jujutsu
name change!
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シーツの大海原にさざなみが立つ。多分、ワンコールの間だけ。
「はい、夢野です。――いえ。気にしないでください。それで、車の手配は? わかりました。直ぐに向かいます。」
着信を報せる携帯端末を素早く拾い上げると、女は寝台から機敏に身を起こしながら応答した。きびきびとした動作ではあるが、其所に眠りを妨げない為の細心の注意が払われている事を、彼女と共寝をしていた男はようく感じ取っていた。夜の深い寝所では特に耳障りな働き蜂の羽音にも似たバイブレーションが直ぐ様に止んだ理由にしても、職務に熱心だから、それのみではない。
通話を終えた女が、ちら、と。眠っていた赤子がむずかっていやしないかを確かめるようなこわごわとした視線を注いで来るものだから、男は寝たふりを決め込んでやろうかとも考えて、やめた。寝転がった儘の格好で暗闇に投げ掛ける。
「ピンチヒッター?」
それを受け取った女は、今度は無遠慮なさまで颯と寝間着を脱ぎ捨て、手近なところに用意していた外出着を露骨な落胆の気配と共に身に纏ってゆくのであった。
「ええ。派遣された術師では対処が出来ないから来てくれ、と。少し、出て来ます。」
「夢子さん、頼りになるぅ~。」
「でしょう。ですから、いつ隠居してくれてもよろしいですよ。養って差し上げます。」
ひゅう、と短い口笛で囃す間にも女の支度は着々と進められる。床に降り立って衣服を全て着替え終えてしまうと、簡単に畳んだ寝間着を枕もとに放って携帯端末と引き換えた。画面を点灯させて時刻の確認を怠らずに、片手では手櫛で髪を梳き始めている。洗面所に寄る間も与えられない程に切迫した事態に招集されたのだと、誰よりも男こそが察せられた。
不図、時間を惜しんでいる筈の女の動きが止まった。手首をさすり、あるべきものがない不可思議に首が傾いてゆく。
「あれ……ゴム、どこに……?」
携帯端末の画面の明かりで暗闇を照らして辺りを見回している。
その失せもの探しの仕草を見詰めている内に、寝入る前に彼女の髪をほどく仕事をした事を、手入れの行き届いた長い髪の手触りの良さを手指で充分に味わった事を、男は思い出した。確かこの辺りに置いた、ような。男が、のそり、と身体を起こす。長い腕を伸ばしてサイドテーブルに据えて在るランプのスイッチを入れると、間接照明の薄ぼんやりとした明かりが、彼女の探しものの在処を浮き彫りにした。サイドテーブルの片隅に、黒い輪っかがぽつねんと。
「お探しの品はこちらですか。」
「そちらです。」
律儀に応えた女の手が早速ヘアゴムを掠め取った。軽く整えられた髪が手早く纏められてゆく。
御髪の御簾が上げられるなり、柔らかな光は彼女のかんばせへと手を伸ばして、額を頬を首を撫でては橙に染め上げた。その中で、花脣だけは如何にも慰撫出来なかったらしい。つんと尖り切った赤々とした其所から、口惜しげな声が漏れる。
「今夜こそは貴男を起こさずに発てる筈だったんですけれど。」
「フッフッフ、修業が足りていませんなぁ。」
「痩せ我慢。目、閉じかけていますよ。眠たいんじゃあありませんか。」
男が目を細めたのは開いた瞳孔に光が射し込んだまばゆさ故の反応であったが、穏やかに前髪を撫でる華奢な手のぬくもりが額に染むと、眠気が込み上げて来るのもまた事実であった。欠伸を噛み潰すのを目敏く見付けて、「ほら。」と、女は得意満面に笑った。
「安らかに眠っていてください。この夜に、貴男の出る幕はありません。」
「それじゃあ、お言葉に甘えて寝直すかな。いってらっしゃい。」
「いってきます。おやすみなさい。」
カチリ。テーブルランプのスイッチが切られる。明かりの落ちた室内であっても足音は危なげなく遠ざかってゆき、軈て玄関扉の開閉する音が夜陰を微かに、微かに震わした。
真夜を取り戻した部屋で、男は一人、キングサイズのベッドに身体を沈めた。如何な夜更け如何な夜明けであろうとも、携帯端末のバイブレーションで目が覚める。職業柄――役割柄癖になってしまっているのだが、果たして今夜、自分は本当にワンコールで目を覚ましただろうか。
「これが平和ボケってやつ?」
――二〇××年。世界の大多数は何時の世も変わらずに非術師が占めており、それに伴って呪霊は滾々と湧き出し続けている。
だと言うのに常に最前線に立っていた男がこうして大の字で寝そべっていられるのは、偏に彼の目指した夢の成果であった。
嘗て教え子であった少年少女は、期待以上に立派な成長を遂げてくれた。最強の名を負うた者の視点、そして教師の視点からは未だ未熟な部分が見えるものの、経験を積みさえすれば段々と成熟するであろうと確信が持てる程度には、皆一様に自立してくれている。自分だけではなく他の術師や補助監督からも、彼等にならば祓除を任せられる、と信頼を勝ち得ているのが何よりもの証だった。望んだ仕組みは整いつつある。喜ばしい事だ。喜ばしい事だが、居心地が、悪い。それ迄生きて来た世界から、ぽん、と弾き出されてしまったかのような強い疎外感。強い違和感は、その先で辿り着いた別天地にも馴染み切れないかのようだ。
元教え子達や恋人の働きによって追い遣られた、安息の揺籃。非日常こそが日常であった男は、脆い骨の儚い生きものを手の平に押し付けられたみたいに余暇と言うものを持て余していた。
「隠居か。縁側で茶を啜りながらクロスワードに精を出す、とか?」
――ウケる。喉に迫り上がって来た可笑しさは、口を開くと不格好な笑い声となった。
ごろり、と横向きになる。放り出した手が、冷めゆく女の体温の欠片を掻き集めるようにして自然とシーツの上を滑った。甘い匂いを含んだ人肌の名残を掴む。もの足りない。こんな事ならば彼女に随伴してやれば良かった、との思いが過る。
夢想だにしなかった平穏に、今は未だ戸惑うばかり。それでも、いずれならされてゆくのだろう。流転する万物の中にうずもれようとする男の目蓋が、平和な夜を享受して、そうっと閉じられる。
「なべて世は事もなし、ってね。」
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