jujutsu
name change!
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「都合の良い夢なんじゃないかって、そう思う時があります。」
――夢子さんのこと。
一時間が経っても日付が変わってもまっさらぴかぴかな儘の報告書から、気分転換と言い訳して尻尾を巻いて逃げた先の、自動販売機の設置場所。其所に恵くんは佇んでいた。LED照明の日溜まりの中で彼の顔色はより一層白く、夜陰に浮いていながら沈んで見えた。
「恵くん、何かあったでしょう。」
「別に。おやすみなさい。」
ふい、と顔ごと逸らした視線は自動販売機のダミーサンプルを映す事すらない。下段に位置するお決まりのボタンを押し込もうと、恵くんの手が持ち上がる。しなやかな指がブラックコーヒーを選び取るよりも早くに、私は返却レバーを押し下げた。がらがら、じゃらじゃら。夜を引っ掻き回すけたたましい音が黒い眉を顰めさせた、訳ではない。眉の下の眼差しは非難がましく私を見据えている。
「この時間にブラックコーヒーなんて飲んだら眠れなくなる。寝ない子は育たないから、五条さんの背を追い越せなくなるよ。」
「そんなに身長あったら邪魔でしょ。」
つんけんした溜息に混ぜて吐き出して、恵くんはしゃがみ込んだ。コイン返却口から硬貨を取り出す旋毛を見下ろす。今夜の彼の心は随分とささくれていると見える。ならば打ってつけではないか。私室の机上、報告書の傍らに置いておいた恵くんへのお土産の存在を思い出した私は、良い閃きにパチリと手を合わせた。
「ちいちゃい恵くん。少しの間、一人で食堂で待てる?」
「夢子さんよりはデカいんですけど。」
すっくと立ち上がるなり、恵くんが半歩、距離を詰めて私をじっとりと見下ろす。他愛のない売り言葉を容易く買い取りはしたが、直ぐに脇の空き缶入れにでも転売したらしい。恵くんは握り込んだ手ごと硬貨をスウェットパンツのポケットに突っ込むと、自動販売機に背を向けて歩き出した。「食堂ですね。」。そう確かめる声が真夜を彷徨うか弱いものでなかったから、自動販売機の前で出会った時の余韻はなかったから、少しだけ安心した。
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寮母さんが常備してくれているコーヒーの保温ポットの隣で、電気ケトルが口からしゅんしゅんと湯気を噴き上げている。微かな電子音に沸騰した事を知らされ、私はケトルを引っ提げて、恵くんが取ってくれた席に向かった。お邪魔虫極まりない、連れて行けと小五月蝿くて堪らなかった報告書とボールペンをテーブルの端に押し退ける。椅子に腰を落ち着けて、奴等を下敷きに、紹介される時を今か今かと待ち望んでいたそれを手に取る。
「じゃーん。恵くんへのお土産の紅茶でーす。」
「ハーブティーって書いてありますね。パッケージに。」
「恵くん、細かい。細かすぎて伝わらないモノマネ選手権に出られるレベルだよ。」
「それとこれとは話が別じゃないですか。」
「頑張ればいけると思う。」
「いけない。」
「釣れないなあ。」
「俺に構ってないで、報告書、やらないと不味いんじゃあないんですか。夢子さんが余裕で提出してるところ、見たことないですよ。」
「つい持って来ちゃっただけだよ。気にしないで。放っておいて良い。」
「良くないでしょ。」
「やらなくちゃならない事は、その内、やらざるを得なくなる。それならば、余裕のある今はやりたい事を優先したい。私は、恵くんをひとりで放っておきたくないよ。」
パッケージの表面の商品説明から瞬時に跳ね上げられた視線が、ひたと。皮膚の下迄、筋肉の下迄、感情を追いかけるように私の頬から離れないものだから、少しだけ戸惑った。如何言うおもいから言っているのか、と問い詰められているようであったから。「――ええと。」。絞り出した困惑が気付けとなったのか、恵くんの目が気不味げに泳ぎ始めて、ハーブティーのパッケージへと漂着した。
「何でハーブティーなんですか。それ、任地の名物って訳でもなさそうなのに。」
