jujutsu
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午前零時、返事は無い。
彼のひとはスーパーヒーローなので、きっとお忙しくしているのだろう。そうでなくとも、今は深夜の真ん中。誰も彼も術師も非術師もなべて健やかに眠っていて然るべき時間だ。メッセージアプリのトークルームの吹き出しは孤独に浮かんだきり、既読の文字が寄り添ってくれさえしないのも当然と言えよう。
「『声が聞きたい』、なんて。」
安眠妨害も良いところの我儘だった。
吹き出しに託した不安な気持ちを読み上げて、残る息で嘆息。職員寮に構えたこの私室は居心地良く住めるよう手ずからデザインした筈なのに、薄光をも閉ざすドレープカーテンの招いた暗がりが、一人掛けのソファが投げ掛ける濃い影が、洗い立てで肌馴染みの悪いベッドシーツの冷たさが、私から安寧を遠ざけて眠りを寄せ付けない。こんなご商売だから気が立つ夜もある。明晩の生命の無事を思って気が塞ぐ夜も屡々ある。それが今夜であった。だから、つい、彼の一言をねだってしまった。彼は最強の術師ではあるが呪言師ではない。わかってはいるけれども、その気質よりも実力に嵌まるような余裕を持った穏やかな彼の声は、ともすれば呪言師の一言よりもよく私に作用するのだ。好きなひとの声とは、それだけで魔法のようだ。
もう一度、望みを懸けて携帯端末の画面を見る。変化は、ない。いっそ泣いてしまおうにも、くるまった毛布では冷えて凝った心は溶かせないらしい。この儘では何時迄も待ち焦がれてしまいそうで、急いで電源ボタンを押してスリープモードにした。眠れやしないのに目蓋を閉じたのは、画面の明るさに目を痛めた所為だけではない。まるで、お前は世界から見離されたのだ、と宣告されたような非常な心細さに耐え兼ねて、恐ろしさに逃げ出した思考がそうさせた。
目を瞑って出来上がった真の暗闇の中で、身体の中心に空いたうろの輪郭を寧ろはっきりと意識してしまうと、いよいよ夜が重たく伸し掛かって来た。呪詛のようにこわい事、かなしい事、嫌な事を延々と吹き込む、冷え冷えとした夜闇を祓ってくれる暁は未だ遠い。夜が、永い。
「――もう大丈夫。」
身体を雁字搦めにしていた憂鬱で綯われた縄の結び目が、不意に、緩んだ。今の声は、まさか。刹那の眠りの中で都合の良い夢を見ただけではないかと、ぱ、と目蓋を跳ね上げる。
果たして、夢よりも夢らしく、そのひとは其所に立っていた。
長い脚、高い位置に在る腰、厚みのある胸板、逞しい肩に首、と目線を上げて確かめてゆくに連れて、私の身体も起き上がる。ベッドの脇に立って此方を静かに見下ろすそのひとは――悟さんは吐息して笑った。暗闇が塗り込められた室内に、ぽう、と小さな明かりの灯ったようであった。
「鍵、開いてたよ。無用心だなぁ。」
「なんで、」
ここにいるんですか。震える声が余りにみっともないものだったから最後迄問えなかった。
悟さんは大きな手を一度、私の頭に置くと、返した手でサングラスを外した。目を凝らしてわかった事だが、同じ黒色の上着でも、何時も着ているマウンテンパーカーとシルエットが違う。他所行きの衣服なのであろう。折り畳んだサングラスをジャケットのポケットに入れてソファの背に引っ掛けた悟さんが、「奥詰めて。」と、振り返るなり言う。言われた通りに奥に向かい、滑り落ちるぎりぎりのふち迄行ったところで。ぎ、と。重たいと文句を垂れるシングルベッドを気にせずに、ずいと、空いたところに悟さんが上がり込んで来た。そうして片腕を枕にゆったりと寝そべり、手狭な傍らを叩いて私を招き寄せるのであった。毛布を携えて、小さなスペースに身を横たえる。
「声だけで良いなんて、寂しいコト言うなよ。人と話しをする時は目を見るものだ、って教わらなかった?」
毛布ごと、ぎゅう、と抱き締められる。隔てに置かれた夜陰をものともしない、軽口を叩いた唇が悪戯っぽく吊り上がっているのが目に見えてわかる程の近しい距離。少し上目勝ちになるだけで悟さんと目線が合うだなんて、叶うのはこうした共寝の時くらいのものだ。
何時迄も慣れない不思議な眺めにぼんやりとしていると、チカ、チカ、と視界に閃きがあった。ドレープカーテンの隙間を割って忍び込んだ月明かりの端っこが、地獄の底に蜘蛛の糸を垂らすみたいにして、悟さんの頭の輪郭を細い光で照らしている。山奥とあって電飾に褪せる事なく注がれる月光の冴えに、そう言えば今宵は満月であったと思い出す。明かり一つ望めないと思っていた深いふかい夜は、しかし、実際にはそうではなかったのだ。このひとが寄り添ってくれる迄、忘れていた。
