jujutsu
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「何してるんですか。」なんて、宇宙人の干物でも見るかのような得も言われぬ顔で尋ねて来たのは、後輩である伏黒恵くんだった。本音を言うと、疲労感に伸し掛かられて、頭も身体も口も全てが重たい。動かしたくない、動きたくない。だが、可愛い可愛い後輩の奇麗な奇麗な顔に、妙ちくりんな癖をつける訳にはいかない。先輩としての使命感から、板張りの廊下に長らくくっ付けていた為に冷え冷えとした尻を、ヨイショと持ち上げる。
「硝子さんが、今はちょっと忙しいそうでね。ここで待っていたんだ。」
「その怪我、大丈夫なんですか。」
「任務で少しね。しくじっちゃったよねえ。両方の鎖骨に罅が入っているんだって。」
「大怪我じゃないですか。」
「命に別状はないから掠り傷だよ。硝子さんに痛み止めも飲ませて貰ったし、こうして応急処置だってして貰った。大丈夫だよ。」
アハハ、なんて目一杯明るく笑ってみたが、恵くんの曇った眉は晴らせなかった。安心させたくて、三角巾に吊られた両の腕を如何にかこうにか持ち上げようとする。私の身体の一部にも関わらず言う事を聞いてくれないだなんて、薄情な奴だと思う。
「それで、恵くんも硝子さんに何か用があったの?」
話題を逸らすと、素直な事に、恵くんは三角巾から自分の手もとへと視線を落とした。彼に倣う。一個の紙袋が提げられているのを確認するのと同時に、つい、と。それは私の胸の辺りに差し出された。
「何?」
「夢子さんが買って来いって言ったんでしょう。温泉饅頭。」
「ああ! 本当に買って来てくれたんだ。」
「まさか冗談で言っていたんですか。」
「だって、あんなに嫌そうな顔をしていたから。」
先頃に恵くんが受ける事となった呪霊祓いの任地は温泉地に程近い土地であり、それを聞きつけた私は、是非温泉饅頭をお土産に買って来てくれるようにと頼んだのであった。「近いってだけで、温泉饅頭が売っているようなところじゃあないですよ。」と渋っていたのに、こうして目の前に用意してくれていると言う事は、態々温泉街か土産物屋に立ち寄って買って来てくれたと言う事だ。なんといとおしい後輩か! 目頭が熱くなる程の優しさに触れて、疲弊していた事もすっかり忘れてしまった。今程、両腕が使えない事を悔やむ瞬間は無い。
「有り難うねえ。硝子さんに治して貰ったら、それはもう頭を撫でてあげようねえ。」
「いや、そう言うのいいんで。」
「ドライだなあ。」
受け取れない私に、如何したものか、と考え倦ねているのであろう。紙袋の中の温泉饅頭と三角巾の中に安置されている私の腕との間で、恵くんは気不味そうに視線を往復させた。
幾ら包装に守られているとは言えども食品だ。床に置いておいて良いよ、とも気軽には言えない。保健室に備え付けられた硝子さんのデスクに置いて貰おうにも、部屋は今は施錠されている。これは私が、じいっとしていると気が滅入りそうだから外をほっつき歩いて待っている、と保健室から逃げ出した所為なのだが。かと言って、自室に運んで貰う為に鍵を渡そうにも、年頃の男の子にスカートのポケットを探らせるのは忍びない。
斯くなる上は。
「恵くん、食べさせて。」
「は?」
「温泉饅頭。今、食べ切っちゃう。はい、あーん。」
ぱかり。口を開ける。鳥の雛を手本にしてねだる。
至極名案だと思ったのだ、私は。しかし、恵くんにとっては愚策も愚策だったようだ。ぎう、と眉間に縦皺が幾つも寄せられるのを見た。
「治ってから食べれば良いじゃないですか。」
「治して貰えるまで、どれだけ掛かるかわからないよ。恵くんの時間を無駄には使えない。」
