jujutsu
name change!
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
これから何か喜ばしい事が起こり得そうだと予感させる、前途を祝福しているかのようにすっきりとした青空である。呪術師の男はこの時、天上を振り仰いでそう確信したのであった。
今や東京都立呪術高等専門学校の学長の地位を得た嘗ての恩師に呼びつけられた時は、一体何事かと訝ったものだが、用向きを尋ねてみれば何の事は無いものであった。話に耳を傾け、懸命に頷き、一言目に反省していると項垂れ、二言目に以後は気を付けると悄気返れば、いとも容易く解放された。自分は潔白の身なのだから当然だ。男は億劫そうに肩や首を回して凝りをほぐす素振りをしながら、学長の強面を思い返して舌打ちを一つした。
兎も角、用事は済んだ。表に出た途端に迎えてくれた陽気はとても晴れ晴れしく麗らかで、斜めになった機嫌を慰撫するような陽射しの柔らかさは、今し方受けた説教の内容をすっかり溶かしてしまった。こざっぱりと身軽になった身体で、男が懐かしのまなびやを闊歩する。校舎を抜け、校庭を横切り、無人の石畳を踏み締める。世界を端から掌握する大偉業に着手するかのような感覚に駆られると、男の征服欲に火が点いた。気を良くしてずんずんと歩みを進めてゆく。待機場所にも用いられる家屋、講堂、武道館と過ぎ去ってゆき、そして、不図立ち止まって、辺りをぐうるりと見回した。――蔵、蔵、蔵。其所は、呪具や呪物、呪術に纏わる事柄が綴られた古書の類いを納め、保管し、時に封印している蔵が密集した区画であった。
陽光におだてられて散歩気分で歩いていたら、随分と奥まったところに来てしまった。男は頭に帰り路を描いて、此所から運転手の待つ駐車場迄の距離の長さに辟易とした。何よりも、壁に塗り込められた漆喰の白は土埃で薄汚れており、何所となく陰気な気持ちにさせる。上向きとなった機嫌の為にも立ち去ろうと、踵を返そうとして。視界の端に小さな影がちらついた。柳の枝から飛び立った葉か何かだろうと、何気無く視線を遣った男の足が止まる。
凝視する。
吟味する。
小さな影は、少女、のものであった。光沢の抑えられた厚ぼったい黒の詰襟にスカートの組み合わせは、呪術高等専門学校の女生徒の制服に相違無い。少女は何か荷物を抱えでもしているのか、足取りを重たそうにしていた。
後ろ姿から可憐なその佇まいに、獲物と定めた草食動物を前にした野獣のように、男が目をぎらりとさせる。しめしめと、舌舐めずりをして思う。此所は一つ、荷物を肩代わりして御礼に良い目を見よう、と。呪術の世界でも有数の名家に生を受け、家格に見合うだけの呪力を宿し、万全に術式を相伝した。そんな自分のコンプレックスと言えば団子っ鼻くらいのものであるが、天は二物を与えず、との言葉通りであるとして、男は寧ろ誇りに思っていた。名告れば大抵の者が道を譲り、望めば大抵の女が付いて来る。今回もそうだと踏んだ男が、掻き立てられた雄の衝動の向く儘に、ずかずかと華奢な背に追い縋る。脳裏に辛うじて引っ掛かっていた、女好きの性質を強く窘める、学長の言葉を踏み散らすようにして。
気配に気付かぬげな少女の肩に届き得る距離迄、目測で残り二十歩。十五歩。男の唇が下心を抑え切れずに歪む。十歩。五歩。ぬうっと手を伸ばす。薄い肩を五指に捕らえ――ようとした横を、大きな影が悠然と追い越して行った。
▼
青天の霹靂と言った具合に肩に何かがぶつかって来たものだから、少女は上手に衝撃を往なせずに前のめりとなった。
何が起きたのかを把握しようと慌てて首をめぐらせる、と――最初に視界いっぱいに広がったのは、黒色をした衣服。それだけならばこの呪術高専には有り触れているが、頭上高くから降って来た軽薄な調子の声が、顔を確かめる迄もなくその正体を告げていた。
「カーノジョ。どこまで行くの?」
「五条先生。」
