jujutsu
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「おい! 恵! 野球しようぜ!」
ジャイアニズムの語源となっている少年の物真似をしてみたがまるでウケなかった。滑り芸を得意とする芸人でもこうは行くまい。
恵くんが自室のドアを開けた格好で、黒々とした柳眉の間を徐々に徐々に詰めてゆく。すう、と細まる玲瓏な眼差しは黒曜石の鏃のようだ。沈黙が居た堪れなくて、「なーんちゃって。」と遅蒔きに付け足してみた。出来得る限り可愛らしい声音で取り繕ったが、残暑厳しい学生寮の廊下に冷たい秋風が吹き抜けた、ように感じた。
「何で急に野球。」
打っ切ら棒な問い掛けに、ドアノブから離そうとしない手。露骨に警戒している。何時閉められるとも知れない扉にじりじりと摺り足を差し向ける。自らの足をドアストッパーの代わりとした私を見て、恵くんのドアノブを掴む手には更なる力が加わった。熱意は伝わったが、本意ではない伝わり方をしたらしい。厳めしい顔付きの緊張を弛める為に、殊更に声を明るくして述懐を開始する。
「だって、皆んなで野球したんでしょう。」
「京都校との交流会でですよ。」
「私、交流会、出られなかった。仲間外れ、良くない。」
「夢子さんは参加出来る学年じゃなかったんだから仕方無いでしょ。」
「仕方が無くない! 恵くん、野球しよう!」
「最低でも九人は集めないと出来ませんよ。」
私の周囲に目を遣りながら、「虎杖達も今は出掛けてるし、頭数に当てはあるんですか。」と尋ね掛けられる。野球をするには人手が要るのか。素直に、へえ、と漏れた私の声を聞き付けた恵くんが小さく頷く。野球の知識が五グラムも無い為に失念していた事だ。高専に今居る二年生を運良く全員誘えたとしても規定人数には程遠い。
「二人では出来ないの?」
「キャッチボールかトスバッティングなら、まあ。」
「トスバッティング。」
「バッティングの練習で……一人が近くから球を投げて、バッターがそれを打つやつです。」
「じゃあ、それで。野球しよう、恵くん。」
「本読んでる途中なんですけど――」
ドアノブを握り締めている手に期待を込めて触れると、抵抗の声は尻切れ蜻蛉となった。恵くんが肩越しに背後の部屋を見遣る。穏やかな読書の時間が後ろ髪を引くのか。切りの良いところ迄読み終えてからでも構わないけれど、と提案しようとするよりも早くに、取って返った切れ長のまなこが手もとを映した。
「一回、離してください。靴、履き替えるんで。」
確かに、突っ掛けで野球をしては足が汚れてしまいそうだ。
▼
九月下旬の空は未だ、夏空、と言っても良い。
ぼけっと突っ立っていたら頭の天辺で目玉焼きが焼けそうな油断ならない日射しの責めに遭いながら、私達は木々とフェンスに囲まれた野球場に出ていた。
「交流会で野球をやった時も思ったんですけど、何で呪術の専門学校に野球場が在るんですかね。」
「野球場が在る専門学校って、世の中には結構在るよ。」
「普通の専門学校ならわかりますよ。でも、この学校って普通じゃない以前に部活も無いじゃないですか。野球場、要りますか。」
「国のお偉い人の若人への気遣いか、もしくは、開校に携わった呪術師の中に野球が好きな人がいたのかもねえ。」
知らんけど、と嘯いてバッターボックスと呼ばれる白線内に立つ。扇状に広がるグラウンドを見渡せる此所は実に眺望が展けていて、特等席に招待されたみたいで気持ちが良いものだと思った。恵くんが片手に持っていたバットを此方に差し出す。
野球に必要な用具の仕舞われている場所は、五条さんから予め聞き出しておいた。教えられた倉庫となっている納屋を探ると、金属バットと白球は直ぐに見付けられた。早速金属バットを取り出す。すると恵くんは透かさず持ってくれ、それのみならずバットを担いだ手に白球を一つ掴み、もう片手には二つ掴んで、私に一つも荷物を持たせてはくれなかった。「そーゆーとこだよ。」。「どう言うところですか。って言うか、何が。」。納屋を出たところで両手で全ての白球を掠め取る。お手玉にして投げながら歩く私の背中は答えを語らぬと悟ったようで、恵くんは追究の手を伸ばす代わりに、「無くさないでくださいよ。」と厳しい眼差しを注いだ。
