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突き出された紙袋からは甘い予感が匂っていた。
「たい焼き、ですか。新門さん、甘いものは苦手だと仰有っていたのに買われたんですか。」
「店の前を通ったら持たされたんだよ。八つ時だから丁度良いだろうってな。」
「相も変わらずおモテになりますねえ。」
一歩、町に出ただけで、この人のもとには人や物が賑やかに集まって来る。浅草の町を愛し、浅草の町に愛されているのが、新門紅丸と言う男だった。相思相愛で何とも目出度い事だ。鯛、だけに。紙袋に描かれた波飛沫と踊る生き生きとした鯛の絵を見詰めていると、益体も無い駄洒落が浮かんで止まない。
「それで私にお裾分けを、と言う事ですか。ありがたい、ですねえ。」
「鯛だけに、ってか。」
私の視線を追い掛けた新門さんが、揶揄うみたいに目を細めて、下らない遣り取りに可笑しそうにしている。「鯛だけに、です。」。心中で独り言ちた駄洒落を改めて口にすると、気持ちがぴったりと重なったようでこそばゆかった。
ふわふわと浮かれて差し出した両の手の平に、ぽすん、と紙袋が乗せられる。中に居るのは二尾程だのにずっしりとしているのは、このお店が「餡こたっぷり!」と謳っているからだ。人肌よりも少し熱いくらいのあたたかさが焼き立てなのだと、今が食べ頃なのだと訴えて来る。気分転換に東屋の脇を通る道を選んだのは、きっと、この為なのだ。いそいそと屋根の下に入っていそいそと縁台に腰掛ける。新門さんがかたわらに腰を下ろした頃を見計らって、紙袋の口を開ける。ふうわり。小麦と蜂蜜の香りに焚き染められた湯気が立ち上り、覗き込んだ額をぬくめた。
「こうして煙を浴びていると、何だか頭が良くなりそうですねえ。」
「食いもので遊ぶんじゃねェよ。ほら。冷めるぞ。」
「はあい。」
紙袋の口を広げて、新門さんへと向ける。向ける。向けたが、首を傾げた儘、袖に仕舞った手を出す素振りが見られない。
「食べないんですか。冷めてしまいますよ。」
「二つ共、お前が食っちまえ。甘ェもんが好きな奴に食われた方がたい焼きも本望だろうよ。」
「たい焼きは本望でも私は不本意です。これは新門さんが頂いたたい焼きでしょう。私一人で頂いては、とんだ泥棒猫になってしまいます。」
「猫に魚は似合いだな。」
まるで折れてくれやしない。このたい焼き屋のたい焼きは、冷めても皮が固くならずに美味しく食べられると巷で評判だ。だとしても一番美味しいのはあたたかい内だろう。たい焼きの腹に餡こ以外に無念を抱えさせない為にも、私は決意して紙袋の中に手を差し入れた。一尾取り出して半分に割り、少しだけ悩んで、尻尾の付いている方を新門さんの口もとに持ってゆく。
「ひと口だけでも。はい、あーん。」
じ、と。唇に触れる真際迄近付いたたい焼きの半分と最強の貫禄に負けじと真っ向から見据える私とを交互に見て、新門さんは徐に腕を片方、露にした。私の手から尾頭付きならぬ尾だけ付きのたい焼きを受け取る――と、次には尾も毟り取って、ぶつ切りの姿にしてしまった。
「尻尾だけで良い。後はお前ェが食ってくれ。」
「良いんですか。たい焼きの尻尾、味気がなくはありませんか。」
「甘くねェから丁度良い。腹が減っていたのは事実だからな。もう一匹の尻尾も貰うか。腹の足しにはなる。」
だから餡このぎっしりと詰まった腹を食べてくれ。そう言葉も無しにはっきりと伝えて来るのは、口もと近くに寄越されたたい焼きだ。私の遣り口を真似たかのように有無を言わせてくれやしない。新門さんが生地のみで作られた尻尾をひょいと口に放り込んだのを眺めながら、一番甘くて一番美味しいとされるたい焼きの腹身を頂戴する。ひと口頬張る。ふわふわもちもちの皮の弾力を歯が楽しみ、ほっくりと炊かれた小豆の甘味を舌が楽しむ。これを、口福、と言うのだろう。新門さんとは味覚の好みが違うので分かち合えない、けれど。
「それぞれ苦手なものを補い合う――こう言うの、何て言うんでしたか。破れ鍋に綴じ蓋?」
「……夢子、お前、それ、意味わかって言ってんのか?」
「捨てる神あれば拾う神あり、のような?」
なんと苦々々しい渋い顔をしてくれるのか。甘さを足せばましになるだろうか。お節介から「矢張り、餡この入っているところ、少し食べますか?」と尋ねれば、「いらねェ。」と素気ないお返事がばっさり。それからは私が一尾食べ終えるのを黙して見守っているばかりの新門さんの様子は、魚屋の前でおまけを貰おうと大人しく待っている猫のよう。可愛い、なんて素直に口にしたらご機嫌を損ねてしまうだろうから、頬を弛ませるだけにとどめた。
隣にこのひとが居るだけで、只でさえ美味しいたい焼きがよりもっとずっと美味しく感ぜられる。一体、どんな手品なのだろう。
「美味そうに食うな。見応えがある。」
「そんなに楽しそうに見詰められると、些か照れますね。」
たい焼きの首の方も平らげて、二尾目を手にする。新門さんと一緒に居る時に胸にともるともしびのように、穏やかに仄かあたたかい。
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