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目がチカチカする。
紅丸が紺炉にそう訴えた日は、からりと晴れた蒼天のもとを風が荒々しく駆け抜ける、土埃のよく巻き上がる日だった。だから紺炉はてっきり塵でも入ったのだと当て込んだのだ。
医者にはかかったのか。医者は嫌ェだ。俺は医者じゃねェんだ、何ともしてやれねェぞ。
とっとと行った行った、と町一番の診療所に追い立てる紺炉。渋っては黙りとなる紅丸。軈て、風呂に行って来る、と言い残して第七特殊消防詰所を出て行った紅丸だが、その実は重たい足を引き摺っても診療所の扉を叩いたのだと診察を行った老医者は語る。詰所の玄関に早速腰を下ろすと、加齢により遠くなった自身の耳にも届くように大声で話しはじめた。
紅ちゃんが来た時はびっくりしたもんだよ! うちに来たのはいつ以来だろうね!
風邪も滅多に引かぬような一等の健康児が、目がおかしい、と頼って来たのだから嘸かし老体の心臓に悪い話だったろう。
――それで、どうなんだ、紅の目は。
口火を切った紺炉の身体じゅうに緊張が張り詰める。態々詰所に足を運んで迄話があると言う事は、身内には詳らかにしておかなければならない重大な病にでも罹っているのか。意を決して診断を待つ紺炉に、しかし、医者の下した見立てと言えば今日の日の空のように晴れ晴れとして雲一つ無いものであった。
なあんにもなっていないよ! 至って奇麗!
聞くだに上がり框に安堵の長息が落とされた。だが、杞憂が居座っていたところに間も無く入り込むは、紅丸の身に一体何が起きているのか、と言う疑問だ。
目ん玉に異常はなくても目が悪くなる病、って事はないか。
慎重にも重ねて問い掛ける紺炉を、医者は呵々と大きく笑い飛ばした。
紺ちゃんも過保護だねえ! 目が悪くなる病なんて、一つしかないだろうに!
話はこれで終いとばかりに、ヨッコラショ、と老医者は三和土に降り立った。亀の甲より年の功、と。如何にも訳知り顔で面貌に刻まれた全ての皺を深くしている。矍鑠とした足取りで詰所を立ち去る曲がった背中に向けて、藍染の暖簾が手を振るように揺れ、手招くように今一度揺れる。老医者と入れ違いに外から暖簾を潜ったのは、紅丸であった。
――どこか調子でも悪いのか。
詰所から医者が出て来るところを目撃したのであろう。三和土から紺炉を見上げる紅丸の眉は、暖簾の向こうに広がっている晴れ模様に反して曇っていた。それはお前の方じゃねェのか、と追及したがる紺炉の兄貴分心を仕付けたのは、老医者の呵々大笑。自分が赤ん坊の頃からこの浅草の町の人間の怪我や病と向き合って来た、歴戦にして腕利きの医者の言う事だ。真実、心配はないのだろうと信じられた。己が身を案ずる弟分の憂いを取り除こうと、紺炉は静かに笑んで障りのない事を伝えた。それでも尚、ジ、と真紅の双眸は顔色を確かめて来る。斯うして見てみても変わったところは見受けられないが。
紅、まだ目はおかしいか。偶にな。あんまり触るんじゃねェぞ、悪化する。ジィさんは何にも言ってなかったから平気だろ。そいつはさっき聞いた、ジィさんからな。……そうか。
用事とは紺炉の身体についてではなく自らの身体の話であったのだと悟るなり、紅丸の肩からはすっかり力が抜けたようであった。袖の中の腕を組み直し、首をめぐらすと、真っ赤に光る瞳が外を向く。暖簾の隙間から何かを追っては求めているかのような眼差しであった。
心配かけるな。何でもねェに越した事はねェんですが。あいつにも同じような事を言われた。
あいつ、とは、紅丸が懇意にしている娘の事だろうと直ぐに察せられた。娘と顔を合わせる度、娘の話をする度、紅丸の相好は知れず崩れる。普段から楽しそうにはしているが、娘が関わると取り分け、飛びきりあたたかみを帯びるのだ。今も詰所近くで出会した娘の影をひた向きに見詰めているに違いなく――其所で紺炉は、若しや、と思い当たった。
目がチカチカするって言っていたが、もしかして、あいつと一緒に居る時にばかりなっているんじゃァ……。おう、よくわかったな。
わからいでか! 目が悪くなる病、成程、ご尤も。新門紅丸と言う男は酒もやる、博打もやるが、女は味わって来なかった。人生を捧げるかのように火消し一筋に生きて来た男だ。その手の感情に疎くても仕様が無いのかも知れない。今晩は赤飯でも炊いてやるべきか。弟分に、仰ぎ見る男に、春の訪れ。紺炉の頬はもう、むず痒くなって仕方がなかった。
あいつを見ていると眩しくて目も開けていられねェ、早いところどうにかしてェんだが――おい、紺炉、その顔は何か知ってるな。
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