「だからってその発想に行き着きますか。」
「じゃあ、部屋まで持って行ってくれる? 鍵はスカートのポケットに入っているのだけれど。」
沈黙。
「待ちます。予定も無いんで。」
「そう言われても、甘いものが食べたくなったから食べさせて欲しい。」
「我慢してください。」
押し込まれたのは甘味ではなく、苦々しい溜息だった。紙袋を持った手は敢えなく下げられ、代わりに空の手が伸びて来る。恵くんは私の下顎に触れると、そうっと口を閉じさせた。それだけ為して颯と引いた手は、意気地無しのそれに見えなくもない。
腹癒せに、ケチ、だなんて悪態をつこうとした――その時。
「餌やり体験コーナー?」
横からふわふわとした声が割って入って来た。
二人で一斉に廊下の奥を振り返る。虚を衝かれた私達が揃って盛大に肩を跳ねさせたのを、向こうから悠然ときたるその人は、可笑しそうに笑いながら眺めていた。
「五条先生。」
「悟さん、いつから居たんですか。」
「二人がイチャイチャしようとし始めた辺りから。」
「はじめからじゃあないですか。声を掛けてくれたら良かったのに。」
「はじめからそんな雰囲気なんて無かったでしょう。」
恵くんの手厳しい突っ込みを右から左へと聞き流して、傍らに佇む悟さんに向き直る。向き直って、嫌な予感が頭からつま先迄を駆け抜けた。少し俯けたかんばせ。眼帯の奥の瞳が、恵くんの持つ紙袋を向いている。
警戒心が私の顔を固く固く強張らせる。それを見抜かれてしまったのであろう。焦燥を芋蔓式に引き摺り出そうとするかのように、悟さんが殊更鷹揚な仕草で視線を向けて来た。
「まだ何も言ってないよ。」
「でしたら、ご用を当てて見せましょう。硝子さんに用事が有る。しかし残念ながら、硝子さんは只今用事で出ています。出直してください。はい、帰った、帰った。」
「余裕無いなぁ。」
背中を押して強引にでも向こうに追い遣ってやりたいのに、この両腕は相も変わらず動いてくれやしない。それは詰まるところ、私の為の温泉饅頭に手を出されても抵抗が出来ないと言う事だ。後輩の厚意を無下にしては先輩が廃る。何としてでも悟さんの魔手から温泉饅頭を守護しなければ。
そう意気込むものの、危惧する気持ちは直ぐさま現実のものとなった。危険極まりない甘党のけだものが、恵くんから紙袋を取り上げようとしているではないか。
「ちょっと! それは恵くんが私に買って来てくれたものです。あげませんよ。」
「いくら何でも、人の土産を奪い取るような食い意地張った真似はしないって。しかも無抵抗な怪我人相手に。」
「じゃあ、この手は何なんですか。」
「恵がやらないなら僕が食べさせてあげようかなって。」
私達が、この人は何を言っているのだろう、と言葉の意味するところを捉えようと努めている間に、悟さんは実に自然な動きで紙袋を自らの掌中に移していた。中身が取り出だされる。ぺりぺりと包装紙が開けられ、紙箱の蓋が開けられ、ビニールが開けられ、温泉饅頭を包むフィルムが開けられてゆく。
「夢子。はい、あーん。」
あれよあれよと言う間に、茶色の皮を艶めかせた小振りな饅頭が口もとに寄せられる。
――ええと。思わず恵くんの方を見る。息を詰めて目を見張っていたが、視線が交わるなり不機嫌そうに眉を顰められた。続いて、悟さんへと照準を合わせる。先程彼が形容した通り、餌やり体験コーナーを満喫する子どもみたいな角度で吊り上がる口角が目についた。――如何しよう。
相手は異なれども望んだ結果が目の前に在ると言うのに、今度は打って変わって唇を引き結んでいる私が居る。この期に及んで何を、とは自分でも思うが、いざ実現されるとなると、気恥ずかしさが勝ってしまったのだ。
