jujutsu
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東京都立呪術高等専門学校敷地内に在る、王様の休憩所とされるお部屋。其所に踏み込む事を今更躊躇った手が、滑らかに動く筈の板戸を錆び付いた鉄扉宛らに変じさせた。のろのろと、のろのろと開いてゆく。戸の隙間から少しずつあふれてきたる、昼下がりのこんじきの陽光、淹れ立てのコーヒーの芳ばしい薫り、ひとりきりの静寂。何事もないように完成された完全なる空間を、天国とは言わない。地獄とも言わない。ただ、別天地、だと。彼の選び取ってそばに置くもの一つ一つに、特別、を見出だしてしまう。――その中で私だけが凡庸だった。縦枠に強かにぶつけられた戸が、八つ当たりなぞみっともない、と大きく上げた非難の声を甘んじて受ける。だって、私は、普通、なのだから。なのに。
つい、と。モダンなデザインの椅子にすっかり身体を預けながら携帯端末を繰っていた悟さんが、私、を振り向く。途端、形良い唇がさもときめいているのを目の当たりにする事となった。
逡巡を置き去りにした私の踵が音を鳴らす。鳴らして、鳴り止む迄に時間は掛からない。然程広くない部屋だ。彼のもとに至るにはたったの数歩で事足りて、その背が浮こうとするのを押しとどめる事だって出来た。逞しい両の肩に手を置いて支えとし、悟さんに跨がる。膝に腰を下ろしてからは見合うのが避けられて、私は彼の肩口に額をうずめる事にした。
「この体勢、エロくない?」
「遅蒔きの思春期ですか。」
「じゃあ、木にしがみつくコアラみたいじゃない?」
「そこ、近似なんですか。」
「ちなみに、コアラが木にしがみついているのは体温調節の為なんだって。これってトリビアになりませんか。百へぇ。」
ボタンを押す仕草を真似て、軽く、何度となく腰が叩かれる。相槌も打たず、突っ込みの一つも入れず、黙してされるが儘になっている私の様子に只事ではないものを感じたのか。あたたかな体温で胸の痞えをとかしてしまおうとでもするように、悟さんの手が肩甲骨の間、心臓の裏側に当てられる。面倒臭い女をか、むずかる子どもをか。何方にせよ手の掛かるいきものを懐柔するべく意識して作られた、低音の、ゆっくりとした声が鼓膜に注がれる。
「で、どうしたの。何かあった? それとも、何かした? 怖くないから、悟さんに言ってみな。泣き出しそうな顔でここまで来て、甘えたいだけ、なんて強がれる程は強くないでしょ。僕の可愛い可愛い彼女は。」
ぽん、ぽん、と背中を叩いて、胸のうちを優しく吐き出させようとする手が憎らしい。
弱いと、如何して、ようく知っていて、何で、貴男は、何故、私を、わからない、こいびとに、してくれたの。
あやされる毎にばらばらのぐちゃぐちゃになってゆく問いを、掻き集めて、纏めて。それでも音にする事は出来なかった。私は凡人だ。名家の出でもなければ取り分け才覚の有る訳でもない、恋で変生する事もない凡人だ。だのに悟さんは、誰でもない、私の恋慕に応えてくれた。気紛れでも構わない、いっときの関係でも構わない、と思えたのははじめだけで、今となっては日毎日毎に明日を望んでやまないのだ。
「コアラかよ。」
黙りを貫き通す私に呆れ返った風な悟さんが、ごそごそと、マウンテンパーカーのポケットに携帯端末を仕舞い込む。翻った手が私の後ろ頭を撫でてゆき、撫でてゆき、髪のひと房を摘まむ。「枝毛見っけ。」。これでは睦み合いよりも、正にコアラの毛繕いをしていたかのようではないか!
