jujutsu
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エンドロールの流れた後の画面には陰鬱な女の顔が浮かんでいた。こんなのは親とはぐれた幼子がするのが似合う表情であって、齢を幾つも重ねた大人には似つかわしくないだろう。黒い鏡となって私を映す液晶画面に言い聞かせる。
「いやー、派手に吹っ飛んだね。ヒロイン。」
映画に没入していた意識が強い力で引っ張られる感覚。凡そ二時間もの間、下方――二人掛けのソファに腰掛けた私の膝の上に陣取って、これ迄言葉少なにタブレット端末を眺めていた彼の名前を呼ぶ。「悟さん。」。純白の冠を戴いてぴかぴかとまばゆい頭はこの膝にすっかり預けられている。自分の脚がまるで特別な台座になったかのように錯覚する始末だ。
「伏線もなく殺されるなんて、びっくりしました。」
「リアリティはあるけどね。レビュー見る? クソ映画のレッテルばっかり貼られていて見応えあるよ。」
嬉々として動く唇の様子をぼんやりと眺めてから、彼の胸の上に放置されたタブレット端末の背面に視線を逸らす。私が伊地知さんに返却したばかりの端末は、休む間も無く悟さんのもとに渡ったのだと、管理番号の刻まれたラベルで知った。彼並みに忙しい事だ。労りの気持ちを込めて、眼帯が外された下ろし髪を撫でる。肘掛けに乗っかった長い長い脚がぱたぱたと動き、長躯が身動ぎするのに合わせてソファが軋んだ。体躯にも年格好にも見合わない、けれども性格には相応な無邪気な振る舞いに、悟さんがこの部屋にやって来た時の事が思い返される。
「今日、非番なんだって? 伊地知から聞いたよ。」。借りた儘であったタブレット端末を返しに行った、直後。見慣れたタブレット端末を小脇に抱えた悟さんは、良い事を耳にしたとばかりににまにまと笑って、カルガモの雛よろしく、ぴったりと私の後に付いて来たのであった。雛鳥にしては巨大だが、ふわふわと揺れる髪の毛の柔らかさはそれらしく、何よりも可愛らしく愛おしく思えたのは惚れた贔屓目と言うやつだ。「そうだとしたらどうしますか。」。「そうだな。甘えちゃおっかな。」。訝しく思って振り返ろうとした肩は後ろから押さえられ、前へと押される。帰ろうとしていた私の部屋へと。そうして足早に辿り着いた自室に押し込まれた私は、気を取り直して普段の流れをなぞる事にした。インスタントコーヒーを二人分淹れ、マグカップをローテーブルに据え、ソファに座る。普段の通りに、悟さんが我がもの顔で私の膝を枕にした。彼もまた長閑な時を過ごしていると言う事は、今日は非番なのだろうか。珍しい事もあるものだが、だと言うのに資料と睨めっこだなんて売れっ子は大変だ、と真剣にと言うよりも詰まらなさそうな無表情でブルーライトに照らされる彼を見下ろす。果たして、おどろおどろしい声など親の声よりも聞いているのが私達呪術師だが、ホラーサスペンス映画をBGMにして思索は捗るのだろうか。リモコンを操作し、レコーダーにセットしておいたディスクを再生する手が躊躇った。しかし、最初の犠牲者が耳を劈く断末魔を残しても尚、彼の相貌は変わらずに凪いだ静謐美を湛えて揺らがなかった。全くの杞憂であったと思い知らされた私は、安心してフィクションの世界に没頭出来た。時折マグカップに手を伸ばす以外はじいっと資料を読み込んでいる、悟さんの体温を重みと共に膝に感じながら。各々の二時間は瞬く間に過ぎ去った。
「さて、休憩、休憩。甘いの、何か持ってない?」
切りの良い頃合いだと見計らったのか、我が儘坊やの声でねだられる。甘いの、と言っても生憎とお茶請けは切らしているが――。
「ぶどう糖ならば持ち合わせがあります。」
