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この世の終わりを見たかのような面は、終わりつつあるこの世に相応しかろう。
火が落ちた第七特殊消防詰所の廊下を踏み締める。真夜の闇が塗りたくられた板張りは黒々としていて、地獄への道ゆきを思わせた。恐れ戦いて立ち止まっては足裏が凍て付いてしまいそうな程に、今宵の静謐は寒気がする。気を急かし、脚を急かそうとする心胆は既に寒さに縮み上がって、助けを、切に求めていた。
詰所で床に就いている誰もの夢見を悪くさせぬよう、床鳴りに気を配って廊下を歩んで行った先の、ひと部屋。其所からは明かりは漏れていなかった。それでも構いやしない。襖に手を当てて引き手の在処を探り、じりじりと開いてゆくと、隙間から廊下に堰を切って逃げ出して来たものがある。刻み煙草のにおいだ。この部屋では聞き慣れない筈のそれにすわ部屋を間違えたかと血の気が引こうとするが、幾度も幾度も通った道だ。恐怖に縊られていたとて――恐怖に縊られているからこそ、彼のもとに辿り着けない訳がない。躊躇無く部屋の中に滑り込む。据えられた家具の影の形は覚えのあるものであったので、物ものにぶつからずに敷かれた布団の直ぐそばに迄近付けた。その場で膝を折って座り、じいっと、耳をそばだてる。こんもりと盛り上がった布団から、規則正しい息遣いが聞こえる。目を凝らせば、掛け布団から腕が出ているではないか。彼は布団に入る格好も鯉口シャツに防火ズボンと常の火消し装束の儘なので寒そうでならない。枕もとに脱ぎっぱなしで置かれている法被でも掛けてやった方が良いだろうか。膝に置いていた手を持ち上げた、その時。「――ッ!?」。手首を引っ掴まれて、引き倒され、布団の中に引き摺り込まれた。
ぽう、と。部屋の隅に遣られた行灯に火が点る。発火能力によるものだと、見合ったまなこが眠た気にしばたたく度に仄かな光をこぼす。暗闇を照らす燭火よりも安堵を齎してくれる、赤い光、だ。
「ごめんなさい。起こしてしまいましたよね。」
「……夜這いか。」
「何ですか、それ。」
「今更カマトトぶらなきゃならねェような間柄でもねェだろ。」
眠そうな声で揶揄すれども、新門さんの掌中に在る手首が布団に押さえ付けられる事はなかった。お目覚めになり切らぬ様子で欠伸を一つすると横臥する身体をもぞもぞと動かして、私があたたかく寝られる場所を用意してくれた。この際だ。遠慮はせずに譲られた優しい寝床で息をつく。煙草のにおいは火消し装束に纏わり付いているようであった。首をめぐらしてみると、矢張り、橙の明かりの届かぬ暗がりに彼の部屋に在っては見慣れぬ煙管盆が鎮座している。
「火鉢さんの煙管、吹かしたんですか。」
「ああ。あのジジィへの手向けにな。」
もの思わしく逸らされた彼の視線の先には、今日の鎮魂の記憶があるのだろう。
今日の暮れ方に“焔ビト”となったのは、先代棟梁である火鉢さんとも懇意にしていた町一番の長寿のお爺さんであった。これは大往生を遂げるであろうと誰しもが思っていたお爺さん。それが呆気無く燃えた。燃えて、終った。無慈悲な話だ。酷い話だ。悲嘆も憤懣も明日の我が身への恐怖も、けれども、しようがない、に揉み消されてしまうのが私達だ。
「――怖いか?」
それ等全てをすくい上げて抱えてしまうのがこのひとだ。浅草の町に息づく一人一人を平らかに愛してしまう、このひと。
行灯の灯をも呑む赤々とした瞳はしんと凪いだ水面のように静まって、神秘すら帯びている。問い掛ける形を取っているが、触れた指先の血の気の失せて悴んでいるさまが克明な答えだと、彼は疾うに知っているのだ。そう、と。ようく血の通った手指で包み込んで、私の手にぬくもりを分けようとする。
こんなにも慈しみ深いひとに、人、を殺させたくない。私、を殺させたくない。死ぬのがこわい。
「――貴男がいるのに怖いことがありますか。」
涙声では嘘の一つもつけやしない。涙を見せたのでは虚勢の一つも張れやしない。
感情のうしおを目の当たりにして新門さんは眉を顰めたが、それは欺瞞する弱さを咎める為ではない。だって、そうでなければ、怖いことはないと言い聞かせるように確りとこの手を握ってくれる事はない。もう片手でこの頭を胸に掻き抱いて、好きなだけ泣け、とゆるしをくれる事もない。夜更けでも夜明けでも、何時でも直ぐにでも、炎に巻かれた人のもとに駆け付けてやれるように。その意志から寝る間であっても着込まれた火消し装束の腹掛けに、水の玉となった祈りが染み込んでゆく。死にたくない、と。後ろ頭が撫でられる毎に、想いは強く、なりゆけば涙も滾々とあふれた。
年甲斐も無くしゃくり上げて、悪夢に魘された子どもみたいな真似をしてしまった。ひと頻り泣きじゃくる間じゅう辛抱強くあやしてくれたお陰で、気持ちが治まっても彼の懐から中々離れ難い事が心苦しいったらない。
「もう、大丈夫、です。取り乱して、すみませんでした。」
