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ジュウジュウ、チワチワ。高温の油が未だ表面で弾けているかのような揚げ立てのコロッケは、店の前を通り掛かりに、肉屋の女将が「焦げちゃったから急いでお腹に隠しちゃって!」と茶目っ気たっぷりに手渡して来たものだ。
紅丸と女は有り難く厚意に甘える事にして、商売の邪魔とならぬように店舗の端に身を寄せた。耐油紙に包まれてはいるが、揚がったばかりとあって素手には些か熱い。女は右手に左手にと持ち直しつつ、傍らで平然とコロッケを手にしている紅丸を不可思議そうに見遣った。
「よく揚げ立てを持てますね。能力者の恩恵、と言ったところですか。」
「手の皮が厚いだけだろ。面の皮と同じで。」
こんがりと狐色をした衣に歯を当てる。サクリとした軽い食感のする、油切れの良い衣だ。其所から爆ぜた揚げ油の風味が口の中に広がると、追い掛けて細切れ肉と馬鈴薯がほくほくほろりとほぐれる。中華半島の広大な大地で育まれた馬鈴薯は、狭い口内は窮屈だ、と駄々を捏ねんばかりにようく熱された身を暴れさせるが、それはご愛嬌。熱さを堪えて噛み締める毎、サクサクとほくほくが、油と肉の旨味と芋の甘味とが合わさってゆく。
若い腹を満たすのみならず舌をも満足させる、至福の惣菜。二人して夢中になって舌鼓を打ちながら、今度は紅丸が首を傾げる番であった。
「もう食い終わったのか。お前、猫舌だとか言ってなかったか。」
「根性で耐えました。だって、熱いものは熱い内に食べると美味しさが増すでしょう。」
「がっついて火傷するんじゃねェぞ。」
「それも一興です。」
「してんのかよ。見せてみな。」
「助平ですねえ。」
「何でだよ。」
コロッケに齧り付く紅丸の隣で、女は一足先に空となった耐油紙の平袋を小さく折り畳み、精肉用ショウ・ケースの向こう側から手を伸ばしてくれている女将に礼と共に渡す。
不図、紅丸と女が極小の違和を捉えた。視線が向かった先は、商店街の入り口。遠目でもわかる程に人を捜している様子のその人影は目立っていたが、それ以前に、和装だらけの浅草で洋装は酷く浮くのだ。「あいつは――」。目を眇めて何者かを見定めていた紅丸がやにわに警戒を解く。残り半分となったコロッケをひと口で腹に納めて、油を吸った平袋を丸める。女に続いて女将に渡す頃には、謎の人物――正装した秋樽桜備も、肉屋の前に並ぶ二人に気付いていた。体格に恵まれた丈夫だ。大股できびきびと歩けば距離は忽ち縮められる。紅丸と女の前に立つと、桜備は折り目正しく背筋を伸ばして、格式張った風にならぬよう会釈をした。
「お久しぶりです。」
「息災だったか。」
「お陰様で。お二人共、お変わりないようで安心しました。」
紅丸の方を見、女の方を見て、桜備が屈託無くにこりと笑う。
「相も変わらず良い男っぷりですねえ。」
「新門大隊長には負けますよ。」
「まあ。受け答えの仕方までそつがないんですから。」
「それで? その堅苦しい格好、観光しに来たって訳じゃねェな。何か用でもあったか。」
「今回の会議で配布された資料を渡しに来ました。こちらです。」
小脇に抱えていたバインダーから、桜備がホチキス留めで束となった書類を差し出す。紅丸の口は透かさず「持って帰ってくれ」の「も」の字を象ったが、じわりじわりとへの字に曲がってゆき、「……ああ。」と発するに落ち着いた。眉を険しくして、嫌々渋々と言った調子で書類を受け取――ろうとする彼の手を寸でのところで引きとめたのは、横合いから伸びて来た細腕だ。
「コロッケを食べたばかりなんですから、油、付きますよ。一旦、手を貸してください。」
鹿爪らしく断るなり呆れた風に溜息を吐いた女が、着物の袂からハンカチーフを取り出す。幼い子どもにするように優しい仕草で紅丸の指先を拭う姿が、桜備には微笑ましかった。第8特殊消防隊の面々が初めて浅草に滞在した時にも、女はあれやこれやと世話を焼いてくれたものだった。その他者をよく助ける慈しみ深い顔を、恐らくは紅丸も好いているのだろう。邪険にせずに伸び伸びと好きにさせているさまは、心のすべてを預けているようにしか見えないのであった。
「仲睦まじいですね。」
「付き合いが長いだけですよ。」
「……もう良いだろ。」と、紅丸から声が掛けられると、女は頷きと共にハンカチーフを袂に仕舞った。
清められた紅丸の手が気を取り直して書類を引っ掴む。真紅の苦り切った視線が紙面の表題の上を滑った。滑って、目が滑って、紙束が丸められ、懐に突っ込まれる。
「それ、曲げて良いものなんですか。」
「知らねェ。」
「後で紺炉さんに怒られても知りませんよ。」
「まあまあ――」
「新門さん、そう言うところ、本当に大雑把なんですから。」
途端、桜備の表情が固まった。まばたきが増えている事を自覚して、それが思考の糸が縺れた為にほどくのに必死なあらわれであると思い至る。手の平を紅丸に差し向け、ゆうっくりと声に出して確認する。
「新門さん。」
「おう。お忘れとは言わせねェぞ、桜備秋樽。」
顎を上げてじいっと目を合わして来る、この黒髪赤目の男こそは最強の消防官と名高い新門紅丸その人だ。
次に桜備は、彼の直ぐ傍らに立つ女を確かめた。
「新門さん、では……?」
「あら。面白い事を仰有いますね。私は新門さんではありませんよ。」
可笑しげにころころと笑う女の言葉に、嘘や、誤魔化しや、照れ隠しは見受けられない。詰まり。幾ら距離が近く、幾ら仲睦まじく、幾ら夫婦のように見えようとも、実際のところは婚姻関係になかったのか。
第8のメンバー間でも話題に上った事があったのだ。二人の左手の薬指に結婚している事を示す指輪は嵌まっていないがそう言う原国のならわしなのだろう、と誰しもが納得してしまえる程に、紅丸と女は特別に懇意な関係であると決められていたのだが――この分では恋人ですらも――。
隊ぐるみで途轍もなく大きな勘違いをしていた事に、桜備が決まりが悪そうに首筋をさする。今度の会釈には謝罪の意味が込められていた。
「すみません。自分達はてっきり、あなたが新門大隊長の奥様だと思っていまして――」
「よく言われます。」
「もっと言ってやれ。」
低く重く、紅丸がぼやく。申し訳なさそうにする桜備に遣った目を、あっけらかんとしている女へするりと移し、次いで今一度、立てた親指で彼女を指す。仕方の無さそうなその仕草だけで、最強の男の猛攻を軽く往なしてしまう女傑の、類い稀なる鈍感さは覚れようものだ。桜備の口もとには最早、苦い笑みしか浮かんでは来なかった。
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