「何でそんなの持ってんの。」
「家入さんに持たされているんです。いざと言う時の為の、貴男の為の備えだと。」
「そんなタカリみたいな真似すると思われてんの? 僕。」
「現にしているではありませんか。」
スカートのポケットに忍ばせていた手の平サイズのポーチから、家入さんから譲り受けた個包装のぶどう糖を取り出す。サングラスに翳すと、ぱかりと口が開いた。カルガモの雛より、食べさせろ、とのお達しだ。
「自分の手で食べてください。」
「味気無いから色付けて。」
「起きたら付けましょう。」
よっこいしょ、なんて言いながら悟さんが素直に起き上がる。人間の頭部はボーリング球と同じくらいの重量があり、膝枕を長らく維持するのは肉体的には中々に困難な事なのだと、じわじわと痺れ始める脚が教えてくれた。
大腿をさする私を他所に、悟さんは隣に腰掛け直して、ずいと顔を近付けて来る。まばたきをすればそよ風が生まれそうな睫毛の長さに下肢に蔓延する痺れも忘れて、操られたような心地でうかうかと包装を裂く。薄く開かれた口に真っ白なキューブを詰める。皓歯がかりこりと噛み砕く音が微かに漏れ聞こえた。
「効率は良いけど、やっぱり味気無いな。」
では質と量を兼ねますか。更にぶどう糖を食べさせるべく視線を手もとに落とそうとした、刹那。頤に長い指が絡んだ。唇に吐息を感じた。白色と青色が網膜に鏤められる。それ等を知覚出来た時には、人肌のぬくもりに声を封じられていた。
「悪くないけどこれだけじゃ物足りないかな。よし、コンビニ行こっか。はよはよ。」
見事に一瞬の隙を突いた白皙のかんばせが、すい、と離れる。何かを言い募ろうにも、悟さんは平然とした態度で部屋の外へと向かっている。
財布とコートを引っ掴んで、痺れて縺れそうな足をさすりつつ、次は私が後を追う番であった。
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少し冷えた指先をぬくめていた肉まんは、今は胃腑の中から身体をあたためてくれている。身体があたたまると、冷え冷えとしていた気もようやっと弛緩してくれた。
包み紙を折り折り、コートのポケットに突っ込む。
「足りた?」
「はい。ご馳走様でした。」
あれから筵山を下山した私達は、最寄りのコンビニエンスストアの棚の一つ一つを丹念に物色した。実際に棚と棚の間を縫っていたのは悟さんのみで、映画で胸が悪くなった私は雑誌コーナーを冷やかしているばかりであったが。レジカウンターにこんもりと菓子の山を築いた悟さんに、「いいの?」と短く尋ね掛けられた。何か買うのであれば一緒に支払うが、との太っ腹な申し出に、私の目は自然とレジ横に備え付けられた中華まんの蒸し器に向かった。手指から血の気が引いた儘だったからであろう。「それでは、肉まんを一つ。」。「後、肉まんとあんまん一つずつ。」。蒸し器を覗き込みながら、次々とバーコードを捌いている店員に向けて悟さんの長い人さし指が立てられた。
二人並んで帰途に就き、中華まんを頬張っていたものだが、隣を見遣ると、悟さんはその大きな口であんまんを食べ終えていて疾うに跡形も無かった。新商品、季節限定、と銘打たれた菓子がぎゅうぎゅうに詰め込まれた白いポリ袋の中から、薄紅と黄緑の春めかしい色で彩られたパッケージのポケットサイズのチョコレートを取り出して封を開けている。一つ二つと軽快に吸い込まれてゆくさまが小気味良い。
「それ、新発売のものですよね。美味しいですか。」
「食べる?」
ねだった心算は無かったが、差し出されているのに固辞するのは憚られる。だって、塩っぱいものを食べたら甘いものが食べたくなる。それは世の常であり人の道理であり肉体の摂理なのだから。魅惑的な誘惑に「頂きます。」と返事をするが早いか、チョコレートを一つ、摘まみ出す。
