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これだけ賑やかであれば、新月の夜でも心細さを感じる事なぞありはすまい。
澄み渡る夜空でさんざめく星ぼしの仰有る通り。ひい、ふう、みい、とひと際燦として輝く星辰を目で追いながら歩く夜道は、何所か他の知らない土地を散策しているようで胸が躍りすらする。同じ浅草の地とは思えない。日の出ている内の喧騒は今やすっかり静まり返り、夜の腹の中で誰も彼もが眠りに就こうとしている。家に着いたら私も後を追おう。身体を痛め付ける凩に身震いをし、布団恋しさに足を早める。と。道の先から聞こえるものがあった。節を付けて歌うようなそれはご機嫌な酔っ払いの鼻歌にも思えたが、それにしては間隔が短く一定だ。耳を澄ませて正体を探る。
「火の用心、マッチ一本、火事の元。」
朗々と繰り返し響き渡るは、空気の乾燥する今時分にはお馴染みの若衆の夜回りだった。聞き覚えしかない、この堂に入った張りのある声は――
「紅丸。」
互いに宵闇に包まれているにも関わらず、パチリ、と目が合う感覚があった。次いで、あからさまに訝しんでいる視線が瞳の真ん中に注がれる。
「こんな時間にほっつき歩くたァ、よっぽどの用事か。」
「女子会と言うやつから帰るところよ。話に花が咲き過ぎたの。」
「言えよ。」
「何。混ざりたかったの?」
「違ェよ。女一人で夜道をふらふら歩かせられる訳がねェだろ。迎えに行くから次は言え。」
「飲みに行っていて居なかったらどうするのよ。」
「紺炉に言やいいじゃねェか。」
「過保護。」
「惚れた女を大事にして悪いこたァねェな。」
平然と言われてしまうと、もう何も言えやしない。最強と名高い男に勝てる道理など端から有りはしないのだ。惚れた弱味も相俟って完敗だ。
口から飛び出てしまいそうな心の臓を歯を食い締めて捕らえているが為に、押し黙る事しか叶わない。小さくちいさく首肯だけすると、直ぐ目の前迄距離を詰めた紅丸が手を伸べて来た。私の片手を掴むなり、そ、と。何か温かな飲料で満たされた紙コップを持つように仕向けられる。
「甘酒だ。やる。」
「どうしたの、これ。」
「団子屋のババァに持たされた。甘いもんはいらねェ、っつってんのに聞きやしねェ。」
あすこのお団子屋のお婆さんは夜回りの当番に甘酒を振る舞う事で有名である。寒い中で苦労をしてくれる若衆の身体が冷えてしまわぬように、との想いからなのだろう。
そしてこの男こそはそれをよくよく知っている。
斯うして憎まれ口を叩いてみせるが、浅草の町の人からの厚意を決して無下にはしないのだ。私が現れなかったとしても甘酒を捨ててしまうなんて事はせず、ぐいと干して胃腑におさめた事だろう。そう言う優しいところが堪らなくいとおしい。
「――好き、よ。」
「お前がそんなに甘酒が好きだったとは知らなかったな。」
紙コップを確りと手にしたとみるや否や、紅丸の手は離れて行ってしまった。そうじゃあないのだけれど、と訂正しようとして口を開いて、気恥ずかしさから閉じて、紙コップのふちに寄せた。ふくよかな甘さと口当たりの良い熱さとが喉を滑り落ちてゆくと、寒気に痺れていた身体が癒えてゆく心地がした。
「あたたかい。」
「それだけ冷えてたんじゃァ川の水だってぬるま湯だろうよ。風邪貰っちまわない内に早いところ帰るぞ。」
「夜回りはどうするのよ。」
「しながら送る。」
首に下げた拍子木を手に手に、紅丸が先をゆく。思えば先程は、掛け声の後に付きものの筈の、カンッカンッ! と打ち鳴らされる気の引き締まる拍子木の音はなかった。甘酒が片手を塞いでいたからだろう。通る声一つあれば十分だと考えたのだろうが――本当に、人を大事にしてくれるひとだ。
星月夜の下、私達のお天道様はあたたかく、朝な夕なに星よりも月よりも太陽よりも燦然と輝いていてくれる。
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