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トン、テン、トン。でんでん太鼓の鳴るかのような軽やかな足音は、二人分。
「ヒカゲ、ヒナタ。」
「あ、若。」
「若ー。」
「お前ら、あいつと遊んでただろ。何かあったか。」
私室の障子を開け放った紅丸は、つい先程、第七特殊消防隊詰所を訪れた女の姿を思い浮かべた。此所、浅草の町に越して来て日が浅い女だ。外部から来た人間を珍しがっての事か、何所か放って置けない女の気質に感化されての事か、ヒカゲとヒナタは彼女を「新入り」と呼んでは面倒をよく見ているのであった。今日も早速居間に連れ込んでは、女が土産にと持参した芋羊羹に舌鼓を打っていた筈だが――。
見下ろした小さな二つの影が口を揃えて、「あのねー、」と訳を語り始める。
「新入りが茶ァこぼして濡れ鼠になっちまった。」
「畳まで濡らしやがったから手拭い探してんだ。」
「そいつは派手にやったな。」
部屋の中に取って返した紅丸が、きっちりと畳まれた数枚の手拭いを手にして敷居を越える。次いで、手拭いを受け取ろうと袖に隠れた両の手を上げて伸びをするヒカゲとヒナタに廊下の先を指し示す。
「お前らは勝手元に行って布巾取って来い。これじゃァ足りねェ。」
「合点!」
「承知の助だぜ!」
威勢良く声を合わせた二つの団子頭が、疾風のようにピュウと駆け出す。駆ける、とは行かぬ迄も、紅丸も随分と早い歩調で居間へと向かった。茶の染みは早急に拭き取らねば厄介なのだと、紺炉にどやされた幼い日の自分の体験を思い出していた。
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「やってしまった……。」
未だ着慣れぬ着物の袖を畳へと押し当てながら、私は泣き出したくて、泣き出したくて堪らなかった。我慢出来たのは、偏に、新たな染みを増やして罪を重ねてはならないと罪悪感が涙を封じ込めてくれたお陰だ。
袖がしっとりと、水気を含んで僅かに重みを持つ。指先で畳を撫でてみる。こぼしたのは湯呑みの底に残った三口四口分。藺草は湿気ってはいるが、水分はハンカチと袖とで吸えるだけ吸い取れたようであった。こうなると出来る事は他になく、そうなると今度は自らの胸もとの湿りけが気になってしまう。茶を噴くと言う己の失態に驚いて、湯呑みをつるりと取り落としてしまうなど。何段階にも間抜けだ。
はしたないが、この部屋に戻って来るのはヒカゲちゃんとヒナタちゃんだ。見られて困る事もないと、襟元を少しだけはだけさせて胸もとを晒し、茶を鱈腹飲まされて湿るハンカチを差し入れている、と。障子戸が、すらり。開いた。
「着物は無事か? 取り敢えず、これで拭――」
開いた、先で。新門さんが動きを全く止めた。
それは詰まり、私のあられもない格好がその視界に納まった儘だと言う事である。そして、私も勿論、動きのみならず思考もすっかり止まってしまっている。襟を合わせる、背を向ける、蹲る。自分の身体だのにどれも現実的な行動とは思えなかった。
つ、と。新門さんの視線が、思わず、と言った仕草で滑ったのがわかった。私の胸もとに、目で触れた――瞬間、動じる様子もない面持ちと共にすいと逸らされた。
「お前、ここが男所帯だって事、忘れてんじゃねェぞ。」
「はい。済みません。ごめんなさい。以後、気を付けます。」
一言で気付けられて、一言で平身低頭して許しを乞うてしまうくらいに、それは低く低くとても切迫した響きで空気を震わした。普段の気怠げな声音とは異なっている、凄味の利いた声は恐ろしくはあるけれども、私の考えの至らなさが原因で咎められているのだ。甘んじて受け入れるしかあるまい。
しかし、お叱りは呆気無くも一言切りで終えられた。「……調子が狂うな。そうも素直に反省されると。」。新門さんは持って来てくれた手拭いを敷居近くに置くと、さっさと障子の引手を掴んだ。
「茶もしたたる良い女だろうが、風邪引かねェように気を付けな。」
あ、と。有り難う御座います、の頭のみが勢い込んで飛び出して、後はぴしゃりと閉め切られた障子紙にぶつかって方々に散り散りとなった。
「今度こそ泣くかと思った……。」
私にはまるで読めない表情は、少し、こわくて。新門さんが私の事を気に入っていると言う、ヒカゲちゃんとヒナタちゃんの話は矢張り信じられなかった。聞いた時は思わぬ事に吃驚して茶を噴き出してしまったが――畳に描かれた絵図のふちを指でなぞる。茶色に変色しようとしている。後で相模屋さんにも謝りにゆかねばなるまい。
今更になって漸く襟を手繰る。じっとりと濡れそぼった着物の重さが、更に気を滅入らせた。遠くから、ト、ト、ト。躍るように板を踏む二つの足音は、今度こそ、手拭いを取りに行ってくれた年若いお姐さん方のものだった。
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「若、どちらに?」
「銭湯。水風呂で頭冷やして来る。」
「何でまた。あの新入りの嬢ちゃんと何かあったか。」
「……行って来る。」
「風邪拗らせてブッ倒れるんじゃねェぞ。」
「馬鹿は風邪引かねェよ。」
「真っ赤な顔で言われても説得力がねェんだよ。」
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