「今日の任務上がりに五条さんからお使いを頼まれたんだ。それでデパートに寄った時に、草があるなあ、と思って見ていたら店員さんに声を掛けられてね。生姜風味のものもあるって聞いて、買っちゃった。恵くん、生姜が好きでしょう。」
「それは――ありがとうございます。でも、お茶っ葉のこと草って言います?」
呆れの気色を刷いた唇から放たれた、「あと、キャッチとか気を付けてください。」との助言を耳の奥に仕舞いつつ、二人分のマグカップになみなみと湯を満たす。パッケージの封を切り、中からピラミッド型のティーバッグを二つ摘まみ出して、各々のマグカップへと沈めた。紅茶を淹れるお作法があるそうだが、今は真夜中で此所には二人きり。少しの無作法は許されたい。
パッケージの裏面には『浸出時間五分』との記載が為されている。壁に掛けられた時計の針を見詰めていた目は、気付けば、林檎を思わせる香りに染まりゆく湯気へと吸い寄せられていた。この匂いは、カモミール、だったか。温かな水底に、リボンのほどけるように黄金色の抽出液が落ちてゆく。
「恵くんって、おはようやおやすみを自然と使うよね。」
朝日の端っこを捕まえて溶かし込んだような水の色に、明朝へと思いを馳せて、今宵を思い出す。
テーブルに置いたパッケージの裏面の、枠の中の食品表示を手持ち無沙汰そうに眺めていた恵くんが、徐に顔を上げた。そうだろうか、と斜め上の虚空を見詰めて記憶を探っている。挨拶をする習慣が身に付いているからこそ覚えがないのだろう。
「挨拶をなおざりにする人も世の中にはいるから。恵くんはちゃんとしているね。」
「俺が、と言うか――姉がそう言う人だったからだと思います。」
「そっか。よいお姉さんに育てられたから、こんなにもしっかりした子になったんだねえ。」
「夢子さんだって、そう言う礼儀はしっかりしてるじゃないですか。」
「そう言う礼儀以外はしっかりしていない、みたいな言い方だなあ。」
大袈裟に肩を落として見せてから、マグカップのふちをなぞる。湯で熱された陶器は半円を描いただけで指先をチリチリと焦がし、端々にも神経の通っている事を、身体に生命の宿っている事を思い知らせてくれた。「私は――そうだなあ。」。視界の真ん中に居る、向かいの席で頬杖を突く恵くんへ笑いかける。多分、少しだけ、苦く。
「私は口を閉ざすのが惜しいだけだよ。だって、挨拶って一日一回きりのものじゃない。十日で十回、百日で百回。そうしたら私達、おはようやおやすみを後何回言い合えるのか、って考えたら――ね。」
語尾を強く跳ね上げる事で上向きな話題になるよう軌道修正を試みたけれども、今は何もかもが暗く重たく感ぜられる魔の夜中。蛍光灯の明かりが一つ消えたかのように気の滅入る空気を充満させてしまったのは、先輩として不覚であった。「なーんて。しんみりさせたね。」と努めて明るい声を出して話を切り上げ、壁掛け時計へと目を遣る。丁度良い頃合いだ。マグカップからティーバッグを取り出す。小さなピラミッドを小皿に二つ並べると、居住まいを正した恵くんに呼び掛けられた。
「夢子さん。」
折れて曲がる事のない音の芯を宿した声が、夜のしじまを揺らさず密やかに響く。
「明日も、明後日だって言います。呪術師やっている以上は、これからもずっと、なんて簡単には言えませんけど――それでも、夢子さんと当たり前に挨拶が出来る日が続いたら、とは、思ってます。」
「――なあに、それ。何だかプロポーズみたい。」
「こんな辛気臭いので良いんですか。」
納得いかないと何故か渋るその一言がとても可笑しくて、思わず吹き出してしまう。
けらけらと笑い出す私に、恵くんは決まりが悪そうに端正な顔立ちを顰めると、無言で愛用のマグカップのハンドルに指を引っ掛けた。口もとに近付けて、湯気と共に柔らかくくゆる香気に鼻先をうずめ、熱々のハーブティーをふうふうと吐息で冷ます。警戒心の強い黒猫みたいなさまは何時迄も見ていられる可愛らしい光景だ。喉を鳴らしていた可笑しさは何時しか潜まり、頬が弛んで和やかさが滲んでゆくのを感じ始めたものの、それは束の間だけの事であった。
「恵くん、大丈夫?」
