jujutsu
name change!
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こうして真横の席を布巾で清掃していても決してパーソナルスペースを害さないのだから、彼の、「実は潜入捜査中なんすよ。」との言も強ち冗談ではないのやも知れない。それだけのスキルに思えた。では、このベイカー街遊撃隊の一員を雇い上げているシャーロック・ホームズに当たる存在はどのような人物なのだろう、と想像を働かせてみる。この子の献身を無下にしない大人であって欲しい。
「それでは、大変なお仕事を終えた暁には、お姉さんが労いとしてラーメンを奢ってあげましょう。」
「マジで!?」
「マジです。女に二言はありません。」
「そんじゃあ、余計頑張らなくっちゃな。」
割り箸立てや漬物や擂り下ろし大蒜が詰まった容器の位置を細かく直しながら、彼は声を明るくした。聞いているだけで此方の胸も弾むその声が、「っしゃいませー!」と威勢良く張り上げられる。ワンテンポ遅れて遣って来た戸の引かれる音が、彼を連れ去る。
改めて、目の前に置かれた丼を見下ろす。
初めて出会った時に食べたのも、この豚骨醤油ラーメンだった。
▼
その日は北風の吹き荒ぶ酷く寒い日であり、上司からきつく叱責を受けた酷く滅入る日であり、残業に身を窶して酷くくたくたとなった日であった。
あの禿げめ、と心中を悪罵でいっぱいにしながら、冷え切った身体に退勤の解放感と言う油を差し差し帰路に着く。一刻も早く帰って寝たい。それしか願望は無かった、筈なのに。
重たい足をずるずると引き摺って駅へと向かう最中、不図、道に出ている看板が目についた。雑居ビルの一階に入っている、カウンター席のみの小ぢんまりとしたラーメン屋のものだ。幾つかのラーメンの写真が載っているその看板を視認するなり、くうう、と腹が情けない声を出した。胃腑に昼食を上納してから、軽く八時間以上は経っているのだ。無理も無い。
お腹を摩りつつ、看板を確かめる。ラーメン。この時間に食べるには少々気が重い代物だ。況してや家系と呼ばれるこってり系であれば、明日の朝の胃も重くなりそうなものだ。
うんうんと迷い迷っていると、がらり、とドアが引かれた。
「席、空いてますよ。」
頭にタオルを巻いた男の子は、出て来るなり朗らかに言った。屈託の無い、と言う表現がこれ程にそぐう笑顔があるだろうか。
却って後込みさせかねない呼び込みだが、私は誘蛾灯に取っ捕まる蛾宛らにふらふらと店内に導かれる事と相成った。とは言えども、ラーメン屋にそう縁が有る生活を送って来た訳でもない身だ。どれが。良いのか。わからない。
食券販売機の前でまごまごしていると、先程の男の子が横に立った。
「初めてですよね。食べられないものとかあります?」
「無いです。」
「俺のおすすめはコレなんですけど、量多いかも。」
すい、と指先で一つのボタンが示される。確かに、表の写真で見たチャーシュー麺はボリュームたっぷりだった。
彼の年格好を見るに高校生くらいだろうか。年頃の男の子には丁度良いのだろうけれど。
「もう少し軽めのものってありますか。」
「だったらこっちの並盛とか良いかも。迷ったらコレ! って定番のやつなんで。」
チャーシュー麺のボタンから移った先には、豚骨醤油ラーメン、の文字が踊っていた。
「では、それで。」
「作り方はどうします?」
「つくりかた。」
提示された分のお金を入れてボタンを押し込んだ途端、聞き慣れない問い掛けが為された。丸で場慣れしていない事を察してくれたらしい。男の子は、怪訝な顔一つせずに丁寧に応えてくれた。
「スープの味の濃さと、脂の量と、後は麺の固さが選べるんですよ。全部普通にしときます?」