まごついている私を見兼ねたようで、悟さんは真一文字の唇に饅頭を押し当てて来た。
「食べない? だったら僕が食べちゃおうかな。」
まるで擬似餌での釣りでも楽しむかのようにして、温泉饅頭を摘まむ手が思わせ振りに引かれる。いとしい後輩が贈ってくれたものだ。つい今し方、奪い取らない、と言っていた筈のその口に放り込まれては堪らない。追い縋る。勢い込んで温泉饅頭を銜え込む。唇に吸い付く饅頭のしっとりとした柔らかさは望んだ通りだが、それとは別に、細長くて固いものをも捕らえてしまった。するり、と引き抜かれた事で理解を強いられる。――嗚呼、成程。必死になる余り、私は悟さんの指迄食んでしまったのか。
気付いた時には、頭に血が上るやら顔から血の気が引くやら、血のめぐりが忙しくなっていた。謝るには口の中の饅頭を飲み下さなければならず、然れど含んだ指先の感触が未だ生々しく残っていては、中々噛み難い代物に思えてならない。触れた人さし指を態とらしく自分の唇に添える悟さんの姿を見せ付けられては、尚更の事だ。
赤に青にと信号機以上に目まぐるしく顔色を変えてゆく私は、腹を抱えて笑い出したくなるくらいに愉快なのであろう。悟さんは相好をこれでもかと崩して、箱から温泉饅頭をもう一つ摘まみ上げた。
「欲張りで結構。折角だから、もう一つ、いっとく?」
「一個で充分でしょう。」
ずい、と。私と悟さんとの間に割り込んだ恵くんが、強い語気で提案を遮った。背に庇われる形なので如何様な表情をしているかは読めないが、火種が燻っているようなヂリヂリとした声音だ。ご機嫌麗しくはないだろう。
「そうやって嫉妬するくらいなら、最初っから素直になっておけば良いのに。」
「誰が嫉妬してるって言うんですか。」
「フルネームで呼ばれないと自覚出来ない? 伏黒恵くんは世話が焼けるなぁ。」
おどけて言う悟さんに食って掛かろうとする恵くんの、その肩に頭突きをして何とか呼び止める。言葉を封じられた私の苦肉の策だったが、もうそうも言っていられない。銜えていた温泉饅頭を口内に送り込み、ふかふかの皮を突き破り、小豆の味を噛み締め、胃に落とす。肩越しに振り返った恵くんの小綺麗な顔は、明王も斯くやの憤怒相とは行かない迄も、相当苛立たし気にしていた。
「恵くん、糖分を摂って落ち着いた方が良いよ。その温泉饅頭、食べても良いから。」
「そもそも俺が買って来たやつなんですけど。」
「あ。コレ、こし餡だ。」
食べているし。食べているし! 何たる事か。今や私のものである温泉饅頭の一つを、悟さんは遠慮無く一口で平らげていた。
怒気を急速に萎ませた恵くんに代わって、一歩、食べもののうらみを引っ提げて進み出ようとする。力無く挙げられた手で静かに制された。今しも項垂れそうなつんつんとした漆黒の後頭部が、相手にしない方が得策だ、と助言してくれている。
「それにしても、饅頭を食べているとお茶の一つでも欲しくなって来ない?」
「そうですねえ。お饅頭もお茶もこわいので、私はちょっと。」
「落語ですか。」
「そんなにこわいなら安心させてあげようかな。」
悟さんはそう言うなり、恵くんに温泉饅頭の詰まった箱を押し付けた。其所から一列分と一つ、数にして四つの饅頭を、手の平の上へと悪びれずにひょいひょいと移してゆく。
これには我慢ならず、怒声をぶつけるべく息を吸い込む。放つよりも早くに、悟さんは踵を返してさっさと歩き出してしまった。ご自慢の長い長い御御足では此所から出入口迄は一足飛びも同然のようで、黒衣の大きな背中はあっと言う間に見えなくなる。私達の前に姿を現した時と同じ突拍子の無さは、正に神出鬼没と言えよう。拍子抜けした喉からへろへろと、標的の影を見失った怒号が墜落する。
