。頂けない。辿々しい問い掛けなぞは撥ねて除けて、新門さんは軟膏壺の蓋をくるくると回して開けている。
「俺が塗ってやる。手、出しな。」
促したそばから救急箱の上を彷徨していた手を攫うのだから。
新門さんの薬指がたっぷりと軟膏を掬う。そうして、ちょん、ちょん、と人指し指と中指の皹割れへこまやかに付けられ、親指で以て塗られる。
能力者である所為か、新門さんの体温は常人と比べて余程高い。こうして手を包まれていると、手の平はじわりと汗ばみ出し、身体はぽかぽかとして来るくらいに。まるで皮膚の下に赫々とした炎が熾っているかのよう。
それ程に熱い血潮を隅々にめぐらす身体なのだから、新門さんの指先で、軟膏はいとも容易く蕩けてゆくのであった。柔らかくなった薬があかぎれに染み込む。思わず吐息したのは、何も痛がったからではない。皹の切れて赤々とした節々をこれ以上は痛め付けぬようにと、ゆるうく撫でてくれる優しい指の仕草を、如何して痛がれよう。繰り返し、繰り返し。塗り重ね、重ねて触れると、忽ちに傷は癒える。そのように信じているかのような丹念な薬の塗り方であった。
健康な黒猫の毛皮の如くつやつやとした御髪が御簾となって隠す、新門さんの表情を垣間見る。何時もは気怠げに伏せられている目蓋の様子は、今は何所か物憂げだった。
「新門さんは心配性ですねえ。」
「誰がそうさせてると思ってんだ。」
「私、だったりしますか。」
「おう。ご名答だ。」
「けれども、何もそんな顔をしなくとも。これしき、どうって事はありませんよ。慣れてしまえば気にもならなくなりますから。」
「お前なァ……。痛みに慣れるなよ。俺ァ前も言ったぞ。先月の、針仕事で指を刺した時だ。」
そうであった。放って置けば治る傷だ、とあの時も私は絆創膏を取りにゆくのを億劫がって、見兼ねた新門さんが救急箱から絆創膏を持って来てくれたのだ。
新門さんの膝の傍らに控えている軟膏壺へと目を遣る。こってりとした真っ白な軟膏は、巷でも評判になっている覿面の効き目の割りには目減りしておらず、嵩は新品同様である。
此所は荒くれの集う第七特殊消防詰所。唾でも塗っておけば治る、と怪我も手荒れもなおざりにし勝ちな大雑把な男所帯なのだから、当然と言えば当然ではあるのだろうが。其所で女中仕事をしている私も何時しか感化されていたようで、彼等の世話にかまけてあかぎれの一つや二つでは薬を塗る事を不精するようになっていた。
――だからこそ、このひとを気忠実にしてしまったらしい。幼子の頭でも可愛がるかのように、爪の根本に霜柱のように生じた幾つものささくれを軟膏で撫で付けていた指が、今度は粉を吹く指間を潤そうと向かってゆく。小さな傷の一つ、よくも見付けてしまうひとだとつくづく驚いてしまう。
「惚れた女が粗末に扱われてんのは頂けねェな。もっと自分を労ってやれ。」
幼い頃より纏を振り続けた手は皮が厚く、大きな節は固く、手の平は肉刺だらけでかさついて、武骨と言う言葉が全く相応しい。けれどもこの手が人の為に為す事と言ったら如何だ。愛情深く、気が行き届いて甲斐甲斐しいったらないのだ。
手の世話をされている間じゅう、私は、自分が鑿や釘締めにでもなったかのような心地を味わっていた。新門さんが纏を振るようになってからずうっと使い続けている、愛用の大工道具のような心地だ。丁寧に、丁寧に。町の修繕作業を終えると欠かさずに手入れをされるそれには、永く共に在れるように、との思いが込められている。
明日をも知れぬこの世で、夢想ごと、みたいだ。
軟膏を充分に塗り込めると、新門さんは手近にあった手拭いで指先に纏わる余分を拭い去った。軟膏壺の蓋が確と閉められる。自然な手付きで救急箱の中に戻そうとしていたが、不意に私の片手を取るとたなごころを天へと向けさせた。ころり。真ん中に軟膏壺が載せられる。
「替えは用意しておくから、これ、持ってろ。――ちゃんと使えよ。いいな。」
念を押した切り、むっつりと口が噤まれる。返事は要らぬと引き結ばれた唇は少し尖って、先には心配がとまっていた。最強の男に、好きなひとに、これだけ気を揉ませておいてものぐさな態度を取れる程の図太さは持ち合わせていない。一つ、神妙に頷いてみせる。
