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火消し装束の膝に置かれた手に、触れる。骨張った手の甲は直ぐに返され、大きさの違う手の平と手の平とがぴとりと合わさった。障子紙を透かして柔らかくなった日の光の中。あたたかに迎え入れられた手指は、その体温に溶かされてしまったかのように、新門さんの指に纏わるのであった。
用向きを終えた私と、日課の散歩の最中に通り掛かったらしき新門さん。我が家の在る通りで私達が鉢合わせたのは、八つ時に差し掛かろうと言う時分だった。良ろしければ家でひと休みしませんか、今ならば出先で頂いた美味しいお煎餅も付きます。誘い掛けると二つ返事で首肯してくれた恋仲のひとを茶の間に招いて、二人、隣り合って熱いお茶を啜って長閑な時の流れにひたっていたのだが。不図、思うところあって新門さんの手に触れると、薄ぼけた空気が色付いたように感ぜられた。
湯呑みの底が、卓袱台に据わる。来客用として食器棚を飾っていた一個だったが、今となっては新門さん用となっている湯呑みからくゆる、湯気。それが微かにかすかに揺れた。新門さんの動くのに合わせて。すい、と。顔を覗き込まれた、かと思えば、鼻先が触れ合いそうな親しいところ迄近付かれる。何がしたいのか、なんて、心を映し出す素直なまなこをひと目見ればわかる事だった。吐息が交わる、その前に俯いて逃げ果せる。
「そう言うのではないです。」
「じゃあどう言うんだ。」
垂れた頭に、こつり。額が預けられた。新門さんの表情は窺えないが、肩透かしを食ってまるで項垂れているようではないか。遣る瀬無さそうな声音も相俟って非常にばつが悪くなって来る。「ええと、」と。居た堪れなさにきゅうと締まった喉から絞り出した前置きの、なんと弱々しいこと。
「昼間、ヒカゲちゃんとヒナタちゃんと手を繋いで歩いていた時に、言っていたじゃあないですか。「俺が握れる手がねェじゃねェか。」って。だから、今、こうして、手を握りました。」
小さな彼女達の手々にしていたものとは全く違う手の繋ぎ方、だけれど。視線の先には所謂、恋人繋ぎ、と称される親密に絡んだ男女の手が在る。新門さんの胡座を組んだ膝の上から手も目も離せずにいると、もの思わしく、小さく唸る声が落ちて来た。
「あれは言葉の綾ってやつだ。あのままでいたらヒカゲとヒナタに商店街を引っ張り回されてただろうよ。――夢子、お前、急ぎの用があったんだろ。」
「よくおわかりになりましたね。」
確かに、あの時、私には用事がつかえていた。この浅草の町には珍しく時間に厳しい伯母からお呼び出しを受けていたのだ。だとしても、遅刻が危ぶまれたならば全力で走れば良いと、遅れたならば平謝りしようと、ヒカゲちゃんとヒナタちゃんのきゃらきゃらと楽しげな笑い声に覚悟も決まろうものであったが――新門さんは、飽く迄も私を気遣ってくれたらしい。しかし、新門さんの思いとは裏腹に、その文句では二人共微動だにせず、代わりに、脇から差し込まれた「三つ目の菓子屋のおばちゃんがヒカヒナちゃんを呼んでいたよ。」との声掛けこそが天の声となったのだから、まったく名状し難い。あっさりと私を置いて駆け出してゆく彼女達から解放されて、俄に空となった手。だのに指一本も触れられなかった事に、おや、と引っ掛かりはしたのだ。問い掛ける前に、「じゃあな。」の一言で踵を返して、此方もあっさりと雑踏に消えてゆく藍色の背を思い返す。それだって気を遣ってくれたのだろう。其所で引きとめられなかった為に伯母からのお叱りは免れたと、有り難がる気持ち以上に、このひとに大事にされている実感が胸に染みてゆく。
「ありがとうございます。お陰様で無事に間に合いました。」
「俺ァ何もしてねェよ。」
「手を取って連れ出そうとしてくれたではありませんか。」
「そりゃァ、あれだけ困った面して引き摺られてたらな。口も手も出ちまう。」
「困っていたのは、ちょっとだけ、ですけれど……それ程、顔に出ていましたか。」
その筈はない、と思う。ヒカゲちゃんやヒナタちゃんはお転婆さんではあるが、乗り気でない人間を連れ回すような詰まらない真似をする子ではない。私の内側の、伯母との用事も大事だがこの儘彼女達と遊んでいたい、との稚気を酌み取って手を引いてくれたに違いない。日の位置を確認しては責っ付いて来る大人げな私は、あらわれていたとしても、眉の端っこや口の端っこにだろう。新門さんはその、ちょっとだけ、を見抜いてくれたのだ。