飛び付いて来た男の名前を言い当てた少女が、彼の胸から肩、肩から顔へと、目線を上げてゆく。
何時だって余裕を湛えている、緩やかな弧を描いた肌理の整った唇。す、と真っ直ぐに通った鼻筋。余分な肉の付いていない涼やかな頬。神秘を感じさせる真白の御髪が、陽光を照り返してちかちかとしている。見惚れていたら目を焼かれそうになって、少女は少しだけ視線を下げた。粋を集めた白皙の美貌の半分を覆う眼帯の奥は、少女にとって未だ見た事の無い秘所となっていた。其所にはきっと、世にもうつくしい宝玉が填まっているのだろう。頼めば見せてくれるだろうか。将又、先生と生徒以外の、特別な関係を築かなければ暴かせてくれないだろうか。そんな迷いが生まれる度に、少女は己の胸のうちに芽吹いてしまった淡い感情を意識する事となるのであった。
「五条先生。近いです。」
「スキンシップ、嫌?」
「嫌ではないですけれど――」
「だよね。で、どこ行き? 先生が送ってあげましょう。」
少女の肩に五条の体温が染む。何かから庇うように肩を抱いて来る仕草が気に懸かりはしたが、逆上せそうな頭では満足に考えが回らない。甘く歌い出す鼓動を押し込めるようにして、少女が風呂敷にくるんだ幾つもの古めかしい和書を掻き抱く。
「ここまで来たらわかるでしょう。書庫までです。」
地上百九十センチメートルの恋しいところから、どっしりと建ち並ぶ蔵へと視線を移す。現在、二人が立っている位置から二戸前向こうに在る曲がり角を折れて行った先、日の射し込まぬ裏手に書庫は建っている。気障りな人けも無く、扉を閉めてしまえば音も漏れず入らずの静謐な空間は読書によく適しているので、少女の気に入りの場所となっていた。
「よく読むね。でも、今度からは自分の部屋で読みなさい。一人だと危ないから。」
「よからぬものが封印されている本もあるから、万が一の時の為に、と言う事ですか。」
「いや。それくらいだったら君にも対処出来るよ。」
つい、と。五条の意識が背後に向かう。釣られて其方を振り返ろうとする少女の首を引きとめたのは、「そう言えば、」と言う前置きであった。
「この間、タブレットで読んでいた少女漫画。あれはもう読み終わったの?」
「あれは――」
息抜きに楽しんでいるので、未だ読み終えていない。
答えを音にする前に、するり。骨張った指先によって小さな頤が掬われた。眼帯越しに視線が絡み合うのを感じて、少女が緊張で息を詰める。その内に、五条は親指の腹を彼女の華脣へと這わせた。下唇のふちをゆうっくりとなぞり上げる。その指先は、ひどく散り易い花弁に触れでもするかのような繊細さを宿していた。
こそばゆさに跳ねる少女の肩を親しみ深く見守って、五条が悪戯っぽく笑う。
「ほら、こんなシーンがあったやつ。」
何て事のない台詞だと言うのに、耳もとに顔を寄せられて低く囁かれると、身体中の血液が沸き立つようであった。一層強く心臓が跳ね上がったのを合図にして、少女は咄嗟に顎に添えられた手を撥ね除けた。
「機嫌悪い?」
「心臓に悪いです。先生は格好良いから、余り近付かれるとどきどきします。」
「可愛い事を言ってくれるね。ときめくなぁ。」
ご機嫌に笑う五条の片腕は、懲りずに少女の肩へと回された儘である。斯様にも距離が近いのは、自分が生徒であるからなのか、彼が女慣れしているからなのか。少女は考えをめぐらせる。めぐらせるが、十以上も年の離れた異性の考えは理解出来ず、如何様な経験を積んで来たかも想像出来ない。飛んでもないひとに恋をしてしまったものだ。
分の悪さに溜息を吐き出したい気持ちを堪えて、少女が一歩を踏み出す。五条もそれに倣う。彼が足並みを揃えてくれるであろう事はわかっていたので、束の間の逢い引きを少しでも長引かせたくて、少女は早鐘を打つ心臓とは反対に殊更に歩調を遅くしたのだが――角を曲がって直ぐのところで、不意にぬくもりが離れた。
「それじゃあ、僕はこの辺りで帰るから。」
