enen
name change!
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
土鍋から立ち上ぼっていた湯気の壁は忽ちに薄くなり、中で身を寄せ合う白菜や豆腐や鶏肉の仲睦まじさがようく覗けるようになった。勿論、対面で鍋をつつく紅丸の愉快な事になっているお顔も。それを肴にして缶ビールを呷る。喉を滑り落ちてゆく冷たい琥珀のシュワシュワが身震いを誘った。今夜は一段と冷える。紅丸に倣って熱燗にしておけば良かったと、炬燵布団を身体に巻き付けて暖を取り取り、もう一口。
「鍋、冷めてしまったでしょう。温め直して来ようか。」
「寒いんだろ。わざわざ冷える所に行く事ァねェよ。勝手にやる。」
箸を放した手を鍋肌に添えた紅丸の瞳に、紅い光が滲む。すると掌中に小さな火が生み出され、器用にもちろちろと燃やして鍋を温めているではないか。腹の底からの感心は、鍋敷きの無事を確かめた後で出て来た。「ははあ、便利なものね。」。呟きに拍手を添えるかのように、出汁の煮え立つ音がする。ふた度、二人が湯煙で隔てられる事になる迄、そう時間は掛からなかった。
鍋を充分に温め終え、手を引いた紅丸が箸を持ち直そうとする。炬燵の中に仕舞っていた足を伸ばして、向こうに御座す胡座を組んでいる足をちょいと突いてやる。ン、と素直に顔を上げる紅丸。細められたその目を見詰めていると、フフ、と浮かれた笑声が漏れ出た。
「鍋の椎茸みたいな目、している。」
「美味そうだからって食っちまうなよ。腹ァ壊すぞ。」
おどけて言う紅丸が鍋の中を箸で探る。ふっくらと煮えたバッテン付きの椎茸を摘まみ出すものだから、可笑しくて可笑しくて、世界が酷く凍える夜に沈んでいる事もすっかり忘れて笑う。酒精様の偉大なる御力添えも相俟って、春のど真ん中に在るようにご陽気な気分がする。
「いい酔い方してるじゃねェか。こっちも酒が進む。」
「紅丸は飲み過ぎよ。外でも飲んで来たでしょうに。」
「鍋には酒が付きものだろ。」
「飲兵衛め。」
缶ビール一本で、煮て二日目となった白菜のようにくたくたになってしまう私とは大違いだ。紅丸は直ぐに酔いはするが酔い潰れる迄が長く、決して酒に弱くはない。今晩だって、ご近所さんから声を掛けられて飲みに出てしこたま飲んで帰って来た筈なのに、シメの鍋を食べながら猪口を離しやしないのだ。
顎を炬燵の天板に載せて、ほう、とひと息つく。
「私、鍋の具材ではお豆腐がすき。やいたの。」
「ああ。美味ェな。」
「わたしの分のおとうふ、全部あげられるくらい、紅丸がすき。ほんとう、ほんとうよ。」
「端から疑っちゃいねェよ。――そうだな。俺は何がやれるだろうな。お前ェは何が欲しい?」
「べにまるがほしい。」
「酔ってねェ時にな。」
ふわふわふわふわ、天にのぼっていってしまいそうだ。ぜったいよ、と念押しをした途端に目蓋の何と重たい事だろう。湯気でぬくめられた部屋の空気は寝心地のよい綿布団にくるまる幸福を身体に思い出させる。少しだけ、少しだけ。言い訳を繰り返している内に目蓋は落ちて、意識は落ちて。落ちながら、身体を浮かび上がらせる彼の腕を期待していた。
▼
「……落ちたか。」
卓上に突っ伏す女の横顔を身を乗り出して確認すると、紅丸は彼女の近くで所在無さ気に佇んでいる缶ビールを取り上げた。中身は未だ半分程が残っている。ぐい、と喉を反らして一気に干した。
「味がしねェ……。」
日本酒に比べればアルコール度数の抑えられたビールだ。鱈腹飲んだ後では尤もな事ではあるが、頬に薄く差した朱が、それだけが理由ではないと語っていた。
長息を一つ吐き出してから、紅丸が帯を緩めて法被を脱ぐ。炬燵から抜け出ると女の傍らに膝をついてその肩に掛けてやった。転た寝を楽しむ寝顔は平和そのものの弛まりようで、酒気が笑わせた恵比寿顔がより綻ぶ。
「――もう少しだけ、深く寝入ってから運ぶか。」
唯、離れ難く思えば抱き上げる事は躊躇われただけだ。
もとの所へと戻り、炬燵に滑り込んで、あたたかな中で酒を舐める。紅丸は一人、穏やかな夜を謳歌するのであった。
7/46ページ