「眠くなるまで、このままお喋りでもしていようか。――今日は? 何かあった? 笑えた事、泣けちゃう事、一個いっこ教えて。」
蒼白く浮かび上がる睫毛の下の、青く透きとおった仄かな光明。それを見詰めていると、闇が遠退き、この部屋だけ白夜の只中に在るように思われた。
安堵にわななくか細い声で、ぽつり、ぽつり。今日一番の出来事やら取り立てて言う事でもない些末事やらを拙く話す私に、悟さんは、「うん。」「そっか。」「お疲れ様。」と柔らかな声音で一つ一つに応じてくれる。背中に回されたあたたかな手が、時折、優しく撫でてくれる。孤独な夜に凍えた心は少しずつ溶かされてゆき、何時しか、とめどない涙となってあふれ出ていた。言葉を詰まらせて、代わりに嗚咽する。
「ごめんなさい、恥ずかしいところを見せて、」
「恥ずかしいところを見られるのは恋人の特権ってね。役得、役得。」
僅かに身体を移動させると、悟さんは、大人げも恥ずかしげもなく泣き出す私の頭を胸へと掻き抱いた。それから私を連れて、ごろりと仰向けになる。
「周波数の関係だったかな。心音を聞くと落ち着くんだってさ。」
涙で濡れるのも構わずに押し付けられるが儘、シャツに顔をうずめ、悟さんの胸へと耳を当てる。とくり、とくり、とくり。力強い鼓動が規則正しく打っているのが聞こえる。さざ波のように身体じゅうを隅々迄伝わってゆくのを感じる。聞き入っていると、言う事を聞いてくれなかった涙腺も、動悸していた心臓も、すっかりあやされて落ち着きを取り戻していた。
「お加減いかが。」
「安心します。けれどもこれは、悟さんが傍にいるから、と言うところが大きいような気もします。」
「でしょ。これからは、会いたい、って素直に言ってよ。彼女の可愛いわがままを叶えられない、そんな甲斐性の無い男だと思われるのは心外だし。何より、夢子の泣き顔を見逃すなんて勿体無い。」
「意地が悪い物言いですね。」
「そ。僕は意地悪な男だから、君が泣いてたら、言われなくても飛んで来ちゃうかもね。今夜みたいに。」
可笑しげにくつくつと喉で笑いながら、大きな手で後頭部を撫でては撫でる。ささくれ立ったひ弱い心を慰撫するような、悟さんの手付きは何所迄も優しい。そんなに甘やかされては、貴男無しの夜を生きていかれなくなってしまうではないか。蜜漬けにされて蕩かされてしまう心地に目蓋を閉じると、悟さんは私の肩迄毛布を引き上げてくれた。枕にしていた手で、ぽん、ぽん、と背中を軽うく叩かれる。
「僕がいたら怖いものナシでしょ。寝るまで傍にいるよ。」
寝るまで、と言う事は、私が寝入ったら帰ってしまうと言う事なのだろう。ひょっとすると、直ぐにでも出立しなければならない任務が控えている事も有り得る話ではないか。急ぎ、閉ざした目蓋に力を込める。
「頑張って早く寝ます。」
「さっきも言ったけど、僕は夢子のわがままは何だって聞いてあげたいんだよね。いい子でいようとするトコは健気で可愛くても、正直、物足りないなぁ。」
そろそろと目蓋を押し上げて、悟さんを窺う。嘘の必要がないひとだ。月光の助けを借りて顔色を窺ったりせずとも、その期待の籠った言葉は本心からのものであると思えた。
頭を持ち上げて、顎を胸へと載せる。鼓動の虜となった耳を名残惜しくも離したのは、これから彼の語る声をよく聞く為だ。
「声が、聞きたいです。眠れないので、悟さんの声をいっぱい聞きたい。何かお話をしてください。」
「良いよ。但し、刺激が強過ぎて眠れなくなるかもね。」
そうして朗々と語られる物語は、任務で訪れた異国の地での話、生徒達の日常風景の話、足を踏み入れた秘境の風習の話、気に入りのパティスリーのパティシエのもとに子どもが生まれた話と、様々な展開が為されて、千夜一夜物語のように一つ一つが目新しく胸踊るものであった。それでも気付けば隣に睡魔がくっ付いていたのだから不可思議だ。穏やかな低い声で、抑揚少なく淡々と。そのような静謐な声で語られていたからであろうか。不図。悟さんに頭をひと撫でされ、寝物語は途切れてどっとはらい。「――おやすみ。」。結びの言葉は一等すてきな魔法の呪文のような響きで、私に安らかなる眠りを齎した。
▼
何時の間にか眠っていた。
敷き布団としていた悟さんの身体は、私が目を覚ました時には既に寝台になかった。夢まぼろしと添い寝をしたのかと疑うくらいに、体温どころか影も跡形もない。ただ、目蓋が酷く重くて、その重みが彼の胸で泣いた夜は存在したのだと証明していた。
腫れぼったい目蓋をようく冷やして化粧を施し、身仕度を整える。出掛けにドレープカーテンを開け放つと、燦々とした朝日が部屋の四隅迄を清めてくれたが、助けに来るには遅かった。夜闇は悟さんの声でさっぱりと祓われて久しいのだから。耳の奥に残っている甘やかしの言葉達のどれもが、任務に赴く足取りを迷いの無いものにしてくれた。