「ええと、そうしたら脂の量は控えて貰っても良いですか。」
「りょーかい!」
元気いっぱいな声で厨房に注文を通すと、十席程しかないカウンター席の奥――戸が開いても風の当たらぬ席を選んで、手の平で指し示してくれた。優しい子だと思った。優し過ぎて、もう少し疲れていたら、その心遣いが沁みに沁みて年甲斐もなくぼろぼろと泣いていたやも知れない。
「コートと荷物、預かるんで。」
「お願いいたします。」
「あ。スーツにスープ撥ねたらマズいっすよね。紙エプロン、使います?」
「有り難う御座います。」
「いえいえ。お冷やとおしぼり、ココ置いときますねー。」
手際良く事を運ぶ男の子からはせっつくような嫌味たらしさは微塵も感じられず、寧ろ掌の上で転がされるような心地好さすらあった。
手を清めて、お冷やをちびりと舐める。
鍋から濛々と立ち上る湯気が店全体の湿度を上げ、ガスコンロの絶えぬ火が暖房に負けじと室温を上げる。悴んだ指先に、次第に血が通ってゆく。ヂリヂリとしたむず痒さを摩る事で誤魔化していると、男の子が傍らで膝を折った。見上げる形で覗き込んで来る顔は、何とも気遣わし気だ。
「外、寒かったでしょ。他のお客さんもいない事だし、暖房の温度、上げます?」
「ええ……いい子……。」
疲労感と空腹感と漸く得られた安堵感が見事なコンビネーションで思考力を削いでくれたのだとは、男の子の首の傾いてゆくさまで察した。
ふやけた脳味噌に告ぐ。それは解答ではない。感想だ。しかも、初対面の客の口から聞かされるとやや気色が悪いと思えるラインのそれだろう。
男の子は未だ首を傾げた儘まばたきを繰り返していて、私の無意識の言葉を飲み込めていないと見える。平謝りして押し切るしかない。
「ごめんなさい。つい。本当にごめんなさい。」
「いや! いい子とか言われたの初めてだから、俺もビックリしたっつーか!」
「こんなにいい子なのに、初めてなんて事はないでしょう。」
即座に罪を重ねるな。
脳味噌と直結してしまった口に冷水をがぶがぶと流し込み、これ以上が無いように強制的に黙らせる。
プラスチックのコップの底がテーブルを打つと同時に、泡を食ったようにしていた男の子はすっくと立ち上がった。ピッチャーを持って来ると、空いたコップを手に取って抜け目なく水を注ぐ。ピッチャーの中に詰められた大量の氷が揺れ、がろがろとした音を立てた。
「お姉さんさ、悪い男に引っかからないようにね。」
それが何と形容したものかわからぬ声音であったから、表情から何か窺い知れないだろうかと、男の子を仰ぎ見る。年の頃を感じさせる柔らかな若い頬を、ひどく穏やかにしていた。高校生が見せるような落ち着きようでは到底なく、私が後、十も二十も齢を重ねたとて出来そうもない老成された微笑み方であった。不思議な男の子だ。外見は如何にも腕白そうなのに、仕草には親しみ易い愛嬌が宿っているのに、何所か大人びて達観して見える。「君は――」。
私は、懲りずに何を言おうとしたのだろう。自制に代わって押しとどめてくれたのは、付け台に丼が載った音だった。自ずから手を伸ばすよりも早くに、私の手の届き易い位置にコップを置くと、男の子は満ち満ちたスープで熱された丼をカウンターへと下ろしてくれた。
「熱い内にどーぞ。身体、あったまるんで。今日もお仕事、お疲れ様です。」
高いところでからりと笑う顔は小春日和の太陽を思わせて、照らされた胸のうちからじんわりとあたたかくなるようだった。
▼
もう一度、彼に会ってみたい。