首を傾けて傍らを見る。もう一つのバッターボックスに入って私の様子を見守る恵くんの目は、道中から打って変わって、気を揉んでいるように落ち着かなげであった。私はそれ程に危なっかしいだろうか。苦い思いでバットの柄を握って、そう言えば、自分が弩級の野球初心者であった事を思い出した。
「それで、打つのってどうやるの?」
「打つの……。バントはこう構えて――」
「その、バント、とか言うのには興味が無いんだよなあ。」
ラフなシルエットの部屋着姿が僅かに腰を落とそうとするのを遮る。バットを持ったていで丁寧に教えてくれるが、聞き慣れないその用語は私の心を熱くしないのだ。
すきっとした青空に切り込みを入れてゆく飛行機雲に、振り被ったバットの先端を向ける。
「狙うは大きくホームラン! でしょう!」
宣言すると、恵くんは不思議と瞠目した風に私の横顔を見詰めた。
ミンミン、シャワシャワ。脳味噌を激しく揺らす程に騒々しかった蝉の声も、夏の終わりが近付く今となっては疎らとなっている。だとしても、静まり返った場には大きく谺するものだ。蝉語に圧されて、世界からは人語が失われつつあるのではないだろうか。そんな馬鹿げた不安を抱き始めるくらいには、不意に訪れた喧騒の静寂は長かった。
「――夢子さんって、普段は何考えてますか。」
ややあって開かれた唇から聞こえて来たのは、こぼれた、と言えるようなぼんやりとした響きであった。
「なあに、その、私が普段は何も考えていないみたいな言い方。失礼じゃあない?」
「そう言う訳じゃ――ただ、心構えって言うか。参考に聞きたくて。」
「ううん、そうだなあ。今晩は何を食べよう、とか。明日は何を食べよう、とか。」
「食い気……。」
呆れた視線が深々と突き刺さるのを感じる。
食べる事は生きる事だ。栄養の摂取を怠ると早々に身心の調子を崩す事は言わずもがな。暑い時に冷たいものを、寒い時にあたたかいものを腹に入れれば生きた心地がする。美味しいものを食べれば活力が沸き上がって来る。食事からは、生の実感が、感動が得られる。――等と取って付けてはみたものの、口にした時点ではそんな御大層な意味は含んでいなかった。
私は彼の見抜いた通りの只の食いしん坊だ。食べる事が大好きなだけだ。給料の殆どを食に費やす食い道楽だ。紛う事無い事実ではあるが、しかし、後輩をこの儘唖然とさせていては先輩としての沽券に関わる。してやったりと、亀の甲より年の功の年長者らしくうわてに北叟笑んでやりたい。
「それと。」。「それと?」。余裕ぶっておどけた口調を取り繕う。
「早く恵くんに会いたいなあ、とか。考えているかもね。」
ぽかん、としたのも束の間。形の良い薄い唇が引き結ばれ、ほどかれ、閉じ、また開いては閉じる。眉間の様相も同じであった。
日に照らされて眩しい白い肌の上で繰り広げられる、静かなる百面相。言うに言われぬ表情の移ろいが可笑しくて、つい吹き出してしまう。冗談めかしてもまったく嘘ではない事を伝えたかったが、間を外してしまっただろうか。揶揄されたとでも思ったのか、恵くんの表情は遂には顰めっ面で固定されてしまった。
「参考にならないって事だけはわかりました。」
「先輩に溺愛されていると言う事だけでも覚えて帰ってくださーい。」
帰ろうとしたら、アンタ、力ずくで引き留めるだろ。よくおわかりのぼやきが落ちた白球転がる地面が、彼の足もとの影が盛り上がった。恵くんの組み合わせた手の形と同じく犬の形を成したそれが歩く。歩く。歩いてフェンス際迄行って、忠実なさまで座った。
「ホームラン、打つんですよね。」
挑発的なもの言いではあったが、小馬鹿にしている風には聞こえなかった。試されている風でもない。後輩からのただただ篤い信頼を受けて、気合い充分に腕捲りをする。「任せなさい。」。
遠くでは玉犬が、球拾いの使命を果たすその時を、今か今かと待っている。
プレイボール、と言うやつだ。
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