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遠くに望める皇国の建物群は斜陽の中で影を色濃くして、背高の墓石のように聳えている。此所から落ちたら私にもお墓が用意されるだろうなあ、なんて考えは荒唐無稽な事だとは、誰に言われずともわかっている。わかっている、けれど。
「おい。降りて来ねェなら俺ァ帰っちまうぞ。」
一刻前よりも語気が荒くはなっているが、紅丸の広げた腕は袖に仕舞われる事なく、何時でも私を受け止められるようにずうっと準備されている。その腕は怪我の一つだってさせずに、落ちる、を、降りる、にしてくれるに違いない。屋根瓦の上で縮こまって蹲っているだけ時間の無駄なのだ。それもわかっている、けれど。
「纒で飛んで来てよ。」
「しちめんどくせェ。いいから飛べ。」
ぞんざいに手招きをされる。如何あっても此所迄迎えには来てくれないようであった。
冷え冷えとした夜の片鱗を見せる風が、ビュウ、と瓦の上を渡る。この家屋の屋根の上で猫が動けずにいる、と近所の子どもが助けを乞うて来た時には、未だ空は橙色に光っていたと言うのに。結局のところ、猫は午睡を楽しんでいただけで、借りものの古い梯子を屋根に掛けて上って来た私は邪魔者でしかなかったらしい。近付くなり脇を擦り抜けて、ピョン、と勝手に下りて行ってしまった。昼寝を邪魔された仕返しの心算か、飛び乗った梯子を外して。地面に倒して壊して。まさか子どもに梯子を直させる訳にもいかず、誰彼大人の人を呼んで来て頂戴、と取り残された屋根の上から頼んだら、紅丸を連れて来たのだ。
紅丸はもう日が暮れるからと早々に子どもを家に帰してくれた。女の身である私にも、夜道を歩かずに済むように、と急き立てながらも気を遣ってくれているのだろう。それだってわかっている、けれど。
「梯子、借りて来てよ。……飛び降りるだなんて怖いじゃあないの。」
無視だ。足もとから凍え始めた身体の言う事だ、そもそも聞こえなかったのやも知れない。家に帰ろう、と頭上で大きく合唱する烏の所為もあるだろうか。顎を持ち上げて、向こうからきたる濃紺色に追われるようにして飛び去る鳥影を眺めている、と。
「夢子。」
不意に、名前が呼ばれた。
心が惹かれて、眼下へと視線を遣る。残光が、チカリ、と紅を輝かせていた。
「――来い。」
強く、私にはそれしか許されていないみたいに言われるのだから、立ち上がるしかないではないか。
恐る恐る体勢を整える、呼吸を調える、意識をととのえる、なんてのは必要がない。ええいままよ! と、目を瞑ってひと息に宙へと身を晒す。――浮遊感は、一瞬だけ。
「いい飛びっぷりだったじゃねェか。」
一瞬ののちには私の身柄は紅丸の腕の中に在り、其所こそはこの世で一番安心の出来る場所であった。
背中と膝裏に感じる確りとした力強さに安堵して、やっぱりちょっとこわかった、と弱音がこぼれかける。紅丸の首に腕を回してしがみつく事で押し込めた。そう、と目蓋を押し上げた先には、横木の幾つか折れてしまった梯子が横たわっている。明日にでも持ち主のおじさんに謝りに行かなければなるまい。猫の仕出かした事とは言えども、居心地の良いところを追い出されそうになれば抵抗の一つも見せて当然だろう。私だって、受け止められた今となっては此所を離れ難いのだ。
紅丸の体温が、夜風のなり損ないに冷やされた身体にじわりじわりと染みてゆく。首をめぐらせて、紅丸が私を窺う気配がした。
「なんだ、腰でも抜けたか。」
「そう、かも知れない。」
仕方無ェ、と。送ってく、と。何でもなさそうに呟くなり、私を横抱きにした儘ですたすたと道を歩き出すものだから堪らない。この格好で往来に出る気か。日も暮れて人通りは少なくなったにしても、衆人環視の場だ。知人一同に冷やかされるに決まっている。
「大丈夫、治った、大丈夫、だから!」
「遠慮すんな。大人しく抱かれとけ。」
大慌てで首に回していた手で肩を押すも、男と女以上に、火消しと町娘では力の差は歴然である。
私の家の在る方角へと、紅丸は迷いなく歩いてゆく。私に出来る事と言えば、後はもう、夜の帳が今直ぐに下り切って私達の姿をすっかり隠してしまうよう祈る事だけであった。
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