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此所が浅草寺は宝蔵門と間違えられたら如何しよう。
私の焦燥は遂に明後日の方を向いて、現実から目を逸らそうと躍起になっている。気持ちは痛い程にわかる。受け入れ難い状況に置かれているからこそ、私の顔もこうして仁王像宛らの厳めしい形相となっているのだから。
一棟の家屋の脇、柱の前で深く深く呼吸をして願掛けをする。
「――神様、仏様、新門紅丸様。」
今日だけで何度となく胸の中で唱えたものだが、果たして。恐る恐る一歩を踏み出す。矢張り後ろ髪が引かれ、頭皮が突っ張った。日頃から信心深く過ごしていようとも、都合良く祈念が通じると言う事はないらしい。
「今度、詰所に大量のどら焼きを差し入れしてやる。」
怨嗟の呻きが我ながら馬鹿馬鹿しい響きだったので、途端に脱力してしまった。そろそろと後頭部を確かめる。ひと房だけ、舟を係留する縄の如く柱へと繋がっていた。
母から頼まれたお使いの帰り路。家迄は後少しと言った所で、空にもくもくと暗雲が立ち込め、あっと言う間に鉄砲水のような大雨が降り頻ってしまったではないか。近くの家屋の庇の下へと身を寄せて難を逃れたが、一難去って又一難、と言う諺を身を以て体験する事になろうとは、この時には想像だにしていなかった。
怒濤の音を立てていた俄か雨が細糸のような小降りになったのを見計らって、私は柱に凭れていた身体をヨッコイショと起こした。――起こした瞬間、嫌な予感はしていたのだが、信じ難い余りに無視をして歩を進めた。進められなかった。つんのめり、振り返る事すらも容易ではなくなっていた。思い返せば、この家屋は相当に古く、木材の彼方此方に亀裂やささくれが出来ていると――何かの拍子に髪でも引っ掛けてしまいそうだと、兼ねてより見知っていた事であった。
こうして私は、どじによってこの場所に縛り付けられる事と相成ったのである。
「何時も町中をうろついているのに、こんな時には来てくれないなんて。」
我等が神様の御姿を探して右へ左へ視線をめぐらせる。店の建ち並ぶ賑々しい表通りとは違い、此所は民家が密集している静かな裏通りだが、紅丸は此方にもよくよく赴いて散歩序でに異変が無いかと見回ってくれる。今は折悪しく、助けは見込めそうにないが。雨の降ったばかりとあってそもそも人影の一つもあらず。詰まり、詰み、だ。
「どうしよう……。」
「どうかしたか。」
雨上がりの蒼天より降って来た、聞き馴染んだ男のひとの声。声音にも滲み出る頼もしさに引き上げられるようにして、塞ぎ込んで俯けていた顔が自然と跳ねる。その先ですっくと立っていたのは、紺炉さん、だった。
「こんろさあん!」
望み得る限り最も心強い人物の登場だ。涙腺が弛むのも宜なる哉。歓喜と安堵とで打ち震えている名前を耳にするや否や、彼の人は怪訝そうに眉を顰めた。
「なんだ、動けねェのか。足でも痛めたか。」
しゃがみ込んで足を見てくれようとする紺炉さんに向けて、首を横に振る事も叶わない。紺炉さん、と今一度、名を呼ぶと中腰の姿勢で止まってくれた。着物の袂から携帯用の裁縫道具入れを取り出す。目を合わせてくれている彼の眼前へ小さな糸切り鋏を差し出し、意を決する。
「これでひと思いにやってください。」
「物騒だな。一体全体、何事だってんだ?」
かくかくしかじか、まるまるうまうま。事情と言う程の込み入った事情はないので説明は手短に終えられた。
「成程な。」と相槌を打って締めとすると、紺炉さんは颯と姿勢を正して、危ないから裁縫道具を仕舞うようにと私に促すのであった。大人しく袂に仕舞い込みはしたが、鋏で髪を切ってしまわぬならば如何解決しようと言うのか。私がその顔を見上げるよりも早くに。一歩、紺炉さんに詰め寄られる。反射的に後退りをするべく踵が浮き、それをとどめようとして彼の手が私の後頭部へと回された。
「頭、預けてな。すぐ解いてやるからよ。」
厚い胸板に額が引き寄せられる。紺炉さんが頭一つ分高い所から私のうなじの後ろの辺りを覗き込み、腕を回す。抱き締められている、との錯覚を起こして間も無く、つ、と。髪のひと筋を指が滑り、捕らわれた毛先をほぐしてゆく感覚が齎された。
法被越しに段々と紺炉さんの体温が伝って来ると、浅草の年頃の少女の初恋の的と言えば紺炉さんで、私も例外ではなかったと思い出してしまう。火照り、汗ばむ手で着物の裾を握り締める。何所に意識を遣っても意識してしまうこと請け合いだ。
「痛むか?」
「いえ、あの、その、何と言いますか、本日は御日柄も良く。」
請け合いであったので、意識する余りに正常な意識が保てなかった私を、如何か浅草から遠い地へ逃がして欲しい。