口に放ると、油脂が溶けると共に花やいだ香りがふわりと広がった。
「桜味。」
「そ。桜の味がしない、看板に偽りだらけの桜味。これだって実際は桜餅味じゃない?」
「桜餅味とすると餡の味も再現しないとならなくなるのでは。」
「じゃあ百歩譲って桜の葉っぱ味。」
「食欲がそそられませんね。」
悟さんがぐうっと背を丸める。何事かと思えば、薄く削った陽光を重ねて形作ったような蝋梅の花咲く木の枝が、前方の民家の庭から歩道に張り出していた。この時季ともなるとあの瑞々しく豊かな匂いは失われ、取って代わった白梅がすっきりとした清涼な香を辺りに漂わせているが――それを力強く押し退けるチョコレートの甘い香りが、今は二人を包んでいる。
「そう言えば、チョコを食べると脳が興奮するんだってさ。ネットニュースで見た。」
「ネットニュース、好きですねえ。」
「移動中にやる事が他に無いからね。」
通せん坊をする蝋梅のかいなを潜り抜けて、悟さんはのったりと歩く。眠たげな猫のような足取りのお陰で、慌ただしくしなくとも彼の隣を歩ける。くつくつと喉で笑う低い声もようく届く。痛いくらいに首を傾いで悟さんを見上げてみる。サングラスの奥の青色は麗らかな日射しに透けて、清らか、と表せすらする光景なのに、唇の様相を見ると如何にも秋波を送られているとしか思えず、そわそわとしてしまう。
そしてそれは思い上がりなどではなかった。
悟さんがチョコレートの小袋を振ってみせる。
「今、キスしたら相乗効果で凄そう。試してみない?」
「外ですよ。酔っているんですか。チョコレートにお酒は入っていなかった筈ですが。」
「浮かれてるんだよ。もう直ぐ春だし。」
「驚きました。貴男にもバイオリズムが存在したんですね。」
「ショックを受ける情緒も実はあるんだなー、これが。」
片腕に引っ掛けたポリ袋にチョコレートを仕舞った悟さんの歩調が、僅かに速められた気がした。まさか拗ねたのだろうか。マウンテンパーカーのポケットに突っ込まれた片手の袖に慌てて手を伸ばす。小さく引く。するりと現れ出でた大きな手の、骨張った小指に触れる。余りの拙さに、だろう。悟さんはこそばゆそうに笑った。それから確りとした力で手が繋ぎ直される。
「ご機嫌取りが下手で可愛い。」
鴉声が早く家に帰るよう促すので、二人して止まり勝ちとなっていた歩を進める。
手を引かれて連れられてゆくと筵山迄は不思議とあっと言う間に感じられたが、片道徒歩数十分である筈の逢い引きは、往路よりも復路の方がずっと時間が掛かっていた。
それは二人で居られる平穏を惜しんだからにほかならない。少なくとも、私は。何時もは無遠慮に前を行ったり、そうかと思えば見守るみたいに後ろに付いたり、興味を惹かれるが儘に立ち止まったりする悟さんなのに、こうして寄り添うようにして付き合ってくれたのは、彼も欠片でも気持ちを同じくしてくれていたからなのだろうか。
ややもすると、二人の間に割り込まんとする風の温度にも似た、生ぬるいこのセンチメンタルも伝播してしまっているのだろうか。
「もう春だね。」
伸びやかな声に惹かれて、何時しか落ちていた視線を持ち上げる。青いまなこの先で、遠くの山際に澱のように溜まった雲が熾火で焼かれていた。桜色に焼かれていた。
そうですね、なんて簡単な相槌も打てず、私は黙り込むしか出来なかった。
彼の背後には、未だ寒さに縮こまっている春の象徴が、桜の木々が突き立っている。暮れなずむ空に張り巡らされた枝々は血管じみていて、根もとに居ると、春と言う巨大ないきものの体内に閉じ込められたかのようで居心地の悪さを覚える。生い茂る雑草に紛れてこぢんまりと咲く、足もとの雪中花の白色に逸らした視線には、何所か去る季節に縋り付く必死さがあったと思う。