「? これ、は――」
玄関に向かい、鍵を開けて、廊下に出る。と。外側のドアノブに何かが引っ掛けられていた。その衣服は大きく黒く上質で、ひと目で悟さんが昨晩羽織っていたジャケットであると察せられた。何故、此所に。不自然さに首を捻って、襟から袖から裾を眺め遣る。突っ込まれたサングラスではなく、見覚えのあるキーホルダーがポケットから覗いているのを見付けると同時に、合点がいった。それは私の部屋の鍵に括り付けられたものである。悟さんは恐らく、部屋を出て行く際に施錠の為に鍵を持ち出して、合鍵置き場よろしくジャケットのポケットに隠して置いておいたのだ。そのような盗み易いところに置いて隠したと言えるのかは扨措き、ドアノブに掛けられたジャケットは、一晩中、不届き者から部屋を守護してくれていた結界のようにも思えて来る。ならば甲斐の無い真似は出来ない。無精せず、取り出した鍵できちんと施錠をする。ジャケットを手に取って、皺にならないように軽く畳み、腕に掛けて歩き出す。向かうは、ひと先ず、伊地知さんの控えている部屋だ。彼ならば悟さんの動向を知っているだろうから。
職員寮を出て、道なりにゆく。ゆこうとしたところで、見知った顔が向こうから遣って来たので立ち止まった。
「おはようございます。夢野さん。」
「七海さん。おはようございます。」
折り目正しく会釈をする七海さんに会釈を返す。朝早くに見るスーツ姿は、会社勤めの経験が無くとも気持ちが引き締まる。下ろし立てのぴしりとしたスーツを前にして、自然と姿勢が正されるのを感じた。
七海さんの目線が、すい、と下方に落ちる。
「それ、五条さんのジャケットですね。」
私の手もとを見遣った七海さんから、ほぼ断定的に問い掛けられる。何か触れてはならないものに触れる時の緊張を感じさせる口調ではあったが、声色に厳めしさはなく、寧ろ気の抜けたような――やや呆れを含んで聞こえすらした。事情がわからず小さく頷く。すると七海さんは、深刻そうに声のトーンを一つ落として、重ねて尋ねるのであった。
「何か、ありましたか。昨晩。」
「……ええと。」
「言いづらければ答えなくて結構です。その様子では、五条さんが解決したのでしょうから。」
無理に聞き出しはしない、と首肯で話を切り上げると、七海さんは懐から財布を取り出した。
七海さん曰く。昨晩、行き付けのバーへと繰り出したら、悟さんが付いて来たとの事であった。其所で暫く二人で飲んでいたが、零時を回ったかと言う頃に携帯端末がメッセージの着信を報せるなり、悟さんは突然店を飛び出して行ってしまった、と。その時に彼が口を付けていたノンアルコール・カクテルになぞらえて、酒を提供していたバーテンダーは言ったと言う。
「――「初めて見るガラスの靴ですね。」と。余程慌てていたのかも知れませんが、支払いにブラックカードを置いて行きましたよ。あの人。」
「ブラックカード、を。」
「ジャケットと一緒に返しておいてください。五条さんは今夜にも帰るそうですが、私はこれから暫く戻りませんから。」
差し出されたクレジットカードは陽光を照り返し、その名の通り、高級感溢れる黒色に光っている。紛失でもしたら一大事だ。七海さんの手から恐る恐る受け取って、財布の一番抜け難いポケットに仕舞い込む。かの有名なブラックカードを預かる緊張に耐え兼ねて、防御を固めるアルマジロ宛らに、小心な背中が丸まりたがっている。
「それにしても、五条さんをあれだけ焦らせる事が叶うのは夢野さんくらいでしょうね。」
「そんなにですか。」
「アナタとここで顔を合わせた時に、大事がなくて良かった、と思ったくらいの急ぎようでしたよ。」
「それは……ご心配をお掛けしてすみませんでした。」
「いえ。何事もなかったのならばそれで。それでは、私はこれで失礼します。」
腕時計を一瞥した七海さんが、最後の挨拶迄事務的な調子で告げて、送迎車の待っているであろう駐車場の方向へと踵を返した。
朝の清らな日射しを頭から浴びてあたたかな中で、思う事がある。私は特別寝相が悪い訳ではないが、毛布を跳ね除けずに眠り続けられる程ではない。けれども、私の身体は起きた時も毛布に包まれていて、寒さを一つも感じなかった。悟さんが何時出立したものかは知れないが、時間目いっぱい傍に居てくれて、毛布を掛け直しては安眠を見守ってくれていたのではないか。
胸の甘く締め付けられるが儘に、腕の中のジャケットを抱き締める。彼のひとはスーパーヒーローで、私は大概、彼のひとのヒロインらしい。
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