約二十時間以上が経っても欲求は希釈されず、よりかつえるばかり。仕事よ、早く、早く終われ。そう願いながら過ごす一日は長かったが、網膜に焼き付いた彼の笑顔の輪郭をなぞると、単調な業務も、食べ慣れたコンビニ飯も、禿げの上司の言う事も、何所か別世界のもののように思えた。有り体に言えば、浮わついているのだろう。アイドルを長年追い掛けている友人の気持ちが、今、理解出来た気がする。生活に張り合いが出る、とは斯様な事を言うのか。定時になると同時にタイムカードを打刻するなり、逸る鼓動が脚を急かした。五分も寒風に吹かれると、今日は出勤日ではないのでは、乃至勤務時間帯が異なるのでは、縦しんば居たとしても連日来店したら気味悪がられないか、等と冷えた頭が次々と思考を強要して来るものだから、くだんのラーメン屋の近くに着く頃にはすっかり気弱になってしまった。――確認だけしよう。決めて、通りざまに店内をちらと覗く。ど、と心臓が躍動した。彼の周りには特別な引力が働いているに違いない。接客するその横顔に引き寄せられるようにして、私は何時の間にか店に飛び込んでいた。「いらっしゃいませーッ!」と言う元気な出迎えの文句と共に入口を振り返る彼は、日に何人もの客の相手をしているだろうに、私の顔を見るなり、「お姉さん、昨日ぶり。脂少なめ、後は全部普通で良かった?」と尋ねて来た。抜群の記憶力には舌を巻くしかなかった。だが、直ぐさま、「お姉さん、インパクト強かったから忘れられなくて。」とまったく申し訳無くなる理由が明かされる事となったのであった。
それが、二度目の来店での事。それから朝の胃袋の具合と体重計と相談して、週に三回通い詰めては、気軽に会話出来るくらいの顔馴染みとなった――のだが。
約束を取り付けてから、数日後。店内に踏み込むと予感がした。親とはぐれてしまった子どものように、茫然と辺りを見回す私を見兼ねたのであろう。
「――辞めた?」
寸胴鍋を掻き回して鍛えた逞しい腕でほうれん草を茹でていた店主が、片手間に教えてくれた。彼の事は超短期のアルバイトとして雇っており、昨日を以て契約期間は終えたのだと。加えて、挨拶くらいはしておきたかった、と彼が言っていたとも伝えられた。
この所、長時間の残業を強いられたばかりに、お別れも言えず仕舞いになってしまうとは。新たに配置された大学生に見える男性店員に、くしゃくしゃとなってしまった食券を渡す。何時からか握り締めていたらしい。作り方を口にするのも随分と久方振りで、一音口にする毎に現実感が積み重なってゆく。
お馴染みとなった奥のカウンター席で、随分と慣れ親しんだ出来立ての豚骨醤油ラーメンを啜る。――そうか。もう彼と会う事はないのか。余りにも急な別れだが、人生とは得てしてそういうものだろう。そう納得しようとするが、食べても食べても、ぽっかりとした喪失感は一向に埋まらない。大の好物となった半熟の煮玉子を頬張ってみても、味気無くて仕方が無かった。
自棄になって、無料で提供されている白米を貰おうかと手を挙げようする、と。軽やかに戸が滑る音がした。
「大将、やってる?」
入口から吹き込んだ冷気が、聞き慣れた声を運んで来る。
幻聴? 否。鼓動の高鳴りがそうではないと告げている。丼に伏せていた顔を発条仕掛けの如く跳ね上げて、その勢いの儘に振り返る。黒いティーシャツに前掛けと言う見慣れた格好ではない、改造された詰め襟を着込んだ見慣れぬ姿の彼が、ちゃんと其所に立っていた。何時もタオルを被っていた髪の毛は明るい茶色をしていたのだと気付くと、嬉しいようなさみしいような、得も言えぬこちゃこちゃとした感情が渦巻いた。
思わぬ邂逅に意識が釘付けになっていると。
「あ。居た居た。」
閉店間際のこの時間ともなると他に客は居ない。待ち人とは私の事なのだろう。目もとを人懐こく綻ばせると、彼は一歩を踏み出して、一歩戻って。入口脇に佇む食券販売機に硬貨を入れて、ボタンを押した。吐き出された食券を手に、迷いのない足取りで此方に向かって来る。