「惚れた女の事だ。弱ってるかどうかくらい、顔見りゃァわかる。」
皮の厚い親指の腹が、私の親指の背を慰撫する。爪を、節を、丹念にさするさまを眺めている内に、頭に僅かに掛かっていた重みが去った。視線を撥ね上げた先に描かれている、新門さんの特徴的な垂れた眉。それは不思議と少しの苦味を持っていた。
「夢子はあいつらを甘やかし過ぎだ。」
「私が遊んで貰っているんですよ。それに、新門さん程ではないと思います。」
「今は俺の話はしてねェ。」
思い当たる節が幾つも幾つもあるのだろう。ムッと突き出された唇は、図星を突かれて不貞腐れたようになっている。
年の離れた弟妹分は可愛いと聞くし、もとより、無邪気に慕い寄って来る二人のきゃいきゃいころころとはしゃぐ姿ったら可愛らしくてならないのだ。大切にしたくもなろうと言うもの。ヒカゲちゃんとヒナタちゃんの「きょう若がねー、」からはじまる、あれをしてくれたこれをくれたの自慢話を思い出してゆく。仲が良くて何よりだ。
「まあ、気持ちはようくわかりますけれどね。可愛い子は甘やかしたくなるものですからねえ。」
胸のあたたかくなる微笑ましさに自然と弛み切った頬が、そうっと。真綿や羽毛でくるまれるのにも似た、傷付くおそれの一切ないやわらかな手付きで以て、そうっと包み込まれる。それから固く結び付いていた手が解かれた。然れども束の間だけの事で、新門さんは姿勢を変えるなり、改めて私と手を繋ぎ直す。卓袱台に向いていた身体が居直って此方を向いたのは、私に触れやすいように、だった。
頬から移った手の平が、頭蓋の丸みから顔の輪郭の形を覚え込みたがっているかのようにじっくりと撫でて来る。部屋に射し込む陽光よりもあたたかな熱に、ぬくめられてゆく身体の真芯。心地好さにうっとりと目蓋を閉じかけていると、固い指先に耳輪を掻かれた。横髪を耳に引っ掛ける仕草は、何所か官能的な甘さを秘めていて。皮膚に走った感触以上に胸のなかが擽ったくて堪らず、思わず身動ぎをする。彼の膝の上で仲睦まじくする手に、軽く、力が込められた。逃げてくれるな、と笑っているみたいであった。――否。比喩ではなく如実に、甘やかに、新門さんは笑っていた。
「可愛い女は甘やかしたくなるもの、なんだろ。」
か、わ、い、い。
好きなひとから口説き文句を頂戴して跳ね回らずにいられるような、鋼の乙女心は生憎と持ち合わせていない。仮令揶揄われているのであっても、初めて聞かされた台詞であれば尚更そわそわとして、身体毎浮き上がってしまいそうだ。平静を求めて、自由を許されている片方の手指が畳の目を数え始める。だが、爪先に感覚がない。早鐘を打つ心の臓のざわめきが神経を掻き乱してしまっている所為だ。卓袱台の木目や湯呑みの中の茶の水嵩や菓子器の中の煎餅の枚数等、意図も無く次々と目移りさせて意識を散らせども、ちっともまともになりやしない。
「可愛い、なんて。私。少し、びっくり、しました。」
新門さんでもそんなご冗談を仰有られるんですね、と軽口を叩きたかったのに。どれだけ取り澄ましてみせようとも、私の舌ったら熱されて縮こまって拙い調子でしか話せずに、逆上せ上がっていますと大きく告げているようなものであった。
熱にやられて右往左往、前後も不覚。このひとの目には嘸やおかしな女と映っている事だろう。真紅の鏡を覗き込んでみる。目線がやや外された。それは小首が傾げられたからであり、それは引っ絡まった私の言葉を手繰って理解しようとしているからだと、わかった。新門さんは思案深そうにして尚、私の髪を梳く甘やかしの手は止めずにいた。ひと呼吸分だけ間を置いて、言われる。
「無頼者にはあんまりピンと来ねェんだよ。可愛い、ってのは。だが、お前ェが笑ってる顔を見ているとこう言うモンかと思える。――愛しい、だったらごまんと覚えがあるんだがな。」
仮令揶揄われているのであっても、だなんて、ご冗談を仰有られる、だなんて、疑うのは飛んでもない事だ。その声音は嘘偽りの一つもない、真剣、そのものであった。
ふ、と。日溜まりを思わせる穏やかに笑む顔に、胸が詰まる。今しもはち切れそうで苦しい思いをしている其所には、新門さんが私に抱いてくれている気持ちとおんなじ気持ちが、目一杯に詰め込まれている。曰く、愛しさ、が。