――何時かは。何時かは、私が無頓着となっていったように、このひとも私の手の傷を見過ごすようになるのだろうか。そうなったとて何の不思議もない。この世に永遠はないのだから。
当たり前の事をさみしく感じてやまぬ我儘なセンチメンタルなんて、笑って誤魔化してしまえ。私が何れだけ信用のない顔を形作ったものかは、鏡の無い部屋では知る由もない。強くまたたく赤い光がこの瞳の中心に投げ掛けられる。かと思えば、新門さんは折角拭った手でもう一度、軟膏でべたつく私の手の甲をそうっと撫でた。
あたたかくて、嗚呼、いとおしい。
▼
二十五年前、世界は変貌した。
変貌、と言う言葉が相応しいかは今以てわからない。根を変えられて、花は同じと言えるだろうか。――などと言った小むつかしい議論は学者先生にお任せするとして。
馬券、車券、舟券、表通りには色取り取りの紙屑が散乱して足の踏み場もない。自主的に店先を掃き清める働き者の洋食屋のマスターに会釈をして、以前には第七特殊消防詰所と呼ばれていた我が家への帰り路をゆく。
二十五年もあれば如何様な世界の如何様なものでも変化する、と言うのが私の見解だ。それは、此所、浅草の町も例には漏れず。在りし日には隣り合う他区から訪れた観光客を相手に商売をしていたこの町は、今や世界を相手取っていると来たものだから、大出世も大出世であろう。何せ、神様が音頭を取って目一杯に楽しく暮らして来た浅草の町の人達だ。世を楽しむ事は大の得意。新たなる世界でもその精神は息付いており、楽しむ、を極めて行くと、浅草はあっと言う間に世界随一の遊興都市へと成長を遂げてしまった。幻想的な角やら翼やら多くの脚やらの生えた馬が走る競馬、灰島のメカニック部が一枚噛んでいる命知らずの競輪、最近では隅田川で競艇が飛沫を上げている。他にも種々様々な賭け事が横行し、日々、彼方此方で喜びの悲鳴と本物の悲鳴とが代わる代わる町じゅうを騒がしている。嘗ての浄土が天国地獄いっしょくただ。
ヨイショと夕餉の材料や髪に塗る為の椿油を詰め込んだ風呂敷包みを持ち直して、道の先を見据える。四つ辻に人集りが出来ていた。
「大方、喧嘩、でしょうねえ。」
建物が犇めき合って乱立するこの町の中で目の前の四つ辻は広々としていて、思い切って喧嘩するには打って付けの場所なのだ。
二十五年前に変わったのは世界だけではない。何よりも人の生命が変生した。たった一つの生命を失ってしまわぬように恐る恐る生きて来た人類であったが、炎から解放された二十五年前、誰も彼も頭の中の螺子が一本か二本か将又何十本か外れてしまったのだ。お陰様で、現実に留められていた意識はぷわぷわとして、思うさま何所へでも行けそうな自由を感ぜられる。そして、この享楽の坩堝には自由を謳歌し過ぎる人間が多く集まるのであった。
隣で当たり券を振っていたから等、何て事のない切っ掛けでかんらかんらと笑いながらの殴り合いが繰り広げられる、朝な夕なと喧騒の絶えない四つ辻。十重に二十重に取り巻く野次馬が、その中心に空き缶だったり靴だったり新聞の束だったりを投げ込んで、喧嘩の鎮まらぬように焚き付けている。物々が飛び交う合間を縫ってやんややんやと沸き上がる大笑い声。何十年も昔にも見た景色であった。人が次々と燃え、火の点いた町で男達の拳が舞う、喧嘩祭り。
懐かしんで目は細まり、ぼうっと人垣を眺めている、と。ドンガラガッシャン! 筋骨隆々とした男が野次馬の何人かを巻き込む勢いで吹っ飛んで来た。巨躯は其所の団子屋の縁台に激突、頭からピュウピュウと血を噴き出させているにも関わらず、それすらも可笑しそうにして伸びてしまった。
口笛指笛が熱狂を奏でる。勝者に喝采を捧ぐかのように、空に舞い散るは握り締められて皺くちゃの紙吹雪。
「おいおい、もっと骨のある奴ァいねェのか! お前ェら、折角浅草に来たんだ。遠慮する事ァねェんだぞ! 旅の土産に掛かって来な! ――この新門紅丸が相手してやらァ!」
外れ券の吹雪の中から威勢の良い凄み声が朗々と鳴り渡る。それが鳴りやまぬ内に続々と雄叫びが上がり、挑み掛かった人間の数だけ鈍い音が上がり、一人宙に浮く都度に歓声が巻き上がり。
