jujutsu
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蝉はひと夏しか生きられず、地上に出ればつがいを求め、残りの生すべてを懸けた叫びを上げる。いっそあわれに感ずる切実な大音声でも、母親の金切り声を有耶無耶には出来なかった。茫と携帯電話の通話終了ボタンを押す。隆盛を誇る真昼の太陽が影と言う影を塗り潰し、のっぺりとして現実感の薄れた世界は宛ら白昼夢の舞台のよう。――夢だったらどんなにか良かったのに。
呪術高専四年生の今夏。これが私にとって最後の夏になるのだと、母親は宣告した。受話口から放たれたヒステリックは棘となって私の鼓膜を刺し、通話を終えても抜けてくれずに痛め付けて来る。消灯して真っ黒となった携帯電話の画面に、ぱたぱたり、汗がしたたった。気が付けば、どれくらいともつかない時間、炎天下にぼんやりと立ち尽くしていたらしい。そのようなありさまであったから、ポインテッド・トウの靴底が立てる軽快な足音も聞こえていなかったのだ。
「おーい、夢子。生きてる~?」
まるで金縛りを解く呪言かのように、呑気な声音一つで精神が凪ぐ。首が落ちそうに重たかった顔を素早く持ち上げると、目の前には、にょっきり。立体的な影が近付きつつあった。毎朝のニュース番組で気象予報士が熱心に熱中症への注意喚起をしているにも関わらず、マウンテンパーカーは着崩されていない。何時もの包帯ではなく、サングラスで目もとを隠しているところは珍しいが。頭に永久に溶けぬ新雪の冠を戴いているから涼しげなのか、と疑う程に、この茹だる日本列島に在って彼だけが別天地に遊んでいた。汗の湿り気を帯びぬ乾いた手の平が気安く振られる。
「五条先生。お帰りなさい。」
「や。君の方が帰還が早かったか。祓除には今日明日まで掛かると見てたけど、頼もしくなったもんだ。」
「好きでやっている事ですからね。好きこそものの上手なれ、です。」
最強と謳われる雲上の呪術師の五条先生に褒められて、暑さで逆上せた頭に更に血が集まって来る。仮令調子良くおだてられているのだとしても嬉しかった。
私は呪術師こそが自らの天職であると感じている。呪術師稼業は金銭を稼げて、能力を活かせて、人を助けられる。これ以上なく自分の生を活きられている実感が得られるのだ。五条先生の御墨付きともあればもっともっと沢山の事が成し得る筈で、尚の事、簡単には投げ出したくない生き方であった。
手団扇で顔を扇ぎや扇ぎ、かっかとした頬の火照りを何とか冷まそうとしていると。五条先生は顎に手を遣って、私の格好を興味深げにしげしげと見て来るではないか。
「どこかおかしいでしょうか。」
「いや。ピーコと鉢合わせても悪くは言われないよ。ただ、制服姿しか見た事がなかったから他所行きは新鮮だなって。もしかして、これからデートだったりする?」
「はい。現地集合で、後輩とデートだったりします。因みに、女の子の方です。」
「そっか。仲良き事は美しきかな。ナンパされたら先生直伝の演技で一丁かましてやりなさい。」
「五条先生はこれからお散歩ですか。」
「あのねぇ、僕、特級ですよ。もー大忙し。」
そう言って呆れた風に肩を竦めてはいるが、急ぐ様子も、急き立てられている様子も全く無い。呪術高専に帰って来て早々現場に赴く、逆とんぼ返りとはならないくらいの余暇は貰えているのだろう。先ず以て、時間が押して焦る五条先生の姿なんて想像がつかないけれども――焦る、あせる、焦、こげ、焦げてしまう姿は想像に容易い。五条先生の風体は、端から眺めているだけで汗が噴き出てやまないものなのだ。上下共に抜群に熱を吸収する黒尽くめの服装に、青天にも届きそうな背高のっぽの背丈。人よりも太陽に程近い分、暑さは酷なものであろうと心配もする。とは言えども、天下の無下限術式の使い手の五条先生なので大きなお世話にしかならないやも知れない。事実、五条先生は熱波に揉まれても平然として、肌理細やかな頬には玉の汗の一つも滑っていない。だから、いま一番に心配するべきは私の網膜の無事だ。五条先生を仰ぎ見れば仰ぎ見る程、目が開かなくなる。夏日を照り返す白髪が、至極、まばゆい。
