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水を嫌った紐が、やっていられるか!、と逃げ出す。奴によって纏められていた袖はすとんと落ちて、敢えなく食器の浮かぶ水を張った洗い桶の中――と言うのは寸でのところで避けられた。咄嗟に腕を上げて水難を逃れようとした私の、「ああ!」なんて泡を食った悲鳴を聞き付けた紺炉さんが、台所から出るところで振り返る。
「大丈夫か?」
「驚かせてごめんなさい。襷掛けがほどけてしまって。」
予め輪状にしていた腰紐の、その蝶結びの結い目が崩れていても頓着せず、横着して作った8の字に腕を通した所為だ。足もとで蜷局を巻く腰紐は、梃子でも此所を動かない、と意固地にも威嚇しているように見える。紺炉さんに捕まえられてはまったく形無しであったが。
踵を返して腰紐を拾い上げてくれた紺炉さんは、私の探し求めている手拭いの在処を教える事はしてくれなかった。この儘では襷掛けをし直せないのだが。怪訝に思って首だけで振り向くと、紺炉さんは掌中で大人しくしている蛇擬きを見下ろして、手繰っている。
「そのまま、前、向いてな。」
言われた通りに前に向き直る、と。一歩。距離を詰める足音がして、感覚のぜんぶが集まった背中が、紺炉さんが直ぐ後ろに立ったのだと言っている。
「俺がやってやる。」
何時もは頭の上から聞こえて来る声が、耳もとから、聞こえる。耳朶に触れた吐息の一つだけで、電氣に打たれたかのように肩や背筋や心の臓と言った様々なところが跳ねて仕方がないのに。気付いていない筈もないのに。紺炉さんは背を撓らせて私の背格好に合わせると、「逃げてくれるなよ。」と常と変わらぬ調子で促した。
「逃がす心算なんておありでないでしょうに。意地悪な事を仰有いますね。」
「惚れた女に意地悪なんて、ガキしかやらねェもんだと思ったが……今日日、どうやら大の男もやるようだ。」
腰紐の片端を持つ紺炉さんの大きな手が、男のひとの大きな手が、左腕の下を潜って視界に現れる。それだけで下がりつつあった腕は慌てふためき、出来の悪い発条仕掛けの玩具みたいに跳ね上がって不恰好な万歳を披露する事となった。
「それだけ意識されると、俺もまだまだ捨てたもんじゃねェと思えるな。」
腕をもとの位置に下ろしてゆく悄々とした私の心を、堪えようとも堪え切れていない笑い声が擽る。紺炉さんが笑ってくれたならばよしとしよう、と羞恥を飲み下すと同時に、しゅるり。左脇から背中を斜めに横切って右肩にゆき、右肩から右脇を回って、腰紐は背中で交差してバッテンを描く。
――触れたとて、故意ではないと言い切れように。胸の膨らみに悪戯の一つも仕掛けてくれない、そんな硬派なところが好き、だけれど。
手際良く腰紐の端と端とを結ぶと、紺炉さんは私の二の腕を叩いて仕舞いだと告げた。すっかり強張ってしまった手を流し台の縁へと下ろす。
「きつくないか。」
「はい、お陰様で。有り難う御座います。」
一拍空いて、二拍空いて。それが不自然な間だと気が付いたのは、一向に二の腕から手が離れず、それどころか如何しようもなく離し難いように力が込められてからだ。
「こんろ、さん、?」。戸惑いも露な名を呼ぶ声に、水仕事の途中で水浸いた手に、紺炉さんの手が重なる。思わず引こうとして、矢張り離されやしなかった。包帯が水を吸い込んでゆくのがまざまざと皮膚に伝わって来るように感ぜられた。
「紺炉さん、包帯が、」
「包帯が濡れる、って言うんだろ。だから片付けを買って出てくれたのは、わかっちゃァいるんだが――」
私の肩口にそうっと顔をうずめて、紺炉さんは暫しの間、沈黙していた。軈て長く長く溜息を吐き出した様子で、正に合わせる顔がない、と煩悶しているのだと察せはしたが、何について思い煩っているのかさっぱりわからない。
「あの、私、食器を洗わなくては。」
「ああ。手伝う。いくら包帯をしていても拭くくらいは問題ねェ。だろ?」
「それは、そう、ですけれど。お顔の色が赤くありませんか。」
身を起こして早々に隣に並んだ紺炉さんの頬は、酒に微酔したかのようにほんのりと赤らんでいる。体調が優れないのであれば無理をせずに部屋で休んで欲しい。そう願って見上げていると、紺炉さんは口をへの字に曲げて気不味そうにした。しみじみと目蓋が閉じられる。
「いや、身体は悪かねェんだが、具合が悪いな。」
「でしたら休まれてはいかがですか。直ぐにお布団を用意いたしましょう。」
「後でで良い。」
「遠慮なさらずとも、」
するり、と。伸ばされた紺炉さんの手が、私の口を噤ませた。頬に向かうかと思われた手指は肩へと落ちて、つい先刻に結わき直してくれたばかりの腰紐を這う。肩を甘く掻いた爪先が、紐を引っ掛けて、弄ぶ。
「お前を縛って気が昂っただけだ。まさか、自分がこんなド変態だったとは思いもよらなかったぜ。」
辟易と吐き捨てて、戯れはお終いだと、紺炉さんが手を引っ込めようとする。その手が布巾を取りにゆこうとするのを、私は引っ掴んで止めてしまった。止めて、しまったのだ。
ぱたり、と。洗い桶に積み重なった食器から水滴の落ちる音が、二人の間にいやに大きく響いた。
「あの、でしたら、また、お願いいたします。」
「は。」
「お好きに、縛って、ください。」
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