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「紅丸新門! 貴様、所帯を持ったと聞いたが本当か!? 大変喜ばしい事で何よりだ! ならば規則委員会会長を拝命したグスタフ本田の名のもとに、今こそ開催するよりあるまい。特殊消防隊既婚者限定訓練・奥様運び選手権!」
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「――それで、その喧嘩、買って来ちゃったんですか。」
紅丸さんが帰宅早々寄越して来た、一枚の書類。其所には如何にもお硬い組織らしい如何にもなお硬い文章がずらずらと並べ立てられていて、読み解いてゆくにも、目を通す、よりも、目が滑る、の方が正しいような有りさまだった。それだけがちがちに格式張っている分、太字で打たれた『奥様運び選手権開催について』と言う件名の異質さが浮き彫りとなっているのだが。素ッ頓狂な訓練もあったものだ。
「幾ら桜備さんから取り成されたとは言っても、まさか二つ返事で参加するとは。」
「皇国の祭りでも祭りは祭りだからな。」
火事と喧嘩は江戸の華と言うが、この「江戸」は火消しを指していたらしいとは原国の暮らしぶりについて記された資料で見たもので、「江戸っ子」と呼ばれていた彼等はお祭りも大層好きだったとも残されていた。なれば、紅丸さんは誰よりも江戸っ子だろう。むっつりとした表情から、それはもううきうきとして楽しそうな感情が溢れ出てしまっている。縁側から庭に降り立つ足取りも、何時もよりも軽やかに見える。
「ほら。」
「はい?」
手を伸べられたので、素直に書類を渡そうとする。直ぐさまに断られた。
「思えば、お前を抱き上げるなんて滅多にして来なかったからな。こっち来な。少し、抱かせろ。」
「抱かせろ、て。真っ昼間ですよ。」
「違ェよ。」
態とらしく科を作ってみせたら真っ向から素気無くされた。お祭りに対して真剣が過ぎる。うんともすんとも言えず動けずとして居る内に、気不味い沈黙が、二人の間に居座った。膝に下ろした書類の影で下っ腹を撫でる。好きなだけ、好きなように。そう甘やかす紅丸さんに甘え切った日々は、此所に贅沢な肉を育んだのだ。通達には、雨天中止、ともあった。当日はざんざん降りの大雨になってくれやしないものか。仮令願いがいずこかに通じたとて、大事なのは、今、だろうに。紅丸さんは、何が気に入らないのだ、と思案顔で顎に手を遣って私を見下ろしていた。
「俺の女はお前だけなわけだが、その嫁さんが担がれたくないってんなら、さァて。どうしたもんかな。」
「……後、一週間、待ってください。」
「待てるか。」
書類を奪われたと察知した時には、既に腕は引かれていた。縺れそうになる足で紅丸さんの真ん前に引っ立てられる、と、ふわりとした浮遊感に見舞われる。何もいとおしいひとを前にして心を浮かれさせた訳ではない。浮かされているのは、身体、だ。横抱きに、されている。他者にすっかり身柄を預けるなんて慣れぬ事で、手は何所に置いたら良いものか、足は力を抜いて良いものか、わからずに四肢をぎゅうっと縮こまらせるしかない。借りて来た猫の方がずっと伸び伸びとしているであろうと思えるこの身体を、紅丸さんは二度三度ともの珍しそうにまばたきをしながらも、じいっと見詰めて来てやまない。凄く、居堪れない。
「矢張り、重いですか。」
「いや。丁度良い。」
「重いんじゃあないですか!」
「抱き心地が良い、って言やァ伝わるか?」
首を傾ける紅丸さんに、詭弁だ、とは言えなかった。近いところから一心に注いで来る眼差しは、笑ってはいるが揶揄してはいない。真実、彼の腕には大した事のない重さなのだろう。そうして膝裏と背とを確りと支える手の存在を意識すると、胸もとで組み合わせていた手から、緊張に硬直した足から身体から、力が抜けてゆく。重心の変化をつぶさに感じ取ったのか、軽々と抱え直された。一歩、二歩、と庭を歩いてみてから、紅丸さんが何某かを考える素振りを見せる。
「いまいち安定しねェな。――ああ。首に腕、回しな。」
「こう、ですか。」
言われた通りに、身を乗り出して彼の首に腕を絡める。力加減を誤ったら締めてしまわないか。冷や冷やとしながら肩口に頭をうずめているが、また三歩四歩と進んで、足運びを確かめている風であるので心配は無用らしい。只、いざ開催となればこのように歩いてとはいかないに決まっている。紅丸さんよりも自分の腕力の心配をした方が為になるやも知れない。
「奥様を落としたら罰があるそうですよ。ルールにありました。」
「落とさねェから関係ねェ。」
「私の力が及ばない所為で、と言いたかったのですけれど。」
「関係ねェ。」
あっけらかんと言ってのけるものだから、このひとは何があっても本当に私を捕まえた儘でいるのだろうなあ、と。感じ入った胸を感心か感動かが擽って、余りの擽ったさに笑い声が禁じられない。もう少しだけ、抱き付く腕に力を込めてもゆるされるだろうか。身体をもっと密着させると、揺れる黒髪から鼻先に触れる、瑞々しい石鹸のにおい。皇国のお祭り様々、だ。
そしてその勝敗の帰趨は、語るべくもない。
「優勝賞品なんて出ないのですか。」
「訓練だからな。」
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