「この、饅頭泥棒。」
「夢子さん、あんまり暴れない方が良いんじゃないですか。」
「大丈夫、大丈夫。硝子さんから貰った鎮痛剤、非合法的な薬なんじゃあないかと思うくらいによく効いて、今は痛みもないから。」
「それは大丈夫とは言わないんですよ。鎖骨、悪化するから大人しくしていてください。」
恵くんは悟さんの相手には慣れたもので、直ぐにも気を取り直したようであった。焦げ付きそうだった気色のすべては、今や鎮静を促すに相応しい静けさをすっかり取り戻している。彼が片腕に抱える紙箱を見詰める。半分以上が未だ残っているとは言えども、空白で出来た二つの列は喪失のさみしさを感じさせた。
私の侘しさを如何感じ取ったのか。恵くんが温泉饅頭の一つを手に取った。徐に包みを半分だけ剥がすと、露になった表面と暫し睨み合っていたが、ややあって。勝手がわからないと言った様子で、躊躇い勝ちに私の口もとに温泉饅頭を近付けて来た。こんなにも決まりが悪そうにしていても頑なに視線を逸らさないのだから、この後輩はいとおしいったらないのだ。
「食べますか。」
「頂きます。」
悟さんにやったような失敗をしない為にも、そろり、と食い付く。私が確りと温泉饅頭を銜えたのを見て、恵くんはゆっくりと手を引いた。饅頭を落としやしないかと気を揉んでいるのか、何度か顎の下に手の平を差し伸べようとしているのが、可笑しくて可愛くてならず、気も口もとも引き締めないと本当に取り落としてしまいそうであった。
優しさが重ね掛けされた饅頭を味わう。そうしていると、この目には、これ迄終始顰められていた恵くんの頬がゆるんでゆくように映った。弾んだ胸が、「もう一個、食べたいなあ。」と我儘をこぼす。もう充分だろうと素気無く断られるかと思いきや、彼の指先は黙々と願いを叶えてくれた。それも一つならず、二つも、三つも。
五つは食べた頃であろうか。饅頭泥棒こと悟さんが、ふた度、出入口に通じる廊下の奥から現れた。上機嫌を隠せずにいる私のほくほく顔で、不在の間に起こった全てを見透かしたらしい。悟さんはにんまりと笑って、恵くんに何某かを耳打ちしている。
「ムッツリ。」
「うるせぇ。あんなの、大っぴらに出来る方が問題だろ。」
小声での短い遣り取りを終えたのち、恵くんの片腕から又もや紙箱を取り去ると、片手に持っていた缶のブラックコーヒーと紙パックのお茶の二つと引き換えにした。
「はい、こわ~いお茶。飲ませてあげな。」
「だから――」
「恵くん、流石に喉が渇いた。お願いいたします。」
「恵。ま~たさっきと同じ問答する?」
言い募ろうとして、ぐ、と堪えて。恵くんは紙パックからストローを押し出して、挿し込み口に突き立てた。私に飲み口を向けながら、「後で殴る。」と低く吐き出された怨嗟は、私達をにこにこと微笑ましげに見守る悟さんに牙を剥いていた。
宥め透かして、茶々を入れられて、世間話に雪崩れ込んで、三人で残りの温泉饅頭を分け合ってとしている内に、結構な時間が過ぎていたようだ。何時の間にか所用を済ませて戻って来ていた硝子さんが、保健室前の廊下に広がる団欒を目の当たりにして、興味深そうに呟いた。
「女が三人集まればかしましい、男が三人集まればたばかる。男二人に女一人だと、何だろうな。」
真っ先に、嬲る、と言う漢字が浮かび上がって来た頭でも、国語の問題を投げ掛けられた訳ではないらしい事だけはおおよそ察せられた。恵くんと悟さんが、私を挟んで顔を見合わせる。
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