すんすんと鼻を鳴らして目の奥に引っ掛かっている涙の残りを振り落としていると、手からぬくもりが離れ、今度は頬が微熱に包まれる。上向きにされると、背筋を撓わせた新門さんと顔を見合せる事となった。勝手は承知しているが、情けないったらありはしない有りさまとなっているのだからやめて欲しい。余程法被に手を伸ばすか掛け布団を引っ被るかしたかったが、漸く像の結べるような近いところに来られてしまっては隠れられやしない。萎れてつぼむ唇の端っこが、ふに、と。親指の腹で軽うく押される。
「それが、大丈夫、って面か?」
「お陰様で、少しは大丈夫、って面です。」
「だったら、もう笑えるな。」
口端が小さくちいさく持ち上げられる。笑ってみせてくれ、と拙くもねだられているのだとはわかっている、が。
「新門さんは、怖がる事は、ないんですか。」
「ねェな。俺ァ喧嘩で負ける事ァないんでな。気に食わなければ壊しちまうだけだ。」
「さいですか。」
至極単純明快なお答えに、私の願う事は実はすかを食うものなのでは、と思わされて身体が一気に脱力する。最強の男の瑕疵になれる、だなんて。烏滸がましい考えなのやも知れない。
泣き濡れた目蓋が重みに伏せる。透かさず、睫毛に溜まった涙の残滓が払われた。そんな事では壊れてしまわないと言うのに、随分と慎重な指先の仕草であった。
「お前が笑ったら明王だって絆されるんだ。何も怖がる事はねェよ。」
夜を揺らさぬ穏やかな声音は、胸を震わして、心を揺さぶる。艶やかな黒髪の御簾を透かす、赫灼たる光明。それは焔と同じ色をしているのに終ぞおそろしさなぞ与えやしない。見詰められると日だまりにいるかのようだ。真っ赤な日の光を受けて、唇が綻んでゆく。
「貴男がいるのに、怖いことがありますか。」
二言目は真実だった。
安寧が宿ろうとする私の唇を見て、ふ、と。目を細めて微笑んだかと思えば、新門さんの目蓋はその儘ゆっくりと下ろされた。斯様な夜半だ。眠気が身体に満ち満ちて飽和していて当然だった。行灯の火の始末を炎の操作能力でつけると、大部屋に戻らずに此所で寝てしまえ、と私の頭を抱いた腕に力を込めて彼が黙して語る。煙草のにおいが仄かに香った。
「新門さん。」
「……ん。」
「おやすみなさい。また、明日。」
「――ああ。」
短な返事を為しながら弛緩してゆく腕は、最後に私の頭を抱え直すとすっかり力が抜けた。大粒の涙を次から次へと吸い込んでじっとりと湿気った腹掛けだ。熱の溜まった額でも当てていると直ぐに冷やされたが、しかし、地獄の底を覗き込むような寒気はもう感じやしなかった。新門さんの背中に手を回す。手の平に伝わって来るあたたかさこそ、この世のよすがだ。
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大きな春風が布団を蹴飛ばしてしまった。不当な暴力を受けて丸まった掛け布団は、私のつま先に取り付いて助けを求めているかのようにも見える。――嗚呼、朝が来たのか。腫れぼったい目蓋をようやっと上げて、部屋を覆う闇が薄まっている事を確かめる。布団が剥がれたにも関わらず凍える思いをしなかったのは、このひとのお陰――そもそもがこのひとの所為なのだが――何にせよ、新門さんの人よりも高い体温が寄り添ってくれていたからに他ならない。寝苦しさから掛け布団を蹴り遣っても、それでも私を抱き締めて離さずに夜を越えるだなんて、器用な寝相だと感心せざるを得ない。
額に触れる吐息は熟睡の証明であったが。若しかすると、私が寝返りを打つ度に腕の中に捕まえていた、のだろうか。少しの身動ぎをするだけで、新門さんの手は私の身体をそばに引き寄せようと追い縋る。それが何だか、とても特別におもわれているようで。笑い出したいのか泣き出したいのか、わからずに只、彼の名前を唱えてみる。呼応するかのように、薄く開いた唇から掠れた声が漏れ出た。
「新門さん。」
「ん……?」
「おはようございます。」
「ん……。」
何とか半分だけ、と言った力の無さで夢見心地の目蓋が開けられた。本当に朝が苦手なのだろう。駄々に付き合わせて夜更かしをさせてしまった手前、ばつが悪い気持ちになるものの、無防備にうつらうつらとしている新門さんの姿は最強と呼ぶには余りにふにゃふにゃとしていて。つい、吹き出してしまう。
「いい声で笑うじゃねェか。いま眠ったら、夢見が良さそうだ。」
心地よさそうに聞き入っていた風な新門さんに、ぐっと抱き寄せられる。頭の天辺に頤を載せられて、其所からふた度、すうすうと寝息が立てられるのにそう時間は掛からなかった。
「あの、そろそろ、ヒカゲちゃんとヒナタちゃんが起こしに来る頃なのでは。私、お暇した方が――」
「ここにいな。」
とろりと夢に溶けた声でそれだけ言うと、それきり、新門さんはすやすやと健やかに、甘美なる二度寝に耽溺するのであった。疚しい事は無かったにせよ、年頃の女の子達に共寝の光景を見せて良いものか。正しい大人としての倫理観が、後十分だけ、と私を甘やかすのだから良いのだろう。
とくり、とくり。静かに、そして力強く拍動する胸もとに額を擦り寄せる。慈悲と言うものに温度があるならば、きっと、この体温をこそ言う。
ここに、いたい。ずっと、ずうっと。
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