「五条先生、屈んでください。」
ほい、と。軽うい調子で腰を折って、大きなおおきな身体を傾けてくれる五条先生。そのきらきらと真っ白な頭のつむじを目掛けて、私は被っていたストローハットをそうっと載せる。光を封じた甲斐もあり、目を焼かれずに五条先生と顔を突き合わせる事に成功した。しかし、今度は彼のまなこが細まる番であった。
「折角コーディネートしたんだろ。僕に被せてどうすんの。」
「良い日除けになるでしょう。涼しくはありませんか。」
「あのね。大人に、それも僕を相手に気を遣う必要はないよ。ほら、帽子、ちゃんと被っていなさい。熱中症はこわいよ~。」
「水、いっぱい飲むので大丈夫です。日傘もある事ですし。」
鞄を叩いて、中に入れてある折り畳み式の日傘の存在を示す。
五条先生は最強で、一級呪霊も戦闘機も、紫外線だって敵にはなり得ないとは、彼と過ごしたこの四年の間に確りと魂に刻み付けられて来た事だ。
「だから、これは貴男が被っている方がお似合いだと思ったので差し上げたくなりました。只、それだけの事です。あと、この日射しのもとではその頭は凄くまぶしくて会話になりませんから。他の人の目を守る為にも私がひと肌脱ぎましょう。」
「人をハゲみたいに言うな。」
不満げに唇を尖らせる五条先生であったが、麦わら帽子に手を伸ばしてしっくり来る被り心地を探っている。案外とすんなりと貰ってくれるらしかった。微調整したのち、帽子の広いつばが作り出した日陰で青の瞳を休ませる姿からは、避暑地を訪れたご令息のような上品さが醸されていたが――麦わら帽子とマウンテンパーカーの相性は頗る悪い。五条先生の顔を見て、身体を見て、もう一度顔を見て、ミスマッチの王様と言える格好に今しも吹き出しそうになるのを堪えながら、私は大仰な程に深く首肯してみせた。
「とびきりの美形は何を身に付けてもさまになりますね。この陰気な山の中が常夏のハワイに様変わりするようです。」
「フッフッフ、でしょでしょ。もっと褒めてくれても良いんだよ。」
「ハッシャクサマみたい。」
「それ、褒めてる?」
不意に、携帯電話が鳴った。すわ母親から電話が掛け直されたのかと肩が跳ねたが、短いそれはメールの着信だ。開いてみると、此度デートの約束を交わした後輩からの『ごめんなさい! 三十分くらい遅れそうです!』と言う連絡だった。手早く返信をしてから、この儘だと私の方も待ち合わせに遅刻してしまいかねないと、筵山の麓に下りる為につま先を前へと向ける。別れの挨拶はしなかった。来た道を戻る事になるだろうに私の歩き出すのに合わせて五条先生も歩き出すだろうと、不思議とわかっていたからだ。
ゆったりと、ゆったりと、太陽の苛烈な責めなど知らぬ存ぜぬとのんびりと二人で連れ立つ。
「「八尺様」って都市伝説屈指のショタコンだってわかって言ってる? 未成年に手を出すような人間だと思われているとなると、流石に不味いな。僕、先生なんだから。」
「その口振り、教職に就いていなかったらアリなんですか。」
「んー……僕も四捨五入したらピチピチの二十歳だしね。例えば夢子くらいの年齢の子だったら、未成年と言っても年の差なんてあってないようなものだ。アリかナシかで言ったら――」
「言ったら?」
「可愛い可愛い教え子には手は出さない。」
五条先生は、呪術高専を卒業して直ぐに教鞭を執ったのだと嘗て話していた。そんな彼にとって初めての教え子こそが私だった。この学年に一人切りの生徒である事もあって、五条先生は本当にようく目を掛けて可愛がってくれた。善き思い出を授けて貰ったお陰で、彼にとって私が可愛い生徒であるように、私にとっても五条先生は頼り甲斐のあるすてきな先生で在り続けている。年が上がって担任教師が変わっても、年齢を重ねて大人に近付こうとも、だ。