「チャーシュー麺大盛、味濃いめ、脂普通、麺固めで!」
客と見て歩み寄った大学生店員に食券を手渡して、はきはきと注文を述べた後、彼は私の隣の席に腰を下ろした。差し出されたおしぼりの封を開けて手を拭き、人心地ついた様子で更に頬を弛ませる。何で創ったものか、両の目の下の小さな傷をぼんやりと見詰めた儘の私に、彼は小さく首を傾けた。
「お疲れ様でっす。」
「お疲れ様、です。」
ぎこちなく会釈を返す。何時もよりずっと距離が近い。少しの身動ぎで肩が触れ合いそうで、どぎまぎする。
目が離せないものだから探り探りコップを手に取って、冷水を口に含んだ。僅かな緊張に負けて上擦る、情けない舌を気付ける。回りの良くなった舌で改めて、彼に問う。
「辞めた、って聞きましたけれど。」
「そ。潜入捜査、終わったんだ。事件解決。」
「それはおめでとう御座います。」
「ありがと。お姉さん、話しかけてくれたりして良くしてくれたしさ。やっぱ、ちゃんと挨拶しときたくて。」
「ラーメンを奢る約束もしていましたしね。」
「そうそう……いや、自分で買っちゃったじゃん!」
大仰に頭を抱えて見せる彼が可笑しくて、つい吹き出してしまう。
「では、その約束は次に会った時に果たします。」
「次、は――」
遠くを見るようにして黙り込んでしまった彼に、嗚呼そうだった、と思い至る。潜入捜査。それが本当だとしても、ごっこ遊びの名前だとしても、何等かの事情を抱えているのだろうと、彼の纏う只ならぬ雰囲気から察せられた筈なのに。
出過ぎた事を言って、ごめんなさい。初めて会った時振りの謝罪を口にする。しようとしたのに。
「そしたら、また来るよ。今度はお姉さんに会いに。」
どきりとした。すてきな口説き文句ですね、なんて茶化しそびれてしまうくらいに。それだけ真っ直ぐな眼差しで、それだけ輝かしい笑顔だったのだ。アイドルからファンサービスを受けたのだと熱く語っていた友人を、私だけは金輪際笑わないと誓った。
頬の非常な熱さをラーメンに火照らされた所為にする為に、箸を持ち直す。底に少し残っていた麺はスープを吸って少しばかり伸びてしまったが、ご愛嬌だろう。一口、二口、啜る。私が麺を全て胃腑に吸い込んだ頃を見計らって、彼はお冷やで潤した口を開いた。
「そう言や、自己紹介まだだったっけ。今更過ぎるけど、俺、虎杖悠仁ね。」
自身を指さして、彼――虎杖悠仁くんは、丁寧にも如何言った漢字を書くのか迄説明してくれた。
「私は夢野夢子です。漢字でこう書きます。」
「夢野さん。夢野さん、かぁ。夢野さん。」
「どう言う感情で人の名前を繰り返しているのですか。」
「良い名前だなって。あとは、お姉さんのコトを知れて素直に嬉しいって感情かな。」
事も無げにさらりと放たれた、台詞。リップサービスにしても、それは先程から負荷の掛かっている心臓で耐え切れるものではない。今度は私が頭を抱える番であった。「どしたの。」、なんて訊かないで欲しい。十もそれ以上も齢の離れている君にときめいています、だなんて告白出来る筈もないのだから。
ごとり。チャーシューが堆く盛られた大盛りのラーメン――店主なりの彼への餞別の心算なのだろう、写真よりもチャーシューの量が大分多い――が、重たい音を立てて付け台に載せられた。喜色いっぱいに丼に向けて手を伸ばす彼の横顔は、年相応で可愛らしい。
手に入れた名前を、早速、呟く。
「虎杖くん。」
「ん?」
「君、これ以上、悪い男にならないようにね。」
「えっと、ゼンショシマス?」
丼からくゆる香しい湯気の向こうで、虎杖くんは曖昧に笑った。
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