唐突に、俯けた視界に大きな手が介入して来た。頬が柔らかに包まれ、そうっと顔を上向きにされる。
悟さんの髪は処女雪の最も清廉なところの色で、瞳は冬の夜空に一等煌めく天狼星の色。ほんの幾らか前迄冷え冷えとしていた彼の色彩の印象だって、飴色の斜陽に纏わり付かれて、雪どけの時を朗らかに知らせる春の空を切り取ったものに様変わりしていた。――いずれ春がきたるのだと、言っていた。
「何ですか。」
「キスしようかと思って。」
「本当に浮かれているんですか。見世物は御免ですよ。」
筵山の周辺に民家は無い。野性が忌避させるものか、野良猫や狸などもこの辺りには滅多に寄り付きはしない。人目どころか獣目もある場所ではないとしても、何時、帰って来た呪術師と鉢合わせるとも知れない。主張に嘘は無かったが、私自身の耳に建前じみて聞こえたのは、弱さを見抜かれる事をおそれた心があってこそやも知れない。
一拍か二拍の間だけ思わしげにした悟さんは、私の頬を包んでいた手をマウンテンパーカーのファスナーチャームに掛けた。躊躇い無く引き下ろしてゆく。「露出癖の芽生えですか。」。人を悪酔いさせる春はこの男にも影響を及ぼすのか。頬を引き攣らせている私に構わずに、彼はファスナーの結合が解かれたパーカーの前を開いて、前裾の部分を広げた。巨大な烏の羽搏くさまか真っ黒なむささびの滑空姿か、と言ったシルエットだ。
「これだったら見えないでしょ。ほらほら、おいで。」
得意満面に腕の中へと手招きされる。お招きを断ってまた拗ねられては困る、なんて言い訳で小心者の私を宥めて、あたたかな薄暗がりに飛び込む。ワイシャツの胸もとに手を添えて、大きく開く距離を埋める為に背伸びをする。振り仰ぐと、ちかり。真白の睫毛が残光に撫でられてちかちかとしていた。――きれい。その感嘆は直ぐに飲み込まれてしまうのであった。影が重なる。唇が重なる。離れ、重なり、小さな悪戯みたいに幾度も軽やかに戯れる。
つま先立ちとなっている脚が筋力の限界を震えて訴える頃になって、腰に回された手は漸く解放の意思を見せた。よたりと、額を胸板へ預ける。
「ご満足頂けましたか。」
「んー、腹五分目ってとこ。」
「燃費が悪いことで。」
落ち着く迄、悟さんは私の背を撫でさすってくれていた。
呼吸が整ったところで身体を離す。徐にマウンテンパーカーのファスナーを上げた悟さんの手が、所在無さげにしていた私の手を取る。何方ともなく指と指とを絡めて、立ち並ぶ鳥居の中を通る石段を一段、また一段と昇ってゆく。
最後の一段に足を掛けて広い場所に出ると、この手に結び付いていた悟さんの指がほどけた。彼の手が、虫籠から逃げ出した飛びきりの蝶のようにひらりと空に踊る。
「じゃあ、次の任務に行って来るから。」
「急!」
随分とゆったりとしていたので非番だとばかり思い込んでいたが、如何やら束の間の余暇だったらしい。そうなると、大量に買われた菓子はぶどう糖の味気無さを紛らわせる云々よりも、送迎車の中で食べるおやつとして買い込まれたものなのだろう。
ポリ袋のがさがさとした音を携えて、悟さんは補助監督が待っているであろう駐車場の方へと颯爽とつま先を遣った――かと思えば、華麗な足捌きで此方に向き直った。
「忘れてた。行ってらっしゃいのキス。」
「麓で何度もしたではありませんか。」
「腹五分目くらいって言ったじゃありませんか。」
髪のひと房を撫でられ、頬を撫でられ、親指の腹で下唇を撫でられる。色好みのそれではなく甘えが目立つ仕草であった。絆されるには充分で、私はすんなりと目蓋を閉じて、顔を上向けにする事が出来た。
