jujutsu
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流石はウン十万円もするだけはある。目と指先とで実感するなり、自然と感嘆の溜息が漏れ出た。
上品な艶を帯びて見えるそのワイシャツは、私が着ているファストファッション・ブランドのブラウスの素材と同じ、コットンで編み上げられているらしい。俄には信じ難い事だ。何時ぞやに何着か購入して着回しているのだと言うが、此方のブラウスだって着回しの利くデザインが故にひと月は酷使している。見比べてみると、草臥れる事なくしゃんとしているワイシャツに対して、ブラウスは早くも袖口が毛羽立ち始めていた。成程、ハイ・ブランドにはそれなりの理由があるのだ。胸中で独り言ちながら、感触の方も比べている風を装って毛羽立っているのを撫で付けて誤魔化した。
さわ、さわり。折角の機会だと、夢中になって上等の生地の触り心地を堪能する。頭上から忍び笑いの溶け込んだ声が降って来た。
「なーんか、猫にでもなった気分。」
マウンテンパーカーの前をはだけさせた悟さんは、擽ったそうに小さくちいさく肩を震わせた。壁に背を預けて座る彼の、立てた膝と膝との間にちょこなんと納まった儘、サングラスの向こうの青色を窺う。
呪術師が待機する時に使われる、畳敷きの小部屋。私達二人は其所で身を寄せ合っていた。私は次の任務の打ち合わせの為だが、実際、悟さんが此所に居る謂れが知れない。「ちょっと休憩。」と言って付いて来たが、斯様に胸もとを撫で回されていては気が休まらないのではないか。
それもこれも、野薔薇ちゃんから聞いた、税抜き二十五万円のワイシャツについての話を振った事に端を発する。値段でそんなに違いがあるものなのですか、なんて尋ねてみたら、「触ってみる?」と何所となく浮わついて聞こえる調子で手招きをされたのだ。お誘いを受けた以上、私が満足のゆく迄、乃至資料を携えた補助監督が訪れる迄付き合って貰うのだが――
「触られるの、嫌いかと思っていました。」
「何で?」
「普段からガードが固いので。」
そう。悟さんは、呪霊から攻撃を仕掛けられた時や、呪詛師から反撃を受けた時、その昔に歌姫さんに殴り掛かられた時や歌姫さんに蹴り掛かられた時等、事有る毎にお得意の術式を駆使して猛攻を防ぎ切っている。その気になれば、如何な接触も拒める彼だ。自分が何所迄許されるのか、知りたくなるのも道理だろう。
幾つもの臓器を守護奉る肋骨をなぞり上げる。何の反応も示さないものだから、左の胸に手の平を添えて、心臓の納められている辺りを緩慢に撫でてみる。悟さんはどれだけ胸もとをまさぐられようと、無防備な態度を崩す事はしなかった。呪霊や呪詛師にとっては垂涎の状況だろうなあ、と剣呑な考えがぼんやりと過ってゆく。
「ガード、緩いですね。休憩中だからですか。」
「それもあるけど、これはもっと別の理由からかな。」
「もしかして、私、舐められていますか。」
「ひねくれてるなあ。」
私を見下ろすまなこが、見当違いの方向を向いていると笑っていた。「じゃあ、」一体如何様な理由で? 正解を求める声が喉に詰まる。ワイシャツから滲む体温を十全に受け取った手の平は、熱いくらいで。とくり、と手の中で鼓動が高鳴った気がした。それが何よりもの答えなのだろう。
共鳴した心臓が転び出て来てしまいそうで、口を真一文字に引き結ぶ。仕草一つから、私が感付いた事を読み解いてしまったらしい。間髪入れずに、「そ。」と言う短い肯定の声が唇を撫ぜて来た。澄んだ青色に嬉々とした光が鏤められる。
「好きな子に触られるのは大歓迎、ってコト。」
もっと触って、と甘えるかのようにうっそりと目を細められた。火傷しそうだ。手の平に宿る熱は持て余す程に熱く、それは彼の体温で火照っているのか、自分の体温で焦がされているのかわからないものであった。
対峙した猛々しい獣と距離を取るようにして、悟さんの胸もとから正座した自分の膝の上へと、じりじりと手を逃す。今やワイシャツの質感は皮膚にも記憶にも残っていやしなかった。
「もう良いの?」
「痴漢の憂き目に遭ったので避難します。」
「僕はまだ指一本も触れてないんだけど。」
「琴線にがっつり触れられました。」
弄した言葉遊びが悪かった。これでは、靡いています、と心に素直に告げているようなものだ。気付いた時には、長い脚が腰に絡もうとしていた。急ぎはたいて、檻の閉ざされるのを防ぐ。
「ガードが固いのはどっちなんだか。」
悟さんの唇が尖ってゆくのを、折悪しく挿し込まれた補助監督の足音をバック・グラウンド・ミュージックにして見詰める。私はこれから任務で、此所にはこれから補助監督が遣って来るのだ。何時迄も戯れてはいられない。
彼も其所は弁えているのか、吐息をほどくと、早々にマウンテンパーカーの前を閉じてワイシャツを覆い隠した。只の身支度なのに隔たりが作られた気がするのは、今の今迄触れ合っていたが故の感傷だろう。手の平は未だ熱を帯びて、名残惜しそうにしている。退出するべく徐に立ち上がった悟さんの手が、目の前に垂れ下がる。蜘蛛の糸に取り付く亡者みたいに、咄嗟にひしと掴んでいた。
「この任務が終わったら、私だってガードが緩みますから。」
「枕詞、縁起悪っ!」
一瞬、ぽかん、としていたが直ぐ様にからからと豪快に笑い飛ばされた。腹を抱えて笑う悟さんの手を強く引く事で、もう笑ってくれるな、と抗議をしてみる。敢えなく無視され、補助監督が小部屋に踏み入って来るその時迄、暫く笑い続けられた。
引き切らぬ笑いを喉に押し込めるようにして、悟さんが口もとを押さえる。
「いってらっしゃい。期待してる。」
「いってきます。期待していてください。」
「そう言うニュアンスじゃあないんだけど、ま、いっか。」
去り際に、大きな手が私の頭に置かれた。掻き混ぜるように軽くひと撫でふた撫ですると、黒衣に包まれた背はあっさりと出入口を潜って消えて行った。
任務完遂の良い報告を期待したものと受け取ったのだが、そう言うニュアンスでないのならば、如何言ったニュアンスなのだろう。直近の遣り取りを反芻する。私のガードが緩む、と言うところに懸かっているのだとすると。ガードを緩めた彼に私が何をしたかと言うと――。
思い過ごしやも知れない。それでも、悟さんと入れ違いとなった補助監督から、「顔が赤いですが、体調が優れませんか。」との心配を受ける羽目になったのは言う迄もない事だった。
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