先生と生徒の間柄で完結する私達が、恋愛関係、となるだなんて。望む事ではない。
それでも――
「――可愛いと思ってくれているならば振りだけでも、」
打算的な思考は口からこぼれた瞬間に蝉時雨に打たれ、潰えた。
五条家当主、最強の呪術師、頼りになる先生。肩書きは一つ取っても彼を力の権化たらしめて、この男の人が恋人であったならば私の自由は保障されるだろうに、とよこしまな考えを持つ私が唆す。五月蝿い。五条先生は先生で、私の家の問題は私の問題だ。口内に汚泥が湧いているように思えてならず、気持ちが悪くて、意識的に呼吸をしなければ誤魔化す為のあらゆる事が儘ならない。
傍らの五条先生を見上げると、購入した時から垂れ勝ちであった麦わら帽子のつばを弄っている。その気の無い素振りに、安心する。
「「八尺様」って、奇妙な声を上げて目を付けた子どもを執拗に追いかける都市伝説でしたか。」
「そ。公園にいるメスの鳩と大して変わらないよ。」
五条先生はつばを人さし指で跳ね上げて、事もなげにからからと笑う。きっと「八尺様」と公園の雌鳩は何もかもが大幅に異なるいきものなのだろうけれども、最強の男からするとそれ等も、モスラと誘蛾灯に集る蛾も同じものとからげられてしまうのだ。強いなあ、と。圧倒的な豪胆さに私も釣られて笑う。
「仮想怨霊「八尺様」は、成人前の若い人間の前に無差別的に姿を現しては、自分の簡易領域に閉じ込めようとする呪霊だ。大抵がその儘殺されるね。」
「呪霊にも好みなんてあるんでしょうか。だとすると、滅茶苦茶な冥婚にも思えますね。」
「面白い事を思い付くね。婚活か。僕は若者の成長を阻みたがる過激派なショタコンっぽいと思ったんだけど、そーゆーのもあるか。」
「異類婚姻譚、と言えば耳触りが良いですけれど。」
「結婚相手を見つけたいなら結婚相談所にでも登録しとけってね。」
「本当に、そう。」
心を汲み取った足の遅々としたさまを何時指摘されるか、内心どきどきしていたが、五条先生は一切触れる事なく歩幅を合わせて付き合ってくれた。
軈て、青空と緑葉に朱の鳥居、パッキリとした三色に視界が彩られる。他愛ない世間話の種の尽きぬ内に、筵山を下る道が現れてしまった。後輩には申し訳の無い事だ。でも、この時がずっと続いてくれたならば良いのに、と願ってやまない。
「名残惜しいですが、それでは、行って来ます。五条先生。」
長い長い石段を一段、降りる。木漏れ日を避けてもう一段。顔や首を手で扇ぎながら一段、二段、三段。お忙しい特級術師の五条先生は踵を返した頃だろうかと、不図、きざはしの上段を振り返る。
五条先生は其所に居て。人跡未踏の湖の水面のように静謐な表情が、あった。
「迎えに行こうか。」
囁きがしんとした木下闇を揺らす。
むかえに、いく。それは、今日の夕刻の話か。それとも、一年後の話、か。
五条先生は言葉を接がず、ただ、ただ、私の答えを待っている。
期待が過る。私の家の事情などこの人は知る由も無いと言うに。知っていてもおかしくはないと、期待が過った。鬱蒼と木陰に覆われた山道は、太陽の目を盗んで涼を匿っている。冷ややかな緑の下では、私の本音も弱音も懇願も見過ごされるのではないか。足もとの日溜まりは人生の光明を暗示しているのではないか。緊張に、身心が、冷えゆく。戦慄く唇を開けては閉じて――直ぐには首を横に振れなかった。
「五条先生は特級術師で、世界を股に掛けて忙しい人でしょう。」
「君を迎えに行くくらい訳ないよ。」
違う。これは今日の夕刻の話だ。そう強く強く自分に言い聞かせても心臓が痛む。救われたい、助かりたい。助けて。鼓動は最早それを喚き立ててばかりだ。
「夢子。」。名前を、呼ばれる。君は僕の大事な生徒だ、と。今一度私に教えるかのようにゆっくりと。この四年間で数え切れないくらいに聞いた声が、鼓膜に深々と刺さった棘を抜き去ろうとしてくれている。嗚呼、アイメイク、確り粧ったのにな。