薄闇の視界が翳る。次いで、唇が、圧された。柔らかさはないが、唇に溜まる熱で見る見る溶けてゆくのが感じられる。俗に桜味と称される桜の葉のにおいが、口腔に、鼻腔に、広がってゆく。――これは。
押し込まれたチョコレートを食み食み、嚥下する。目蓋を押し上げる。自身もチョコレートを口内に押し込みながら、黙って私を見下ろす悟さんと目が合った。唇が勝手にへの字に曲がってしまう。
「ここで黙って口付けするのが男の甲斐性と言うものでしょう。」
「さっきは僕からしたんだから、次はそっちが甲斐性を見せる番じゃない?」
蝋梅の枝を避けた時のように腰を折って、私が触れ易くする悟さん。サングラスの奥に御座す青い瞳は期待にきらきらとしている。
手早く済ませてしまおうと、素早く片方の頬に唇を押し付ける。ご要望にお応え出来たと思ったが間も無く不満げな声が上げられた。
「そこじゃあなくて。」
ココ、と唇を指さされる。
つい今し方も口付けを交わしたし、その前にも室内で口付けを交わした。これが初めてと言う訳ではない。慣れていないと言う訳では決してない。だけれども、こうも真っ直ぐ見られているとやり難いったら!
「恥ずかしがってるところ悪いけど、時間無いよ。」
マウンテンパーカーのポケットに仕舞っていた眼帯を取り出した手で、片方の手首をぺしぺしと叩く。七海さんみたいに腕時計を巻いている訳でもないのに、腹の立つジェスチャーだ。矢継ぎ早に畳み掛けて来る意地の悪さが小憎たらしくて、それが私に腹を決めさせた。
胸ぐらを引っ掴んで、強引に引き寄せる。「動かないで、目を瞑ってください。」。邪魔っけなサングラスを取り去るのを合図に、白い目蓋がそうっと伏せられた。彼の手から眼帯を強奪して頭から無理矢理に被せてやる。呻き声が押し出されて来たが聞いていない振りをして、白絹糸がぐしゃぐしゃに巻き込まれるのも構わずにずり下げて眼窩を覆ってしまう。大人しく目を瞑ってくれているかが疑わしかったからだ。仮令眼帯の向こうで目蓋を上げていたとしても、これで私は意識をしなくて済む。
息を押さえる。胸の高鳴るのが鮮明に聞こえる。今一度背伸びをする。桜のチョコレートの甘い甘い香りがふうわりと迎え入れてくれた。春の気配に浮かされて弧を描く唇に、触れる。そうっと、触れる。触れて、直ぐ様に顔を引こうとする。後ろ首に手を添えられて優しく退路を塞がれた。今度は悟さんの方から。唇に触れられる。擦り合わされて、深く。お互いの体温が混ざって境界があやふやになりかける。
「――甘いね。癖になりそうだ。」
吐息の触れ合う距離で囁くと、悟さんは残り香を刷いた唇を舌で拭った。堪能し尽くされたのだと、思わされてやまない。腹八分目くらいにはなったと言わんばかりに笑む顔を前にして、逃げる事が許されるなり、私はよろけるように一歩だけ後退った。
「ふらふらしてるけど、腰、砕けた?」
「ぎりぎりで大丈夫です。」
「丈夫で何より。」
無理に填められた眼帯を首もとに引き下ろして、乱れた前髪を手梳で梳いては後ろへと撫で付ける。眼帯を着け直す一連の仕草を、息を呑み、移されたチョコレートの香りを呑み込んで見詰める私は、きっと、余程阿呆みたいな惚けた顔をしていたに違いない。黒い覆いの向こうに秘された至宝が揶揄の愉悦に細まっているのを感じた。「エッチ。」。巫山戯混じりに言われたものだから、手の中のサングラスを拳と共に押し付けてやる。「本当の事なんだから照れなくても良いのに。」と余計な一言を織り成した声はご機嫌そのものであった。
「それじゃ、行って来ます。」