熱気が上がり切った狂乱の輪を割って、のっそりと主役が御出座しになる。
私達の神様は、随分と昔におしまい。世界じゅうに英雄として名を刻んだ浅草の町の顔役は、着流しに被さる羽織を背負い直して、ひたと此方を見た。「よう。」。前髪に引っ付いた馬券を取り払い、返す手で、高い位置で結われた長い髪の束を背へと追い遣っている。撓垂れ掛かった馬簾を払う時によく見せていた手の動きだった。団子屋の主人と後継ぎが目を回している男を運び出すのをひょいと避け、堂々たる歩みで距離を詰めて来た、最強の看板を未だ降ろさぬこのひと。新門紅丸さん。私の旦那様。
つ、と目を合わすなり、眦に柔らかな皺が寄る。今し方、無法者を相手に切った張ったの殴った蹴ったの大立ち回りを演じていたとは思えない穏やかな表情に、胸の奥が擽ったくなる。
「今、帰りか。」
「ええ。紅丸さんは、今日は世界英雄隊の方々に稽古を付けに行ったのでは。お帰りが早くはありませんか。」
「手抜きしちゃいねェよ。ちゃんと全員伸して来た。」
「やんちゃですねえ。流石は、生ける伝説さん。」
「ジョーカーのやつの言ってる事だろ、それ。」
付かず離れず、二十余年来の付き合いとなったスーツ姿の友人を脳裏に闊歩させて、紅丸さんが背に垂らした後ろ髪を気にする。そろそろジョーカーさんと同じ長さに達するだろうか。
「あいつ、好き勝手に言うだけ言ってふらっとどこかに行きやがるからな。お礼参りも出来やしねェ。今頃何してんだか知らねェが、次に顔を見せるのはいつになる事やら。」
「童顔だと言われた事、それ程に気にされていたんですね。紺炉さんのように髪でも伸ばしてみたらどうか、なんて、私からしてみると面白い提案でしたけれど。」
「お前の手入れがなけりゃァ……そうだな、俺一人だったらとっとと切って小ざっぱりしてただろうよ。」
「付き合わせてしまってすみません。紅丸さんの髪に触れるの、余りに楽しくて。」
「構わねェよ。俺にとっても悪くねェ時間だ。」
紅丸さんは私の提げていた風呂敷包みを持ってくれると、家の方へとつま先を向けた。前を歩かずに隣に立ってくれているのは、新たに始まった喧嘩に興奮覚めやらぬ人の輪に、私が取り込まれてしまわぬように気を遣ってくれているからだ。
渦中から抜け出して、人びとの楽しげなにぎわいを背に浴びる。彼は一言、「うるせェったらねェ。」と憎まれ口を叩いたが、捻くれている唇だ。その端っこは小さく持ち上がっていると見ずともわかろうもの。三つ子の魂百迄、とはよく言ったもので、幾つになってもお祭り騒ぎが大好きなひとなのだ。取り巻く人びとのにぎやかさは昔と変わらず、それどころか弥増しているのだから楽しいったらないだろう。
十年前とも二十五年前とも、それよりもうんと前とも相変わらぬ楽しげな横顔を見詰めていたら、不図、空となったこの手に赤い視線がとまった。透かさず掬い取られる。紅丸さんは私の手を間近でしげしげと眺めると、ご機嫌であった笑みを引っ込めてしまった。時が目もとに付けた引っ掻き傷は深くなり、何時か見た物憂げな眼差しが肌を撫でる。晩酌の肴の鯣のように粉をふいた手の甲が、先ず親指でさすられた。あかぎれが目立ちはじめた人指し指の節の周りが慰められる。
「帰ったら、薬、塗ってやらねェとな。自分は二の次なところは昔っから変わらねェな。――ったく、手の掛かる嫁さんだ。」
仕様の無さそうな苦笑を前へと向かせて、紅丸さんは私の手を引く。痛がらせぬように、やんわりと手を引く。
二十を超えたばかりの若い時分よりも甲に血管の浮き出た手は老成していて、人生のうち、纏よりも刀を握っている時間の方が長くなっていた。弛まず固い儘の皮膚の感触を、握り返して確かめる。藍染の火消し装束を纏っていた頃よりも体温は幾分低く、人肌、のそれだった。
神様は、とおくに。だとしても、このひとはここに。何時迄経っても目敏く痛みを見付けてしまう、優しいひとはここにいる儘。
「苦労を掛けます。」
「その分、大事にし甲斐があるってもんだ。」
永遠はないのだと、思っていたけれどもここにあったみたい。
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