書庫はもう目と鼻の先だと言うのに、五条はぴたりと立ち止まり、手なぞを振って少女を見送っている。
てっきり五条の用も書庫乃至はいずれかの蔵にあるものだと思っていた少女は、肩透かしを食らった気分になってしまった。書庫で彼と二人きりになるやも知れない、との期待が必ずしも無い訳ではなかったのだ。落胆が目蓋を重くさせて、思わず半眼となる。
「何か用があってついて来たのではないのですか。」
「え? 無いよ。」
「それでは貴男は一体、何の用でこんな辺鄙な場所まで来たんですか。」
「悪~い狼退治。背後には気をつけなさい。気を抜いていると、頭から食べられちゃうよ。」
含みを持たせた返答を置き去りにして、態とらしい迄に優しい微笑みを浮かべた五条は、来た道をさっさと戻って行ってしまった。謎が益々深まる言動に、少女の首が傾いてゆく。
「この辺りに狼が出るだなんて話、聞いた事がありませんけれど。狸の間違いでは?」
角の向こうに消えた背中へと呟く。その余韻が消えた頃、少女は気を取り直して陰る小道を一人ゆき、書庫の重たい扉を押し開けた。
▼
「――お帰りはあちらですよ。先輩。」
のこのこと後を追って来た呪術師の男は、蔵の一つに身体を寄せて、五条と少女の遣り取りをつぶさに覗き見ていたようであった。注目する余り、逃げ損ねたと見える。
片足を擡げて、ダンッ! と。脅しかけるような音を立てて、蔵の壁――それも男の顔の直ぐそばへとポインテッド・トゥの靴裏をつける。すい、と道の先を指す五条は、頬に真意の掴めぬ薄っぺらな笑みを張り付けていた。一見すると穏便に事を済ませるべく努めている風にも見える。だが、指先からつま先に迄ありありと表れているのは、女癖が酷く悪い事で知られるこの男を書庫には決して近付かせまいとする、攻撃的な意志のみだ。目下の男の魔手を少女を害せぬ遠くへと遣る迄、五条悟はこの場を離れないであろう。
一方的に愉悦を貪ろうとしていた男が、思わず入った邪魔に憤慨する。年長者の威厳を以て、五条、貴様、と鋭く呼ばう。呼ばおうとしたが、言葉は引っ込んでしまった。眼帯が被さっているにも関わらず、五条の睥睨するさまには研ぎ澄まされて静かな剣幕があった。その満ち満ちる迫力で縊られた為である。
「僕も先生なんでね。可愛い可愛い生徒に手を出されちゃ堪らない。さーて、何しちゃおっかなー。」
嬉々とした音を形作った声は、捧げられた仔羊を弄ぼうとする悪魔のようにも見せたのであろう。呪術師の男は顔を空以上に青くした。それから頬を固く強張らせ、喉に悲鳴を絡ませて、這う這うの体で逃げ出した。学生時代に被った数々の苦労が余程骨身に染みていると見える。
よたよたと走り去る背が小さくなり、軈て示した通りに道の先に消え去ったのを充分に確認してから、五条は一度だけ後ろを振り返った。今頃、少女が新たな知識をつけようとしている書庫の在る方向である。
手を出し易く見えるのか、これ迄にも少女を付け狙う影は幾つもあった。秘密裏に遠ざけているのだと、それ等の顛末を世間話として家入に披露した時、ぽつりと言われたのがこの台詞であった。「まるでタカアシガニだな。」。雄のタカアシガニには如何やら、目当ての未成熟な雌が成熟の時を迎える迄その長い脚で囲い込んで、他の雄から守る習性があるらしい。「何にせよ、未成年に手を出す非常識さは持ち合わせていなかったようで安心したよ。」とコーヒーをひと息に呷って、彼女は話を締め括ったのだが――
「――そう。可愛い可愛い生徒、だよ。」
今は、と付け足す日が何時か来るのであろうか。嘗ては、と付け足す将来が何時か来るのであろうか。如何な六眼とて、未来を見通す事は叶わない。
五条は眼帯を少しだけ捲り上げた。晴れやかな青空を、澄みやかな青のキャンバスに映し出す。色素の薄い瞳には痛いくらいにちかりとする空模様であるのに、少女の自分を見上げる潤んだ眼差しの方が、何故だか彼には眩しく感ぜられた。
68/99ページ