気遣ったにも関わらず頓珍漢な返答をされては、甲斐も無いのではないか。凭れ掛けた頭を申し訳の無い気持ちの分だけ離そうとするが、大きな身体と柱とに板挟みにされている状態だ。密着した儘、叶いやしない。脂汗と冷や汗の混ぜ合わせで法被を湿らせてしまわぬように、せめてと顔の全てを手で覆う。厄日とは正に今日の事だ。もういやだ。
「――虹が出てたな、そう言や。」
ぽつり。こまごまと指を動かしながら、紺炉さんが呟いた。
「詰所から出た時に掛かっているのを見たが、浅草を跨ぐようなやつだ。随分と立派なもんだったぜ。夢子の言う通り、今日は縁起が良いかも知れねェな。」
「ここからは見えませんでした。」
「この辺りは屋根で見通しが悪いからな。まあ、あれだけデカけりゃァまだ消えちゃいねェだろうよ。もうじき解けるから、後少し、辛抱してな。」
もう一度、後ろ頭に優しく手を添えたのは、虹を楽しみにしていると見える幼いお嬢さんを宥め透かして落ち着かす為か。私、紺炉さんが思う程には子どもではないのだけれど。手で蓋をした唇が口惜しさに尖ってゆく。
「俺はこれから二丁目に用があってな。用っても、いつもの寄り合いなんだが。雨が降ると、あそこの道、深ェ水溜まりが出来上がっちまうだろ。だからこっちの道に入ったんだが――正解だったな。」
間抜けな格好で泣きべそをかく間抜けな私を拝めたからですか、などと意地の悪い台詞が浮かびはしたが、これ以上の稚気は見せるまいとぐうっと喉奥に押し遣る。「なんで、ですか。」。しかし唇のとんがりは意外にもしぶとく、不機嫌な音で疑問を鳴らして送り出したではないか。だのに、紺炉さんにとっては、生まれたばかりのふにゃふにゃの子猫にふにゃふにゃの柔らかな爪を立てられた程度の事なのだろう。気にする素振りもなく、柱に取っ捕まった髪へと真剣な眼差しを注ぎ続けている。
「うちの奴等は大雑把なのが多いだろ。解こうとして変に引っ絡ませるのは目に見えてるし、こんな事で切っちまうなんて以てのほかだ。折角の奇麗な髪なんだ。大事にしてやりてェんだよ。」
紺炉さんの吐息が落ちて来るなり、火の灯ったような熱が耳に宿る。ようしよしと頭を撫でて来る手は愛玩を雄弁に謳っているのに。如何しても胸の真ん中が甘い声で歌い出してしまう。まったく、初恋のひとには幾つになっても敵わない。
「――終いだ。こいつに食われたのは髪だけで、怪我はしてねェか。」
「はい。無事なようです。有り難う御座います。」
「良いって事よ。ここの柱については、後で鳶に話しておくとするか。」
「子どもが怪我でもしたら大変ですからね。お願いいたします。」
「……何だってさっきから顔を隠してんだ。もう一遍、胸、貸すか。」
久方振りに味わう自由の素晴らしさに咽び泣いていると思われたようである。
じっくりと、手の平で頬に籠る熱を感じる。未だ冷めやらぬ儘かっかとしている。顔色は間違いなく逆上せあがって真っ赤だ。
小さく小さくかぶりを振って、額から目もとにかけてのみを露にした。仰ぎ見る紺炉さんは不可思議そうに私を見下ろして、それでも、泣いていない事を確かめると穏やかに微笑んでくれるのであった。雨に洗い流されて清く澄んだ青空よりも、見事に掛かった極彩色の虹よりも、私の少女の心を浮き足立たせる笑みだ。
「こんろさんがかっこうよくてみられない……。」
「夢子みたいな別嬪さんにそう言われて喜ばねェ男はいねェな。だが、あんまり男に変な気、持たせるなよ。今度こそ本当に食われちまうぞ。」
ゆっくりと迫り来る手は、捕まえて食べる為に伸ばされたものではない。知っているからこそ安心して目を瞑れた。法被と擦れてくしゃくしゃになった私の前髪が、優しい手付きで丁寧に直される。「……気をつけて帰れよ。」と。慎重に言葉を選りに選ったような低い声が目蓋に触れた。
いざなわれて目を開けた時には、紺炉さんは既に庇の下から出ていた。当初の予定の通りに、これから寄り合いへと赴くのだろう。束ねられた長い髪が揺れる背中を眺めながら、傷付かず、無事に助けられた自らの髪に手を遣る。
「差し入れはどら焼きじゃあなくて、餡蜜にしよう。」
甘味の差し入れは意地悪な神様への嫌がらせの心算であったが、今では紺炉さんへのお礼の気持ちが大きく勝り、超えるものはありはしなかった。
お使いでは考えられぬ程に軽やかに、私の足は贔屓の菓子屋の在る方角へ取って返す。彼によって踏み越えられた水溜まりに生まれた波紋は直ぐに凪ぎ、水鏡には虹の欠片が映し出されていた。
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