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悟さんの背中が駐車場の方にすっかり消える迄忠犬宛らにその場にじいっと佇んで見送っていたが、不図、飲み掛けのカフェオレがマグカップの中で帰りを待っている事を思い出した。自室の在る職員寮へと足を向ける。
とぼとぼと帰り着いた部屋の電気を点けると、小一時間、留守を守っていた二つのマグカップが出迎えてくれた。いちいち部屋に取りにゆくのは面倒だし、紙コップで飲むのは素っ気無い。そう言って持ち込まれた彼のマグカップにもコーヒー味の液状砂糖が二口三口分程残されていた。何時もは直ぐに片付けてしまえるのに、今は悟さんの気配を取り払いたくなくて、シンクに持ってゆくのが躊躇われた。
一先ずはドレープカーテンを引いてしまおう。窓辺に寄り、厚ぼったいカーテンの端を摘まむ。視界の隅にか細い光が引っ掛かった。レースカーテンを割って、窓を開けて正体を仰ぐ。引っ掻き傷のような細い細い三日月が、夜の訪れを告げに顔を出していた。
天幕の傷から吹き出したものか、一陣の風が鼻先を掠める。気温がぐんと下がったのをまざまざと感じるが、刃物の表面を渡って来たかのような冴え冴えとした冬の風とは違う。
「春だなあ。」
思わず転び出て来た感慨はたった数十分前に悟さんの述べたものと同じ言葉をしていたが、私のそれは重苦しい憂鬱に浸り切っていて、床に落ちると鈍い音を立てそうであった。
春季は呪術師にとっては繁忙期の入り口だ。軈て訪れる放恣なる初夏に向けて、人間がじわじわと陰気を孕んでゆく忌まわしい季節だ。花ばなの咲きにぎわってゆく光景などは、まるで世界からの死出のはなむけのようだと背筋が薄ら寒くなりすらする。目覚ましい才覚を持ち得ない私は特に、この時季が余り好きになれなかった。もう幾らかした頃には、今度こそ先程の映画に出て来たヒロインの二の舞を演じて、無惨な死体となるのではないか。そのような不安が不安を呼び込み、日毎日毎に緊張がいや高まってゆくのだ。
無力感に茫然と立ち尽くす私をせせら笑うように、春のにおいを孕んだ風が全身に吹き付ける。
「――?」
ポケットの中の携帯端末が短く振動した。
時間を鑑みると硝子さんからの宅飲みの誘いだろうか。誰かに打ち明けて楽になりたいが酒の席の話のネタとしては些か重たいな、などと考えながらメッセージアプリを開く。任地に向かう車中に在ると思われる悟さんからであった。
『土産のリクエストある?』『甘いの』『しょっぱいの』『干物』『ナマモノ』『あ』『明日コンビニスイーツの新作が出るから』『全種類確保しといて♡』
見る間にメッセージやら意図の無いスタンプやらがぽんぽんと浮かび上がって来る。
呑気な吹き出しで埋まった画面からは、気重で居る事を馬鹿馬鹿しくするエネルギーが発されているらしい。お陰様で力の抜けた肩を持ち上げて、窓を閉め、カーテンを閉じ、了解を示すスタンプで簡単に返信を為し、携帯端末をソファに放って、その軌跡を辿るようにして私も腰を下ろした。考え事で疲弊した頭が率先して横に倒れる。
かさり、と乾いた悲鳴がコートのポケットから上がった。
「? これ――」
何時の間に入れられたものであろうか。悟さんに別れ際に銜えさせられたチョコレートの小袋が入っている事に気が付いた。その置き土産は、何故だか、私が不安がるのを見越して差し入れられたものに思えてならなかった。
思わず、ハア、と脱力し切った声が出てしまう。ご厚意に甘えて、ポケットサイズの袋の中に指先を差し入れる。行儀が悪いが寝転がった格好の儘で一つを齧る。ご陽気な春の味がした。
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