かぶりを振って彼の手から逃れる。肩を押して距離を取ろうとしたが、背に回されたもう一方の手が逃亡を阻んだ。私はこんなに貴男でいっぱいいっぱいなのに、何でそんなに、矢鱈滅鱈楽しそうにしているのか! 眼帯に覆われて尚小奇麗な相貌を睨み据えて、自棄っぱちに吐き捨てる。
「枝毛くらいありますよ! 満足に手入れをする余裕なんてありませんから!」
「ええー、そんな怒る?」
「怒りますよ! 私は美しくいられません、強くもありません、至って普通の人間です。誰彼と比べて秀でているものも何もない。なのに、貴男、私のどこが良かったと言うんですか!?」
胸に溜まっていた澱をこぼして、肩で息をする。言ってやった、と、言ってしまった、が混ざり合って出来た涙の膜は、まばたきをすると剥がれ落ちてしまう。頬を濡らす一条を、伸びて来た手指が、親指が、跡形も無く拭い去る。クリアになった視界には、白髪を揺らし、実に不可思議そうにきょとんと首を傾げる悟さんの姿ばかりが在った。
「別に、家電欲しさに電化製品のレビューを見比べているわけじゃないからなぁ。恋人に性能や口コミでの評価は求めていないよ。」
「じゃあ、私である理由はなんですか。」
「さあ。一目惚れに理屈が必要?」
かの六眼に見初められたのであればこれ以上はない誉れだろうが、生憎と、私が見初められたいのは五条悟そのひとにである。彼の意思で選んで貰いたいものだが、強欲な事だろうか。
今一納得し切れずに、アー、とか、ンー、とか歯切れ悪く唸っている唇を、涙を拭ってしまった親指がそうっと撫でて来る。
「強いて言うなら、顔、とか?」
「かお。」
「そ。僕と会う度に見せる、そりゃあもう嬉しくて嬉しくて堪らない! 悟さん大好き! って大きく書いてある、あの笑顔にはやられたかも。」
「かも。」
曖昧な話に険を帯びる目もとであったが、頬に接吻の一つも贈られると、涙同様に取り去られてしまった。
「ね、夢子。笑って。」
機嫌の真っ直ぐに直ろうとするのを見計らったおねだりが、耳もとに寄せられる。意識的に笑うだなんて難しい事だ。けれども、目の前にはいとおしいひとの甘やかな微笑みがあるのだから、頬がとけていかない訳がないではないか。夏の炎天下のアイスクリームの方が未だ形を保てていると言えるくらいに相好が崩れてゆく。
眼帯越しに楽しんでいた悟さんは、不図、思うところ有りげな顔付きで自らの頬へと手を遣った。
「恋人や夫婦は似てくるって言うけど、僕も、夢子のこと好き好き大好き! て顔してたりする?」
「そう、ですね。割りと。」
「マジか。クールビューティーで売っていたんだけどなぁ。」
ビューティーは兎も角としてクールであった事はそうないと思うのだけれど。初耳だと口にしかけて、はたと気が付いた。私ははじめから、彼の言うところの「好き好き大好き! って顔」を見ていた為にクールだと言う印象を受けなかったのだ、と。
「貴男、本当に、訳もなく、何もない私の事が好きだったんですか。」
「信じて貰えなかっただなんて傷つくなぁ。それに、訳なら話したし、何もないって事はないさ。それは君が一番よく知っている。」
ビシ、と。悟さんが突き付けた人さし指が、私の胸の真ん中を射る。谷間に触れたのはご愛嬌だとしておこう、と決めた矢先に、もう一度、胸を突かれる。心臓の奥の奥、魂に言葉を植え込むようにして。
仕草の重々しさに比べて、唇のなんと軽やかなこと。悟さんは得意満面にからからと笑う。
「夢子、僕のこと、大好きだろ。それで充分だよ。」
「――それに掛けては貴男にも負ける気がしませんね。」
「最強じゃん。」
冷やかしの口笛を吹き終えるなり、背中が押される。身体を預けるように強いられて、私は大人しく悟さんの胸に凭れ掛かった。
完璧な世界の中で、きっと、私だけが異物だ。如何程努力を積み重ねたとて、何時か天上に届く存在に成れるとは到底思えない。だとしても、彼がいるだけで、私は普通に最強に成り得るのだ。
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