jujutsu
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射し込む西日が部屋じゅうにのさばっている。窓から入り込み、開け放たれた間仕切りを通り抜けて玄関迄出迎えてくれる橙の透明な光の中に音はない。
呼ばれず飛び出て、やって来た傑の部屋はものの見事に静まり返っていた。傑が帰って来たと五条くんから聞いたのだが、もしかして飲みものを買いに自動販売機にでも赴いているのだろうか。そうであれば直ぐに戻って来るだろうから此所で待たせて貰おう。無用心にも鍵の掛けられていなかった扉を閉じ、部屋に上がり込んで、久方振りの逢瀬に浮き浮きとする足取りで傑のプライベートルームに踏み込む。
――居た。傑は、居た。ベッドに寝そべってすうすうと寝息を立てて眠っていた。
「す、」と。思わず呼び掛けようとして、咄嗟に口を噤んだ。口からの音のみならず足音も禁じて、抜き足差し足忍び足、つつつとベッドに寄ってみる。薄く開かれた唇から、ひっそりと漏れ聞こえる呼吸音だけが生存のあかしとなっていた。目蓋は震えず、身動ぎもせず、極めて静かな寝姿。熟睡、している。それもその筈だ。彼は強力な呪霊を捕らえる為に、三日三晩山に籠って修行僧も斯くやの荒行を成し遂げて来たのだから。
帰って来るなり真っ先にシャワーを浴び、小休憩の心算でベッドのへりに腰掛けて目を瞑ったらその儘――と言ったところか。フェイスタオルを下敷きにしてはいるが、濡れて艶を帯びた髪の束の殆どは散らばって、シーツを彼方此方湿らせている。髪を乾かす余力も残されていなかったのだろうとは、目もとに浮かぶ薄墨を刷いたような隈から察せられる。ともすると、山籠りの間じゅうは徹夜していたのやも知れない。
仰向けでくったりと伸びている傑の、その額に掛かっている前髪をそうっと指先で払ってやる。水に漬かって冷たかった。頭寒足熱は延命息災の徴、と彼の文豪も謳っていたが、これでは身体が冷え切って風邪を貰ってしまう。スプリングを軋ませぬように注意しつつ、マットレスに手を突いて、蛇腹に折り畳まれてベッドの片隅に遣られたタオルケットへと手を伸ばす。
もぞ、と。腕が持ち上がった。身体を支えていた手首が、鍛え上げられた腕に相応の力強さで掴まれる。ぐいと引かれてしまうと、為すすべもなく傑の身体に倒れ込むしかなかった。鼻先を強かに打ち付けた先の大胸筋がゆるやかに上下する。「夢子……?」。掠れた声が、私の名前を呼んだ。
「おはよう、傑。おかえり。」
「ん――、ただいま……。」
応答は喃語じみてふにゃふにゃだった。おまけに、閉ざしていたまなこには部屋いっぱいに満ちている明々とした夕日は嘸やきついものがあるのであろう。伏せた傑の目蓋は彫刻刀で創った傷のように細い線を描くが、ぎゅうと瞑られて縁取りの消えかけているそのさまは、むずかる赤ん坊みたいにあどけなかった。
格好付けな彼の見せた可愛い一面に、如何して頬が蕩けずにいられよう。
「傑、可愛い。」
「夢子のほうが……かわいいよ……。」
傑の事だから、寝惚けていても卒がない、とも取れる。だが生憎と、私こと恋する女の思考は単純なのだ。好きなひとから言われた言葉だけがこの世の真実だ。背中に添えられた大きな手の平も、信じて良い、と後押しをしてくれている。無意識でも可愛がられている実感に浮かれずにはいられない。厚い胸板に頬擦りをすると、傑は吐息のみで微かに笑った。
「ねえ。タオルケット掛けないとお腹冷えちゃうよ。」
「夢子が……かぶさっていてくれたら、じゅうぶんだよ……。」
「重たくない?」
「ふとんは……重みがあったほうが、よくねられる……。」
「まあ、素直。」
何時もであれば「うーん、丁度良い、かな。健康的で、抱いていて安心するよ。」などと言ってくれるところだ。気遣いの鬼も今日ばかりは疲れ果て、彼の奥底で眠りに就いているのか。珍しいくらいに神経が鈍麻している。普段の猫可愛がりの彼女扱いに不満なぞ勿論有りはしないけれども、親友の五条くんに接するような気の置けない物言いをする傑も良い。でも、起きた時に揶揄してやろう。
如何様な反応を見せてくれるだろうか、と悪戯心がむくむくと育つのを知ってか知らずか、背に回された傑の手が背骨を辿り出した。水の中をゆくような緩慢な動きで私の後ろ頭を目指している。
「ごめん……あと、じゅっぷんだけ……このまま……。」
「晩ご飯の時間まで寝ていたら。起こしてあげるよ。」
「じゃあ……それで……。」
頼り無げに頭蓋に至った手のする事は、言葉以上にうとうとしていた。今から暫く拘束する事へのご機嫌取りのように、二度三度と髪を撫ぜられる。血のようく通ってあたたかな指先に触れられるのが大変に心地よくて、私迄釣られて眠ってしまいそうだ。
眠りの泥に沈み込む中で、烈しい日射しに顰められていた傑の眉間が和らいでゆく。
「……ああ、おみやげ、あるから――」
「うん。甘いの、買って来てくれたんだよね。起きたら一緒に食べよう。」
「ん――」
「傑。」
「――、……な、に、――」
それきり、すとん、と。身体じゅうから力が抜けた事を肌で感じ取る。
夢の中に向かう彼に届けるには、如何やら一歩、遅かったようだ。深い呼吸に合わせて膨らみ萎みとする胸に、語る。
「お疲れ様。おやすみ。」
よい夢を。
逞しい胸板に顔をうずめる。真新しい石鹸のにおいが、ティーシャツの布地越しに三十七度の体温が、しなやかな筋肉の奥に穏やかな鼓動が感じられる。この呪術師稼業、大きな怪我もなく無事に帰って来てくれる事が一番の土産だ。傑こそはそのような心配などご無用な特級術師様であるのだが――強い彼を風邪から守る、このお役目は其所のタオルケット以外に私にしか務まらない。
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