私の顔は今、締まるところのないふにゃふにゃの、幸福ですと吐露してやまぬ顔付きになっている事請け合いだった。「それは、私だって、」とまごころを口にすると、火照り、じんわりと汗ばんでゆく手。
「……新門さん、髪、撫でるのお上手ですね。妹のような子達が身近にいるからですか。」
「そう言うつもりで撫でてねェって、わかって言ってるな。」
やにわに見舞われた気恥ずかしさを如何にかすべく、熱冷ましに話題を変えようとしたのに。手の平全部で私の頭をくるりと丸く撫で付けたのち、新門さんの指は耳の後ろから首へと伝う。爪の先で甘く、首筋を掻かれる。それだけで意識のすべては彼に引き寄せられて、視線一つにしても逸らすすべが失われてしまう。
長襦袢の衿の内側に指先を侵入り込ませて、じい、と。黒髪の合間から熱っぽく見詰める真っ赤な瞳が、暴いても良いか、と問い掛けて来る。
事が此所に至ると、汗で湿り気を帯びているのは何方の手なのかわからない。二つの手の温度は境界があやふやになるくらいに混ざり合って、一個の熱の塊のようだ。この儘、身体も溶け合えたならばどれだけ――。
願うなり、長襦袢に掛かっていた新門さんの手が私の着物の帯へと下る。嗚呼、そうだ、「顔見りゃァわかる。」と言っていた。それでもきちんと言葉にして示さなければ。甘えた儘は居心地が悪い。帯を解く為に分かたれようとする手を引きとめる。彼の小指を小さく引いて、「新門さん、」と名前を呼ぶ声は、私自身も驚く程甘ったるい。黙して次を待つ新門さんの喉が静かに上下する。顔を見ればわかる、私にも。生唾と共に飲み込まれたのは、期待、なのだろうと。
見通した通りにお願いを、おねだりを、恥ずかしげもなく舌に乗せ――ようとした時。
パー、プー。明かり取りの障子戸の向こう、遠くから豆腐売りの吹くラッパの音が響いて来た。
パー、プー。間の抜けた音色は昼下がりの長閑さを象徴するものであり。
パー、プー。近付いて来る毎、白々と光る障子紙が嫌でも気になってしまう。
「……今は日が高いので、夜まで、待ってください。」
ようやっと出て来た声は我ながら苦々しく弱々々り切ってしまっていた。
膨らみ切った風船が萎んでゆくようなどっちらけな沈黙の中、彼の小指に縋り付いた手が振り切られる。萎縮して申し訳無くする隙など与えられなかった。すり、と。唇に、節の固く、肌理の少しばかり荒れたざらついた刺激。新門さんの節榑立つ人さし指の背が、私の唇の端から端をゆうっくりと撫ぜてゆく。焦れったいと思えてやまぬその仕草には、彼のうちを焦がすもどかしさが十全に乗せられているのだろう。
「太陽、壊しちまうか。」
お手本のような顰めっ面がぼやく。新門さんだったらやれそうだ。彼が本気であるならば笑い事ではない筈なのに、だからこそ可笑しくて、ついつい吹き出してしまった。次いで飛び出した笑い声が部屋の四隅へと転がってゆく。ぽかんと開けた上唇と下唇の真ん中に人さし指が跨がって当てられたので、静かに、との言葉無き言葉の通りにする。
「これくらいだったらお天道さんも見逃すだろうよ。」
頤が捕らわれる。真紅の輝きがこの瞳の真ん中を射つ。吐息が綯い混ぜとなり、噤んだ唇にそろりと交わされた、接吻はふたつとみっつと。重なる都度に日射しが霞んでゆくようで、いけない。もうひと息で、あやうい。
意識のへりが蕩けかけたところで、日の目を忍ぶ唇のまぐわいは終えられた。名残惜しく、ほう、と詰めていた息をほどく。
「見逃して、くれますかね。」
「これでも堪えた方なんだがな。」
「欲張りな新門さんも好きですよ。」
「……お前が可愛くてならねェんだよ。がっつきもする。」
「可愛いだとかはよくわからないんじゃあなかったんですか。」
「今、よォくわかった。」
新門さんは最後にもう一つだけ口付けを為すと、照れ臭いと言わんばかりに乱雑に頭を掻いて卓袱台に向き直った。湯呑みを手に取って、一口二口とお茶を啜る。彼に倣って私もからからに干からびた喉を潤す。お茶は冷めつつあるが、熱を持った身体には丁度良い。
新門さんにようく理解させられる程の、可愛い。それが宿っているらしい私の今している表情に興味は湧けども、鏡でも見ない事には確かめようがない。もしかすると、彼の取って置きの秘密として永久に謎めいてしまうやも知れない。恋人繋ぎに直された手指は如何とも離れ難く、離されず、湯呑みも急須も空になっても睦み合った儘なのだから。
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