「――いつか、私が一人では帰れなくなったら。その時はお願いします。」
神様が自らの孤独を分け与えて創ったようなうつくしいひとは、編まれた麦わらの下で微笑んだ。笑顔は透明で、少し匂いがあった。
「先生に任せなさい。」
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東京都立呪術高等専門学校の四年生を修了し、モラトリアムの一年が始まってから、日の光は望めなかった。四年生の夏に母親から電話で告げられた通り、私は生家に呼び戻され、一切の抵抗も許されぬ儘に呪術師から道具へと零落した。呪術師の家系に女として生まれ付いたからには役目を真っ当せよと、当主に命じられるが儘、磨けど曇るものごとばかりを学ばされる日々。何所の誰とも見合いらしい見合いは行われなかったが、家々の間では疾うの昔に話が済んでいると当主より申し渡された時、一年前の母親の切迫した様子に得心がいった。如何しても私に戻って来て貰わねば途端に婚約は破談となり、権威の持ち得ぬ我が傍流はお取り潰しの憂き目に遭うと言う訳だ。それを聞いて逃走を目論めたならば何の事はなかったが、躊躇いが生じるくらいには家族に情があった。あってしまったのだ。
春以来、久方振りに日の下に身を晒すと、世の季節が既に夏に移ろっていて驚いた。皮膚を炙る烈しい陽光、絵の具を撒いたかのような青い空、青々と生い茂る桜の葉、渾身で世界を震わす蝉の声。生命の活気付いた世のなかは怨めしい程に色鮮やかで、目が焼かれて、魂が焦がれて仕様がない。
家の前に付けられた運転手の繰る車の後部座席に乗り込む。寸前、入道雲が背を伸ばそうとしているのが見えた。白と青のコントラスト。胸の締め付けられるのは着物の帯のきつい所為だと、思い込まなければまたアイメイクが落ちてしまいそうであった。
助手席に当主、後部座席の右手に父親、左手に母親、中心に私を座らせて、車は順調に道路を進んでゆく。家が取り決めた婚約者との顔合わせが行われる場所に続く道を。その最中、左側から頻りに説かれる内容は電話越しに聞かされた台詞の繰り返しだ。お前は御家の為に生きられる、お前は果報者だ、お前を娶ってくださる方は悪い方ではない、と。
私は自分の為に生きたいし、そうでなければ果報な身分とは受け入れられないし、悪い人ではないとの枕詞は善い人には付かない。どぶに浮かぶあぶくが弾ける音にも近しいそれに耳を侵される毎、飼い殺しの契りが結ばれる時を待つだけの己が嫌で、嫌で、固く目蓋を閉ざした。
燦々と降り注ぐ日射しの分だけ陰鬱な薄暗さの蟠る車内、木下闇で静かに差し伸べられた言葉がリフレインする。
――いつか、を選べるならば――。
力強い人の名前を唱えようとして、叶わなかった。矢庭にブレーキが踏まれる。慣性の法則に従い、乗車している人間全員が前のめりとなる。ふた度、背凭れに身体を押し付けられる事となると、当主と父母は身を乗り出して一体何事だと運転手に詰め寄った。状況を確認するべく、私も目蓋を押し上げようとして――予感が、あった。
「目、開けて。八尺様が迎えに来たよ。」
運転手が震える指で指し示した、フロントガラスの向こう。
其所に佇む存在に誰もが息を呑んだ。
にょっきりと、車の前方数十メートルの所で黒影が立体を成している。真っ白に輝く冠に、何ものにも染められぬ黒衣。天を衝かんとする巨躯の天辺に、あの夏にあげた麦わら帽子が載っている。――その人が、笑う。陽炎の只中で手が振られる。まるで昨日振りに会うかのような気安さで。
車道の真ん中に浮き彫りとなっている姿は、此所に在る事がひどく不釣り合いで、悪い夢みたいで、私は母親を押し退けてドアハンドルを掴んだ。
「――五条先生!」
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