彼の唇の先がそろそろとマグカップのふちに触れて、直ぐさまに離れる。あつ、と微かな苦鳴が漏れ聞こえた。五分間と少しくらいでは、たっぷりと注がれた熱湯の温度は下がってくれない。熱は陶器にもよく染み込んで、飲み口を触れていられるものにしなかったのだろう。量が多い方が嬉しいだろうと思い遣ったのだが、それは独り善がりと言うのだと、煮え湯から上がる狼煙が詰っている。
ごめん、の形に開こうとする口を塞いでしまうように、ことり、と。恵くんのマグカップの底がテーブルを打った。
「――何て言うか、甘い、ですよね。」
「カモミールの匂いかな。」
「風味の話じゃなくて。夢子さんって、俺に甘かったりしませんか。」
「甘かったりしますよ。恵くんは可愛いからねえ。」
「どこが。」
「じゃあ、手、出して。」
じゃあ……? と怪訝な表情を浮かばせながらも、躊躇無く手を差し出してくれる。その素直さを、如何して可愛がれずにいられるだろう。脈絡のない要求に応えてくれる、彼から寄せられた信頼を心地よく思うと自然と頬が笑む。手の平を上にして伸べられた薄い手に、そうっと手を重ねる。
「いい子、いい子。」
骨張って固い手の甲にも手を添えて、恵くんの手の平をまあるく撫でる。特徴的なつんつんとした髪の毛の先が揺れた。擽ったさに身動きしたのではない。否定的に首を振ったのだと、直ぐにわかった。厳めしく、堅く、頑なな声音で彼は言う。己を律するように、己をゆるさぬように。
「自分ではそうは思いません。」
「私はそう思うよ。」
おはようやおやすみやありがとうをきちんと言える君はいい子だ。期限を守らせようとする真面目な君はいい子だ。他人の機微に敏く、心配をしてくれる君はいい子だ。信じた相手を疑わない君はいい子だ。
この夜の間じゅうの出来事だけでも幾らでもいい子の証明が出来る。それでも、私は、恵くんがいい子だからこうしているのではない。
「仮令いい子じゃあなくても、恵くんはかわいい子だよ。だから甘やかしたくて堪らない。」
黒い睫毛のとばりの下で、夜明けの瞳に星が散る。
まばたきをすっかり忘れた様子で目を見張る彼が、一度だけ、二度とは見れぬまぼろしを掴むようにして私の手を強くつよく握った。
「だから、何でそう、都合の良い夢みたいな――」
す、と。簡単に手をほどいてしまうと、恵くんはマグカップを傾けて、未だ熱かろうハーブティーで喉を焼くように潤した。
ひと口啜りふた口啜り、滑りが良くなった舌が「それ。」と指し示したのは、蛍光灯の光を照り返す白紙。文字を主食とする呪霊が出たとしか思えぬ有り様の報告書であった。白く輝く書類のまばゆさにやられたのか、余りの惨さに頭を痛めたのか、恵くんが目を細める。
「俺に手伝えることありますか。」
「手伝ってくれるの?」
「可愛い子よりはマシなんで。」
心底から不服そうに吐き出した恵くんが、テーブルの隅に追い遣られていた報告書を引き寄せる。
年頃の男の子に、可愛い、は褒め言葉として値しないのか。大好き、の想いの隠れ蓑を奪われて苦しい気持ちはあれども、私とて好きな子に嫌がらせをする趣味は持ち得ていない。苦笑いで遣り過ごして、いざ、ボールペンを握る。
「それじゃあ、あらましを話すから文面を一緒に考えてくれる? 堅苦しい文章ってどうにも苦手なんだよねえ。読んでも書いても眠くなる。」
「寝ないでくださいよ。マジで。」
「ああ、でも、今の恵くんには丁度良いかもね。報告書作りなんてつまらないでしょう。直ぐによく眠れるかも知れないよ。」
「どうですかね。夢子さんといてつまらないと思ったことがないんで、終わるまで付き合えそうですけど。」
さらりと可愛い事を言ってくれるなあ、かわいいなあ、なんて。言わないようにと決意した矢先に言葉が口を衝いて出そうになるのだから、如何しようもない。ボールペンを握り込んで堪えられそうになく、反対の手でマグカップを引っ掴み、乱暴にハーブティーで飲み下す。生姜のぴりりとした後味が正直者の舌を窘めてくれはした。けれども、心臓の方は如何か。カモミールには鎮静作用があると、茶葉専門店の店員さんは説明してくれた筈なのに。
「恵くんの方こそ、都合の良い夢みたいな事を言うよね。」
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